断章 アルジェ・クター
***
かつて、僕の頭上には祝福の陽光が降り注いでいた。
一国の王子として生まれ、国民の歓声は子守唄のように優しく私を包んでいた。兵士たちの「次代の英雄」という期待。
それに応えることだけが、僕の存在理由であり、彼らへの愛の示し方だと信じて疑わなかった。
あの日、あの地獄のような戦場に立つまでは。
目の前に広がっていたのは、勇気や戦略が嘲笑われるほどの、圧倒的な「死」の濁流だった。
泥を啜り、血を流しながら、兵士たちは僕を見た。
その瞳には、絶望の淵にありながらも、僕への純粋な、あまりにも残酷なまでの信頼が宿っていた。「殿下なら、私たちを導いてくれる」と。
その光が、僕の胸を鋭く刺した。彼らを救いたい。全員で生きて帰りたい。その想いで喉が焼けるようだった。
だが、現実は冷酷だった。
全員で踏みとどまれば、待っているのは全滅――そして、守るべき国家の崩壊だ。
僕は、自分の心を引き裂きながら、選ばなければならなかった。九割の兵を囮として残し、国の再起のために、泥を被って生き延びる道を。
「行け!」と命じた僕の声は、震えていただろうか。
背後から聞こえる断末魔の叫びを、僕は一生忘れない。彼らの命を削り取って得た数秒の隙に、僕は自分という「国の希望」を運び出した。
それが、指揮官としての、そして王子としての、呪わしいほどの「正解」だったから。
だが、帰国した僕を待っていたのは、温かな労いではなかった。
父上は僕を「同胞を見捨てた卑怯者」と罵倒し、昨日まで私を讃えていた群衆は、掌を返したように石を投げた。
彼らは知らない。あの時、僕があの地を離れなければ、今この国は隣国の蹂躙を受け、灰になっていたことを。
誰も、僕が見た地獄を見ようとはせず、ただ「生き残った」という罪だけを数え上げた。
剥奪された王位。否定された血統。
湿った牢獄の暗闇で、僕を支配したのは怒りではない。ただ、どうしようもない空虚だった。
正しくあろうと、誰よりも国を愛そうと足掻いた結果が、この鉄格子なのか。
自分たちが安全な場所にいるからこそ言える、無責任な正義感。僕が背負った血の重さを知りもしない者たちの、身勝手な断罪。
その時、暗闇の中に【沼】が現れた。
光を拒絶するような漆黒の泥。そこから漂う、すべてを諦めさせてくれるような甘い誘惑。
僕は、自らその深淵へと指をかけた。
心を殺し、愛を捨て、誰も信じない「冷徹な怪物」になれば、もう二度と、あんな裏切りに絶望することもないだろう。
そして、始まった【遊戯】では、もう二度と、誰も愛しはしないと決めた。
愛するから、裏切られた時にこれほど痛むのだ。
……ねえ、香澄さん。
あなただけは、僕のこの無様な「二度目の人生」を、最後まで笑わずに見ていてくれるかい?
世界に捨てられた僕が、今度は世界を捨てるまでの物語を。
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