第二話 The Light That Shouldn’t Exist

 ──ミシガン州アナーバー大学 研究棟


 朝の光が、大学構内の研究棟を淡く照らしていた。

 カフェテリアのテーブルにノートPCを開いたリサ・イースタリングは、画面にかじりつくようにして興奮と好奇心に燃える瞳で笑っていた。

 彼女はストロベリーブロンドのショートカットを揺らし、ブルーの瞳でキラキラとした笑顔を浮かべている。


「パパ、見て! これ、ピースの配信なんだけど、あっ、ピースっていうのはニューヨークの大学に通ってる配信者ね。可愛いんだよ、金髪で雀斑でいたずらっ子みたいな笑顔でさ。それで、その配信にね、新種っぽいトカゲが映ってるの!」


 白衣の上にコーヒーのシミをつけたスコット・イースタリングは、朝日が沁みる目頭を揉み、新聞をめくりながらうめいた。

 白髪混じりの栗色の髪にまるでサングラスかのように老眼鏡を差し込み、ブルーグレーの瞳を軽く瞬かせる。

 細い体は不摂生のため、更に細くなり、Mサイズのシャツですら随分とゆとりがあった。


「……またYouTuberの冗談だろ。どうせ、編集かCGだ」


「違うの! 本当に動いてるの、ほら見て!」


 リサはノートPCをくるりと回して、画面を父の前に突き出した。

 そこには、湖の底に沈むスマートフォンが映し出した、青白く光る巨大な影。

 水泡の向こうに、爬虫類の尾がゆらめいていた。


「……スペリオル湖、か?」


「うん。ピースが祭りのイベント中に撮ったの。

 ネットではフェイクだって言われてるけど、動きが生き物っぽいのよ」


 スコットは新聞を畳み、頭の上へズラしていた眼鏡を掛け直して映像を凝視した。

 眉間に皺を寄せ、しばらく沈黙したあとで、ぽつりと呟いた。


「……もしこれが本物なら、あの湖の生態系が崩壊する」


 スコットはカップの底に残った、エスプレッソかと見紛うほどに濃いコーヒーを見つめながら、ため息をついた。

 このカフェテリアには研究職の人間が多く訪れるため、コーヒーは特濃なのだ。

 その横顔を、リサはいたずらっぽく覗き込む。


「ねえパパ、また徹夜で論文書いてたでしょ」


「父親の生活習慣を監視するのが、娘の仕事か?」


「だって、パパは放っておくと三日くらい寝ないでしょ? ママからも、パパのことをよろしくねって言われてるんだから」


 スコットは小さく笑い、その薄い肩をすくめた。


「君が、母さんに似て……おしゃべりで助かったよ」


「でしょ? でもママはもっと優しかったけどね」


 リサがそう言って笑った瞬間、スコットの目がわずかに曇る。

 テーブルの上、ノートPCの画面ではまだ“ロザリー”の映像が止まっている。

 その青白い光が、二人の横顔をぼんやりと照らしていた。



 ──一〇年前。


 スコット・イースタリングは、ローズ・ホルストと出会った日のことを、昨日のことのようによく覚えている。

 彼女は豊かなブロンドの巻き毛に鮮やかなブルーブラウンの瞳をしていた。大きな瞳に魅惑的な唇、抜けるように白い肌をした彼女はチアリーダーということも有り、構内の人気者だった。


 大学の講堂で、彼女とスコットは隣の席に座りながらも、一言も話さなかった。

 ただ、講義の合間に彼女がノートの端に描いた小さな絵──不細工な犬と、白いスカートの少女を見て、スコットは思わず笑ってしまった。

 それが、二人の最初の会話だった。


 一度別の男と結婚をしていたローズは、一人娘であるリサを連れてスコットと再婚した。

 最初こそ距離を取っていた少女が、ある日突然「ねえパパ」と呼んだ日のことを、スコットはいまでも思い出せる。


 リサが七歳になった年、ローズは事故で静かに息を引き取った。 暴走車が交差点に突っ込んだ、不幸な事故だった。

 リサは家でローズの母が見ており、ローズとその交差点に不幸にも差し掛かった六人が亡くなったのだ。


 研究の発表と、葬儀の日が重なったあの日──スコットは、どちらにも間に合わなかった。

 ローズの両親は彼を責め立て、「娘をあんな男には任せられない」と泣き叫んだ。

 だがリサだけは、静かにスコットの手を握っていた。


「私、パパと一緒にいるよ。将来ね、パパみたいな科学者になるんだ」


 その声だけが、スコットを生かした。

 それ以来、彼は仕事と娘の二つだけを見つめて生きてきた。

 笑うことは減ったが、リサの笑顔を見るたび、ローズの面影が少しだけ蘇るのだった。


 その日から、彼は二つの後悔を抱えて生きている。


 “家族を救えなかったこと”と、“彼の世界を救えなかったこと”だ。



────


 ──ミシガン州 アナーバー大学研究棟


「……パパ、また考えごと?」


 研究棟の冷たい蛍光灯の下で、リサがコーヒー片手に覗き込む。

 スコットは顕微鏡から目を離し、微かに笑った。


「歳を取ると、偏屈になって考えごとしかできなくなるものだ」


「ふーん、じゃあ私が手伝うね。若い脳で」


 モニターには、スペリオル湖の衛星写真が映っていた。

 リサが操作するたびに、画像が拡大されていく。

 湖面の中央には、光の反射とは思えない淡い発光が点々と見える。


「見て。光ってる部分、波紋じゃないよ。これ、何かが水をかき分けてる」


「……自然現象ではない、ということか」


「データ取ってみたいな。もしかしたら、未知の水生爬虫類かも」


 背後で別の研究員が笑った。

 ブルネットの短い髪に低い鼻に丸眼鏡を引っ掛けた、フランス系カナディアンの男性、エリック・ハドソンだった。


「まーたUMAの話? イースタリング教授、娘さんも立派に影響されましたね」


 室内に小さな笑いが広がる。


 スコットは苦笑する。

 だが、内心のざらつきは消えなかった。


──未知の水生爬虫類か……まさか、そんな……。


 だが、“もし本物なら”──この生物の天敵は、存在しないのでは無いか。そんな思いがスコットの胸を占める。



 研究が終わる頃には、外は夕暮れに染まっていた。

 駐車場の向こう、リサが不細工な猫の絵が描かれたトートバッグを肩にかけながら笑った。


「パパ、行ってみようよ。現場を見なきゃ始まらないでしょ?」


「……スペリオル湖に?」


「うん。私、あの光をこの目で見てみたい」


 スコットは少しだけ黙った。

 そして、助手席のドアを開ける。


「……研究者の娘に止めろと言っても無駄だな」


「当然だよ! だって、私、パパに似たんだもん」


 リサは笑って助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。

 その横顔を見ながら、スコットは小さく呟いた。


「まったく……母さんに似すぎだ」


 車が発進する。

 西の空に沈みかけた太陽が、スペリオル湖の方角を血のように染めていた。



────


 ──ミシガン州スペリオル湖沿岸にて


 夕陽が沈む頃、車は林を抜け、湖畔の小さな舗装路に出た。


 湖面は想像以上に広く、まるで海のようだった。

 波の音もなく、ただ風が草を撫でる音だけが聞こえる。


「……静かすぎる」


 スコットが呟くと、リサは助手席から身を乗り出して言った。


「ねえ、綺麗だよ。まるで鏡みたい」


 車を降りたリサは、風に髪をなびかせながら湖岸に立った。スペリオル湖は美しい青色の湖面をゆっくりと波打たせている。

 その水面はほんのりと赤く染まり、夕陽を呑み込むように光っている。

 リサが湖に向かってスマートフォンを掲げる。

 カメラのレンズ越しに見ると、光はただの反射に見える。

 だが、スコットの肉眼には、別のものが映っていた。


 ──水面の下。


 赤い光に照らされながら、何かがゆっくりと動いている。


「……リサ、離れろ」


「え?」


 リサが振り返った瞬間、湖面がわずかに波打った。

 しかし、風は吹いていなかった。見間違いかと、スコットは目頭を揉む。


「湖水のpHと溶存酸素、あと電導度も測ってみようか」


「やめろ、もう日が落ちそうだ。夜の湖は冷える」


「パパ、科学者に夜も昼もないでしょ」


 軽口を交わしながら、二人は機材を降ろし、計測を始める。

 湖水を採取し、温度を測り、光量を記録する。

 リサの動きは正確で、迷いがない。

 まるでこの作業を、何年も前から夢見ていたかのようだった。


「……異常なし、かな」


 リサがそう言って顔を上げた時、スコットは眉をひそめた。


「待て。電導度が変動してる……おかしい。こんな波のような数値、見たことがない」


 リサが覗き込み、息を呑む。

 数値がじわじわと上昇し、また落ち、また上がる。

 まるで、“何かが水を通して脈動している”ようだった。


「……魚の群れとか?」


「いや、それにしては範囲が広すぎる」


 スコットは湖面を見た。

 太陽が完全に沈み、代わりに、どこからともなく淡い青白い光が立ち上る。

 水底から、ぼんやりとした光の粒が浮かび上がっている。


「すごい、ねえパパ、見て……綺麗」


 リサの声は、純粋な驚きと喜びに満ちていた。


 スコットはその横顔を見て、何も言えなかった。

 ただ、湖面を照らすその光が、冷たすぎることに、違和感を覚えていた。


 ──abcモーニング・ニュース。


 画面右下の時刻は午前七時三二分。軽快なジングルが流れる。


『人気配信者“ピース”こと、ノア・ホルボーン氏が、ミシガン州シルバーシティで行方不明になっています。事件の発端は、彼が現地の湖で行った“湖チャレンジ”と呼ばれる配信でした──』


 スタジオのスクリーンに、ノアが湖へ飛び込む映像が映る。

 画面の中のノアは溌剌とした笑顔で湖へと飛び込む。それを何度も繰り返していた。

 ブルネットの髪を結い上げた女性アナウンサーは微笑を崩さず、まるで新作映画の予告を紹介するような声で続けた。


『彼のスマートフォンは湖底で発見されましたが、本人の行方はいまだ不明。映像の最後には、“巨大な影”のようなものが確認されています。視聴者の間では“ロザリー”と呼ばれ、SNSでは世界的な注目を集めています──』


 画面の下を#Rosalie #LakeChallenge #PeaceMissing のタグが流れ続ける。



────


 ニュース番組が終わるころには、ミシガン州スペリオル湖周辺の町はすっかり朝の光に包まれていた。

 通勤客でごった返す駅前。構内の掲示板には、笑顔でピースサインをする青年の顔写真が貼られている。


 ──Missing: Noah Holborne(行方不明:ノア・ホルボーン)

 ──Last seen: Silver City, Michigan(最後に見た場所:ミシガン州シルバーシティ)


 白い紙は、湿気を吸って端が丸まりかけていた。

 ニューヨークのグランド・セントラル・ターミナル構内に貼られた同じチラシ。

 その前で、母親らしき女性が震える手でチラシを配っている。

 ノアに似たブルーの瞳は暗く淀み、目の下のクマは深く、声はかすれていた。


「息子を、見かけませんでしたか? “ピース”って名前で配信してたんです」


 行き交う人々は一瞬だけ立ち止まるが、すぐに足早に通り過ぎる。チラシを受け取る者すら少なかった。

 中にはスマホでチラシを撮りながら笑う若者もいた。


「これ、あのバズったやつじゃん」


「“ロザリー”って名前つけた人だよね? やば、マジで行方不明なの?」


「どうせネタでしょ、今頃スポンサー契約でもしてんじゃね?」


 笑い声とシャッター音が、駅前に残酷なほど軽やかに響いた。


 近くのカフェでは、大学生らしき男女がモニターの映像を見ながらコーヒーを飲んでいた。

 ニュースで流れた“ロザリー事件”を再生し、クスクスと笑っている。


「これ、ガチで食われてね? 最後、光ってたじゃん」


「いやいや、あれCGだって。再生数稼ぎのドッキリ動画」


「でも行方不明って、ニュースで言ってたよ」


「どうせ逃げただけだろ? 大学サボる言い訳じゃね?」


 誰も本気で信じていない。

 画面の中の青年が、確かに“助けて”と叫んでいたことを知っているのに、誰も触れようとはしない。

 無機質な駅の中に、誰かが踏んで靴跡のついたノアの笑顔が舞っている。



 その頃、湖畔では警察と環境局の合同調査が始まっていた。

 ミシガン州環境局とEPC、そしてカナダ環境省の名を冠したテントが並び、

 報道陣のカメラが並んでフラッシュを焚いている。


『EPC(環境保護委員会)は本日、ミシガン州環境局およびカナダ環境省と協議を開始しました──』


 並ぶ三人の代表が、マイクの前で互いを牽制する。


「湖の監視区域は州の管轄だ」


「しかし、流域はカナダ側にも及んでいる。我々の許可なく調査は──」


「我々は水質検査を実施中だ。不要な混乱を避けたい」


 記者の質問が飛ぶ。


「つまり、責任の所在はまだ決定されていないと?」


 三人の口元に、同じような曖昧な笑みが浮かぶ。

 画面下では、また別のテロップが流れていた。


『観光協会、「祭りの再開を予定通り実施」発表』


 それぞれがそれぞれの責任を押しつけ合い、マイクの前で並ぶ役人たちの口調には、誰ひとりとして“人間の死”を語る響きなど欠片もなかった。



────


 ──ミシガン州アナーバー大学 研究棟。


 モニターに映るニュースの映像が終わると、研究室の空気は一瞬だけ沈黙した。

 薄い蛍光灯の光が、スコットの白衣の皺を照らしている。

 彼は無言でカップのコーヒーを口に運ぶ。苦いコーヒーだ。渋みまである。

 スコットが買い置きしている、安いインスタントのコーヒーだった。最後の一滴まで絞るように置いておいて、そのまま忘れてしまうため、いつだって彼の淹れるコーヒーは顔を顰めるほどに苦くて渋い。

 その顰め面のまま、スコットは苦々しく言葉を吐き出す。


「……笑っている場合じゃない」


 スコット・イースタリングは眉間を押さえ、モニターを消した。


「政治の道具にされるぞ。まだ原因も分からないうちに、誰かが数字を稼ごうとしてる」


 その声音は静かだったが、言葉の奥に刺すような怒りが滲んでいた。

 彼の目は、研究資料よりもニュース画面の中に釘づけになっている。

 湖畔のテント、測定器、無表情の役人たち──。

 スコットには、あの冷たい対応の裏に“何かを隠している”気配が、はっきりと見えていた。


「でもパパ」


 隣で教授補佐であるリサが、ノートPCを抱えながら声をかけた。

 そのブルーの瞳は輝いている。恐怖ではなく、純粋な知的興奮に。


「もし本当にあれが“生き物”なら、ものすごい発見じゃない?」


 リサは頬杖をつきながら画面を見つめ続ける。


「未知の生物、環境変異、進化の証拠かもしれない。夢みたいじゃない」


 スコットは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。


「……リサ、お前はまだ、あの動画を“発見”として見ているんだな」


「だって、そうでしょ? もし本当に新種だったら、史上初だよ。

 だって、水棲爬虫類で発光するなんて、地球上にいない。

 ねえ、私たちで調査できないかな。あの湖のデータ、手に入れられたら──」


 言葉を遮るように、スコットはマグカップを置いた。

 小さな音が室内に響く。


「……リサ。

 “新種を発見した”という報せより、“人が一人、飲み込まれた”という現実の方が重いんだ」


 リサは少し黙り込み、唇を結んだ。

 けれど──瞳の奥に宿る光だけは、消えなかった。


「……世界は悲劇を娯楽に変える。君の母さんも、それを嫌ってた」


「でも、真実を見ようとするのは、科学の仕事でしょ?」


 リサはそう言って、再びノートPCを開いた。

 画面には、湖底で沈黙するスマートフォンの最後のフレーム。

 泡の奥に、ぼんやりと光る青い影が映っていた。


「パパの言うことは分かってるよ。でも……それでも、私は確かめたい」


 スコットは、その頑固な横顔を見つめた。

 あの日、ローズがよく見せた表情と、まったく同じだった。



 リサ・イースタリングは、採取したスペリオル湖の衛星観測データをモニターで再生していた。

 画面には、夜の湖面で周期的に点滅する青白い光が映っている。


「パパ、見て。光の波長、普通の自然光じゃないの。生物発光に近いけど、規則性がある」


 スコット・イースタリングは眼鏡を掛け直し、映像を凝視した。

 波長グラフには、まるで心電図のように一定間隔の振幅が現れている。


「波長の周期……〇・四秒。早すぎる。深海性のクラゲでも、こんなテンポでは発光しない」


「呼吸……とか?」


「それにしては、範囲が広すぎる」


 スコットは、衛星データを拡大して湖全体を俯瞰した。

 光は一点ではなく、まるで湖底を這うように広がっていた。


「……生物だとしたら、移動してる」


「ねえ、もしかして、これが“ロザリー”かも!」


 リサの声が弾む。

 スコットは首を振った。


「決めつけるには早い。だが──水中で、何かが周囲の電磁環境を変えているのは確かだ」


「電磁環境……?」


「観測衛星の通信帯と干渉してる。だから、ノイズが出てるんだ」


 モニターには、わずかにざらつく画像ノイズ。

 リサが手を止め、息を呑む。


「つまり、生物が……電気を出してる?」


「もしくは、水中で異常なイオン変動を起こしてる。発光は副産物かもしれん」


 スコットの声がわずかに低くなる。

 “自然”という言葉の外側にある、何かを確信したような響きだった。


 リサはそんな父の表情に気づかず、画面を食い入るように見つめた。

 モニターの中で、光はゆっくりと形を変えながら進んでいく。


「……ねえ、パパ。これが本当に生き物だったら、すごいことだよね」


 スコットは答えなかった。

 ただ、ぼんやりと光る湖面を見つめながら、その“すごいこと”が、人類にとって良いこととは限らない──

 そう、胸の奥で呟いた。

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