10.「婚約」

「ついに各国にも渡るのですね……治療薬のポマンダーが」


 塔の最上階から、各国へと向かう馬車の列を眺めながら、私は隣に立つルドルフ様へそう語りかけた。

 荷台にはぎっしりとポマンダーが積み込まれている。その行き先のひとつには、きっと私の国――キュリス王国も含まれているでしょう。


「ああ。弟の治療が成功したことで、ヴァスタの患者と民たちには問題なく薬を渡せるようになった。これからは、全世界へ治療薬を届ける――大げさでもなんでもなく、世界を救う薬となるだろう」


 ルドルフ様は誇らしげにおっしゃった。

 世界を救う――そのスケールの大きさには戸惑いもあります。ですが、開発者のひとりとして、病の恐怖が薄れていく現実を目の当たりにできる今、このうえなく喜ばしいことでもあります。


「……マリー。あらためて礼を言う」


 ルドルフ様は私の方に向き直り、真っ直ぐ頭を下げた。


「弟と民を救ってくれたことを……」

「いえ、アルブレヒト様と民を救ったのは――」

「フッ、これは失礼した。ヴァスタの研究員たちとマリーが力を合わせて薬を完成させてくれたおかげだったな」

「いえ、それもありますが……私が言いたいのは、アルブレヒト様と民を救ったのは完成した薬だけではなく――」


 私は答える。人々を恐怖に陥れたクローナペスト。その病から救い出した本当の“英雄”の名を。


「あなたの思いやりのおかげでもあったのですよ――ルドルフ・フォン・ヴァスタブルク様」

「……うん? どういうことだ?」


 アルブレヒト様の治療が成功してから、私と研究員の皆さんはクローナペストの研究をさらに進めた。そしてとうとう、この病の全容を明らかにしたのです。


 クローナペストの病の正体――それは“細菌による感染症”でした。

 ただし、その細菌は従来のように“身体”に感染するのではなく、“魔力”に感染する、まったく新しいタイプの病だったのです。


 魔力とは、意志の強さや感情の状態から生み出す精神エネルギーと肉体の強さや健康状態から生み出す生命エネルギーを掛け合わせて生じるものであり、それを用いて人は魔法を発動する。

 簡単に言えば――心と体がひとつになったときに生まれるエネルギー。それが、魔力です。


 ところが、クローナペストの細菌はその魔力に感染し、魔力の中で繁殖する。

 感染者は魔力の流れが乱れ、魔法が思うように使えなくなるだけでなく、感情の起伏や精神の安定にも影響が及ぼす。

 そして感情の乱れや精神の不安定さは、やがて肉体にも症状として現れ、体調を崩していく――まさに心と体の両方を蝕む病だったのです。


 私はそれらの研究結果をルドルフ様に説明しました。


「なるほど……まさに“病は気から”というやつだな。皮肉にも世界的流行によって人々の心が荒れ、症状がさらに悪化した者も多かった、そういうわけだな?」

「はい。その通りです。どうりで、除菌魔法を徹底しても、クローナペストが止まらなかったわけです。 

 除菌魔法は、あくまで体内や体表に付着した害ある菌を減らす魔法。魔力そのものを対象とした除菌効果はありませんから」


 魔力から人を死に追いやる病は歴史上これが初。治療薬を作るのが難しかったわけです。


「……では、それがどうして私がアルブレヒトと民を救ったことになるのだ?」

「……今の話を聞いてもまだわからないの、兄さん?」


 背後から、聞き慣れた声がした。振り返ると――


「アルブレヒト……」

「やあ。おかげさまで元気になったよ。と言っても、身体が弱いのは相変わらずだけどね」


 アルブレヒト様がそこに立っていました。

 薬によってクローナペストから回復され、以前よりもずっと表情が生き生きしています。

 とはいえ、生まれつき身体が弱いこともあり、付き添いのメイドであるエリーザベト様が寄り添うように支えていました。

 ……いえ、寄り添うというより、少々――いえ、かなりべったりとくっついているような気もしますが……。

 おそらくアルブレヒト様を案じる、エリーザベト様の深い優しさの表れなのでしょう。それ以外に理由があるのか、ないのか……私には何とも言えませんが。


 アルブレヒト様は続けます。


「僕が病で気が滅入っていたとき、兄さんはいつも僕を励ましてくれた……それに、自分も病にかかるかもしれないのに、何度も面会に来てくれた……」

「兄さんとエリーザベト、そして執事のフクスが支えてくれなければ、僕はとっくに病に屈していただろう」

「それはお前が大事だったからだ。私も、エリーザベトも、フクスも」

「それだけではありませんよ、ルドルフ様」


 今度は、どこからともなく執事のフクス様がにゅいっと現れた。私以外の皆は当たり前のように受け入れていますが、私はフクス様をまだよく知らないので、彼の登場には内心驚きます。


 フクス様は話を続けます。


「ルドルフ様は、ヴァスタの民のみならず、数多くの国へ赴き、病に苦しむ民に寄り添い、時には食料や日用品の支援まで行いました……まさにヴァスタの第一皇子に恥じない功労です!」


 フクス様の言葉に私も続く。


「そうです。私が薬を作れるようになったのは、すべてルドルフ様がこの国へと導いてくれたおかげです」

「すべては、あなたの思いやりの行動があったから……人々の精神は病に屈することはなかったのです。

 だから、自信を持ってください! ルドルフ様!!」


 ルドルフ様が人々を勇気づけなければ、皆の精神はやられ、病による被害が増えていたかもしれません。

 薬とは、体内に入れる物理的なものだけを指すのではありません。

 思いやりや励まし――それらもまた、心の支えとして機能し、病に打ち勝つちからとなるのです。


「そうか……」


 ルドルフ様は、しばし言葉を失い、感慨深げに目を伏せました。

 長い沈黙のあと、ゆっくりと顔を上げ、私に向けて柔らかく微笑みます。


「……思いやりが人を救うというなら、君もそうだ。マリー」

「えっ!?」


 ルドルフ様から思わぬ言葉を聞いた。そして、ルドルフ様は静かに言葉を続ける。


「私が兄としての立場と第一皇子としての立場の間で悩んだときも、君は私の本心を受け止め、寄り添ってくれた……正直、あの時の君の思いやりがなければ、私は心が折れていたかもしれない……」


 私はルドルフ様の言葉を聞き、あの日の夕陽の出来事を思い出しました。

 おそらく、誰にも本心を打ち明けていなかったであろうルドルフ様は、涙を流していました。

 そして、あの時、ルドルフ様の本心を知り、この人の苦しみを本気で救いたいと思った。

 さらには、あの日の抱擁……心がざわつきます。


「それを言うなら……私もですよ、ルドルフ様」


 私もルドルフ様の思いやりで救われたひとり。


「我が家で実験に失敗しても、ルドルフ様は私を信じ、この国へ誘ってくれました……

 そして、薬を完成させるあの計算式――あの式を完成させたのも、ルドルフ様の思いやりの一言があったからこそですよ」


『焦らず、少しずつ進めればいいんだ』――ルドルフ様にとっては、何気ない一言だったかもしれません。ですが、あの一言は、暗闇の道から抜け出す一筋の光となりました。

 もしあの言葉がなければ、薬の完成は遅れていたか、あるいは完成自体がなかったかもしれません。


「……ふむ。ルドルフ様の心が折れそうになったときにはマリー様が支え、マリー様の心が折れそうになったときにはルドルフ様が支える……まるで、良きパートナーのようですな」


 フクス様が、話をいい雰囲気でまとめてくれました。


「うん。そのまま君たち、付き合っちゃえばいいじゃん!」

「「!?」」

「アルブレヒト様、そういう一言は無粋です」


 ……エリーザベト様の言う通り、アルブレヒト様の余計な一言のせいで、私とルドルフ様の間に少しだけ気まずい空気が流れてしまった。


「コホン……それで、マリー。君はこれからどうするのだ?」


 ルドルフ様が一度大きな咳をしてから、話題を変えるように問いかけてきました。


(……これからの私? そういえば、考えていませんでした)


 少し考えたあと、私はルドルフ様に答えます。


「……そうですね。薬が完成した今、私がこの国にいる理由はないのかもしれません」

「……ええっ!?」


 アルブレヒト様が驚きの声を上げた。しかし、ルドルフ様は何も言わず、その青い瞳でただ私をじっと見つめています。


「そしたら、家に戻るだけです。もともと薬草と回復魔法の研究に生涯を捧げることこそ、私の望みでしたから。これからもその道を歩み続けるつもりです」

「あの家が私の居場所ですから……」


 そう。ダス様に婚約破棄されてから、思う存分、研究ライフを送れるようになれたのです。


(これでいい……これが私の幸せのはず)


 そう思っているはずなのに、心のどこかで引っかかる気持ちがあります。

 私はこれ以上、何を求めているのでしょう。


「……そうか」


 ルドルフ様は目を伏せてそう呟いたあと、話を続けます。


「それもそうだな。“技術提携”という名目で私が君をヴァスタに誘ったが……君は本来、他国の身。

 今の君に機密や最新技術をこれ以上触れさせることは、第一皇子として認めることはできない」

「おい! 兄さん!!」

「ルドルフ様! 本当にマリー様を行かせてよろしいのですか!?」

「いいのです……アルブレヒト様、フクス様。ルドルフ様がおっしゃることは正しい『だからこそだ』――」


 その時、ルドルフ様の言葉が私の言葉を遮りました。


「だからこそ……マリー、君が他国の身で――ここに居続けることも研究もし続けることだってできる」

「前置きが長くなってしまったが、ここからが本当に伝えたいことだ」


 そう語るルドルフ様の瞳は、いつもよりもさらに真剣で、その青い瞳に一層の輝きが宿っていました。

 そして――


「私と婚約してくれないか」

「……えっ」


 私は言葉を失った。

 聞き間違いでなければ、ルドルフ様は今確かに――


「私と婚約してほしい……そして、この国に居続けてほしいのだ。私のそばで」


 確かにおっしゃりました。ルドルフ様は、私に婚約を申し出ているのです。


「……えっと……」


 私はまだ言葉を失ったまま。胸がドキドキと高鳴り、頭の中が真っ白になるような感覚です。

 ……なんて答えればいいのでしょうか。


「もちろん、君の意思を尊重する。無理にとは言わない」


 その言葉を聞いたとき、肩の荷が下りるような感覚がして、一瞬悩んでいたことが吹き飛び、自然と口が開きました。


「……はい。ルドルフ様……喜んで、お受けします」


 その言葉を言い終えたとき、頬に涙が伝いました。

 元々、結婚など望んでいなかったのに、今はルドルフ様と結婚できることがこんなにも嬉しい。

 いや、結婚そのものよりも、ルドルフ様のそばに居続けられることが、何よりも嬉しいのです。


「おやおや? 取り越し苦労でしたかね……」


 また背後から、聞き慣れた声がしました。振り返ると――


「ロベルト様……」


 今度は、眼鏡をかけた男性の研究員――ロベルト様がそこに立っていました。

 ロベルト様は眼鏡をクイっと直す仕草をしたあと、話を続けます。


「研究の発展のため、マリーさんの知恵と力をこれからも借りたく……マリーさんにここに残ってもらうことと、ルドルフ様の許可を得るために来たのですが、必要なさそうですね」

「……フッ、そういうことだな」


 そして、ロベルト様が登場してからしばらくして――


「なんと! マリーさんはこれからもヴァスタに残るのですか!?」

「やったぁああ! これからも癒しのヒーリング錬金術師アルケミストと一緒に研究できる――っ!」

「正直、よかったです……マリーさんから学びたいことがまだまだありましたから」

「皆さん、自分ばかり喜んでいないで、マリーさんとルドルフ様の婚約を祝いましょう……マリーさん、ルドルフ様、婚約おめでとうございます!」


 なんと、研究員の皆さんまで登場してしまいました。


「やれやれ、まるで結婚式の勢いで、みんな集まるね……」


 呆れ果てたような顔でアルブレヒト様が答える。しかし、その後、何かを思いついたのか、少し間を置いてから意地の悪そうな笑みを浮かべました。


「結婚式といえば……誓いのキス。キスといえば……やっぱり、最後は幸せなキスでしょ!」

「えっ……!?」

「なっ……!?」


 まさかの、アルブレヒト様の言葉に――


「「……ええっ!?」」


 私とルドルフ様は同時に驚きました。


「馬鹿言え! アルブレヒト! 段階が早すぎるだろう!?」

「でも、兄さん、段階を踏まず、いきなり婚約したじゃん」

「うっ!?」


 ルドルフ様が慌てて反論しますが、アルブレヒト様が即座に論破。慌てるルドルフ様……かわいい。


「だ、だが、そもそも、マリーが恥ずかしがるだろう。こんな全員が注目している中で『私はいいですよ』――」

「……えっ!?」


 ぽかんと口を開けるルドルフ様。……その顔も、かわいい。


「私、人の目はあまり気にしない性格ですし……ここにいる優しい皆さんの前なら――喜んでルドルフ様とキスできます!」


 恥ずかしくないと言えば嘘になりますが、ここにいるフクス様、ロベルト様、研究員の皆さん、アルブレヒト様、そしてエリーザベト様……いずれも優しい人たち。この人たちの前なら、キスを見られてもいいかと思えます。

 ……そして何より、ルドルフ様とキスできることが嬉しい。

 口をぽかんと開けたままのルドルフ様でしたが、私の言葉にやがて柔らかく微笑みました。


「……そうだな。将来の妻がいいと言うのだ。将来の夫としては、応じないわけにはいかないな」


 そして優しく、私の両肩に触れるルドルフ様。


「……準備はいいかな」


 サファイアのような青い瞳で見つめながら、そう尋ねます。

 いざとなると、急に恥ずかしさが増していきますが、それでも、私はゆっくりとまぶたを閉じました。

 そしてしばらくして――私の唇に触れる感触がありました。


 ――fin.

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悪役令嬢だと罵られ、婚約破棄されましたが、喜んで研究ライフ満喫しますわ~ 癒しの錬金術師は薬草と魔法に囲まれた幸福な辺境暮らしを望む~ 朝月夜 @Morning_Moon_Night

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