2日目・庭園①
***
朝。
覚悟を固めるべき時が来た。
「おはよう、香澄さん」
アルジェが微笑む。不自然なほどに爽やかで、透き通った笑み。
だが、その姿を昨日と同じような眼差しで見つめることは、もう不可能だった。
あの【安全地帯】に、百合坂と――そして、黒い何かを残して、私たちは背を向けた。
***
「ねえ。……迷宮の場所に見当がついているって、どうして?」
昨夜の悪夢が嘘のように、平穏を装った昼の庭園。隣を歩くアルジェに、私はふと、喉の奥に引っかかっていた疑問を投げかけた。
アルジェは事も無げに、予想通りの答えを返した。
「ああ、それもお姉さんが教えてくれたんだ。いい人だよね、お姉さんって」
やはり、そうか。
百合坂の真意を知った今となっては、その「優しさ」は、獲物を罠へと誘い出すための冷徹な布石にしか思えなかった。
だが、今、私たちの手元にある細い糸口は、それしかない。毒が含まれていると知りながらも、その糸を辿るしかなかった。
果たして、【迷宮】はそこに存在した。
迷いのない足取りで進むアルジェと私が辿り着いたのは、地表を抉り取ったような、暗澹たる巨大な縦穴だった。
ふと、嫌な想像が脳裏をかすめる。
奴らの中には、地中深く、卵を産み付けるための「巣」を掘る種類がいると。
湿った土の匂いが、死の予感と共に鼻腔を突いた。
「香澄さん、これを見て……」
アルジェが額にじわりと汗を滲ませ、穴の入り口を指差した。
そこには、赤黒い、粘り気のある小さな溜まりがあった。
「これは……血?」
「多分、ムダミラさんのものだ」
その言葉に、胃の奥が冷たくなる。
彼女の生死は、まだ判らない。だが、この暗黒の奈落に、彼女が引きずり込まれたことだけは確実だった。
「香澄さん、覚悟はいいですか? ここから先は、奴らの喉笛の中です。一瞬の油断が、そのまま死に直結します」
「……誰に言ってるのよ」
強がりが、震える声を辛うじて塗りつぶす。
大丈夫。私は特別だ。そう自分に言い聞かせ、恐怖を無理やり心の隅に押しやった。
「ふふ、香澄さんなら、そう言ってくれると思ってました」
アルジェはもう一度、その歪なほど爽やかな笑みを浮かべると、光の届かない穴の深淵へと、溶けるように吸い込まれていった。
私もその後を追うように、死の迷宮へと足を踏み入れた。
***
迷宮内部を進み始めて、数分。
内部は、拍子抜けするほど静まり返っていた。
【蝗】との遭遇はない。ムダミラの痕跡も見当たらない。
【迷宮】と呼ぶにはあまりに単純な、一本道がただ奥へと続いている。
私たちは歩幅を殺し、慎重に、一歩ずつ闇を切り拓いていく。
「香澄さん、壁に血痕が」
アルジェの声が緊張に強張る。
断続的に続く赤い飛沫は、ムダミラがこの先にいる証左であり、同時に、この闇のどこかに「敵」が潜んでいるという無言の警告だった。
「一本道なら、敵が現れてもすぐ分かります。……少し、雑談でもして気を紛らわせましょうか」
「雑談……?」
この状況で、と反論しようとしたが、極限の緊張で体が強張るのも危険だ。
わずかな緩和が必要なのは、私の方かもしれない。
「香澄さん、昨日言っていた肋骨の骨折、大丈夫なんですか?」
「それが……【毒針】を自分に刺してみたら、麻痺効果がちょうど麻酔代わりになって。それに、【安全地帯】の湧き水に回復効能があったみたい。今は痛みも引いてるわ」
正直、自分に針を刺すのは狂気の沙汰だったが、あの水への確信が私を突き動かした。幸運が、私を繋ぎ止めてくれていた。
「そうですか。それは良かった。……あれ?これは、血痕――ウゲッ……!?」
血痕を発見したのか、地面にアルジェが屈み込んだ、その一瞬、濁った呻きがアルジェの口から溢れた。
「――え?」
目を見開いた私の視界に、現実離れした光景が飛び込む。
何もないはずの土壁から、巨大な、鎌のような「顎」が突き出していた。
それは無防備だったアルジェの脇腹を、無慈悲に深く貫通していた。
一本道。
先が見通せるというその安心感が、致命的な「死角」を生んでいた。奴らは、道の先から来るのではない。壁の向こう側から、獲物が通りかかるのを待っていたのだ。
「アルジェ!! ダメ、戻って! 戻ってあの湧き水を飲めば――!」
私は悲鳴を上げ、脇腹から顎を引き抜いたアルジェを支え、入り口へと押し戻そうとした。壁の中の【蝗】は、土を掻き出すのに手間取っている。今なら、今ならまだ間に合う。
そう確信して振り返った、その瞬間だった。
「キュルルルルルル……ッ!!」
鼓膜を劈く、不吉な羽音。
一本道。
それは、退路を塞がれた瞬間、屠殺場へと変貌する。
光の差し込む出口を背に、巨大な影が立っていた。
圧倒的な質量。逃げ場のない狭隘な空間を埋め尽くす、複数の脚と、飢えた複眼。
奥を見ると、アルジェを刺した【蝗】のように、壁に巨大な穴が空いている。
迷宮の主は、私たちが戻ってくるのを、入り口で静かに待ち構えていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます