2日目・庭園③
***
アルジェを捨て、過去の自分を切り捨てた私は、もはや【安全地帯】など目指さなかった。
振り返れば、入口には未だ三体の【蝗】が血に飢えた羽音を響かせているのだろう。
それに、今戻れば、百合坂に何を疑われるかわからない。
必要なのは、ムダミラを救出したという「成果」――たとえそれが、物言わぬ肉塊であったとしても。
そもそも、助けに行こうと思ったのも、別に彼女のためではない。
私が彼女を殺したようなものだから、その責任を一応果たそうとしただけだ。
でもそれも、アルジェを殺した今となっては、どうでもいいのだが。
私は、何も間違っていない。
この狂った【遊戯】において、命の取捨選択は生存のための至上命題だ。
瀕死のガラクタに寄り添って共倒れになるより、動ける私が生き残る方がよほど生産的ではないか。
足取りは驚くほど軽かった。
底なしの恐怖を克服した全能感が、私の感覚を研ぎ澄ませていく。昨日まで澱んでいた世界は、今や私の手の中にある。
過去の因縁も、臆病な良心も、すべてはあの場所においてきた。
狭い通路に現れた【蝗】を、私は冷徹に葬り去った。
恐怖を失った私にとって、それらはもはやただの虫に過ぎない。
生物学的な弱点を見抜き、的確に【毒針】を打ち込む。案外、脆いものだった。
やがて、開けた空洞の中心に「それ」は転がっていた。
かつてムダミラと呼ばれていた、変わり果てた残骸。
その肉体には、無数の白く細長い卵が、びっしりと産み付けられていた。タイ米のような不気味な球体が脈動し、宿主の養分を吸い尽くしている。
「はぁ……」
思わず溜息が漏れた。わざわざここまで足を運んでやった結果が、この無価値な死体か。
踵を返そうとした、その時。
「よう」
背後から突き刺さるような声。
そこには、黒いポニーテールをなびかせた「お姉さん」が立っていた。
「まさか、お前が化け物側の人間になるとはな。私はてっきり、アルジェの方が先に壊れると思っていたんだが……」
「……何のこと?」
彼女は獲物を観察するように、満足げな歪んだ笑みを浮かべた。
「いいぞ、教えてやろう。この第四回遊戯は、すでに四回戦目だ。十の災いが一度に出現するわけじゃない。私は一回戦目から、この地獄を泳ぎ続けている」
彼女はムダミラの死体に一瞥をくれ、告げた。
「私はお前と同じだ。仲間を裏切り、生き延びた。一度手を染めれば躊躇はなくなり、他者と組むことなどできなくなった。だが、個人の力ではこの【蝗の大群】の本体には勝てない。だから、私は待っていたんだ。私と同じ思考を持ち、私を裏切り、殺そうとすらする……同類をな」
彼女は芝居がかった仕草で天を仰ぎ、射抜くような視線を私に向けた。
「どうだ、結城香澄。私と組まないか?」
差し出された、白く、滑らかな肌の手。
私はそれを、全力で叩き落とした。
「……理由を聞いてもいいか?」
「私は『特別』なんです。あなたのような凡人と肩を並べるつもりはありません」
かつての私なら、喉に詰まって言えなかった言葉。
でも今は違う。私は、選ばれた人間なのだ。
「そうか……困ったな。本性を知られた以上、君には死ぬか協力するかしか道はなかったんだが。……まあ、仕方ない」
彼女が腰の【刀】を抜く。
私は鼻で笑った。この遊戯のルールは理解している。
プレイヤーが傷を負うのは【災い】による攻撃のみ。人間同士の、【能力】同士の殺し合いはシステムが許さない。
「無駄ですよ。その【刀】で私は殺せない」
「……本当に、そうかな?」
彼女の笑みが、冷たく凍りつく。
閃光。
――ザシュッ。
「……え?」
視界が赤く染まった。
自分の肩から、見たこともない量の鮮血が噴き出している。
「な、なんで……っ、あ、あああ!」
「冥土の土産に教えてやろう。この【刀】には、すり潰した【災い】の肉が塗り込んである。核さえ壊さなければ、災いの部位は消えずに残る。これを使えば、システムを欺いて肉を断つことなど造作もない」
「やめて、やめてっ!」
無様に、情けない悲鳴が漏れる。
「……なんだ。自分は怪物になれたと思い込んでいた、ただの子供だったのか、お前は」
心底、がっかりしたような顔で振り下ろされる、無慈悲な一閃。
腰から下の感覚が、ふっと消失した。
「ふぅ。まあ、この辺でいいだろう。私は、自分の手を汚すのは趣味じゃないんでね」
命だけは。命だけは助かった。
その安堵は、続く彼女の行動で絶望へと塗り替えられた。
「あとは、こいつらに喰わせるとしよう」
彼女がパチンと手を叩くと、暗闇の奥からあの忌まわしい羽音が響いてきた。
「【災い】は人間の肉で再生する。極限まで痛めつけ、飢えさせれば、食事のことしか考えない正真正銘の殺人兵器になる。……じゃあな、特別さん」
「待って……お願い、待って……!」
現れたのは、身体を欠損させ、どす黒く充血した複眼を持つ、異形の【蝗】の群れ。
逃げることもできない私の体へ、それらが一斉に群がった。
グシャ。
グシャ。
肉を削ぎ落とされる衝撃。
視界が涙で歪む。
「いや……やめて、私は、特別な……っ。なんで、どうしてっ!」
痛い。熱い。
引き千切られる感覚に、全能感など微塵も残っていなかった。
「私は、とくべ――」
グシャ。
無情に顎が、私の言葉を断ち切った。
「いやあああああああああああ!!」
喉が枯れ果てるような悲鳴。
救いを求めて、震える手を宙に伸ばす。
その先に、かつて裏切った誰かの面影を求めて。
「おかあ、さん」
グシャ。
すべてが、暗転した。
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