第三話 When Science Forgot to Speak
知ることは、祈りに似ている。
どちらも膝をついて始まり──
立ち上がる者は、いつもほんのひと握りだ。
─宗教学者 アンドリュー・ヴァン・クラーク『沈黙の理論』より
────
──ミシガン州アナーバー大学 講堂
二〇二七年四月一五日。
スクリーンには、淡い青のグラフと数値が映し出されていた。
会場を埋め尽くす研究者たちの間に、鉛のような沈黙が落ちる。
「観測地点は、スペリオル湖中央部から東へ約八マイルの深度七二メートル地点。
測定された電導度は一・二〇シーメンス/メートル。
平均値のおよそ七倍に相当します」
スコット・イースタリングの声は低く、抑揚を欠いていた。
スライドが切り替わる。波長データ、時系列グラフ、発光パターン。
画面中央には、青白い光の連続的な点滅が記録されている。
「発光波長は四五〇〜四八〇ナノメートル。
これは既知の生物発光──例えばクラゲや深海魚──とは異なり、
周期〇・四秒の正確な間隔で点滅しています。
自然の呼吸リズムや水流では説明できない、外的制御を示唆します」
その言葉に、ざわめきが起こる。
スコットは、動揺を抑えるように指でスライドの端をなぞった。
「また、同地点では電子機器のノイズ干渉が頻発しています。
磁場強度の変化が原因と考えられます。
この“干渉源”が生物的である場合──私たちは、電磁的適応を持つ新種の水棲生物を発見した可能性があります」
講堂が静まり返る。
誰も拍手などしない。
スコットはそれを当然のように受け入れ、ただ静かに締めくくった。
「……これが、現時点での観測報告です。
人間の理解を超えた現象である可能性を排除できません」
スコットが講堂から出ると、途端にフラッシュが焚かれる。
スコット・イースタリングの視界は白く焼けた。
「教授! 一言お願いします! “ロザリー現象”という呼称、そういうことでよろしいですか!?」
「……私は、その名称を使用していません」
冷静に答えながらも、彼の手はマイクの群れを避けるように僅かに震えていた。
「では、これは生命体による発光だと断定していいんですか?」
「断定はしていません。観測データの範囲で報告を──」
「EPC(環境保護委員会)が“未確認生物の存在を否定”と声明を出しましたが、
教授の研究はそれに矛盾しますよね? つまり、あなたは──」
記者の質問は途中で途切れた。
スコットの表情に、静かな拒絶が浮かんだのだ。
「──科学は、政治声明に従属しません」
一瞬だけ、取材陣が息を呑む。
だが次の瞬間にはまた、質問の洪水が押し寄せた。
翌朝、ミシガン州バーンズ・パーク。
スコットは新聞を開き、眉をひそめた。
前夜、自分が取材を受けたはずの記事は、どこにも見当たらない。
代わりに掲載されていたのは、EPCの声明だった。
『ミシガン州スペリオル湖での発光現象について、現時点で環境への影響は確認されていない。
一部学術報告は“未確認情報”として、掲載を見送る方針』
テーブルの上で新聞が音を立てて折れた。
コーヒーが冷めていく。揺らいでいた湯気はいつの間にか消えていく。
スコットは誰に向けるでもなく呟く。
「……報告が、消された」
その声は、誰にも届かない。
────
──ミシガン州アナーバー大学 本館・理事長室
朝の光が高い窓から差し込み、マホガニーの机に反射していた。
窓の外では学生たちの笑い声が遠くに聞こえる。
だが、その部屋だけはまるで外界と切り離されたように静まり返っていた。
スコット・イースタリングは、理事長アレクシア・クルーガーの正面に立っていた。
理事長であるアレクシアは、その黒人らしい黒い肌に深い皺を刻んでいる。黒く長い髪はツイストでまとめられている。
既に五〇の半ばを数える彼女は苦々しい表情で、その手の中を見つめている。
アレクシアは背筋を伸ばし、手にした封書を見下ろす。そこには“EPC”の文字が刻まれている。
「……スコット、あなたに通達があった」
アレクシアの声は低く、落ち着いていた。
けれど、その声の奥には明らかなためらいがあった。
彼女は指先で封筒を撫でながら、一瞬だけ唇を震わせた。
「この通達を……あなたに渡すのは、……本当に、心苦しいの」
スコットは受け取った封筒を静かに開いた。
中には一枚の通達書が入っていた。
印刷された文字は短く、冷たかった。
『スコット・イースタリング教授による論文“電磁環境変動と未知の生物活動に関する初期観測”は、EPCの審査対象とし、機密保全のため発表停止を求める』
──Environmental Protection Committee(環境保護委員会)
スコットの手がわずかに震えた。肺が、激情に震える。呼吸が妙に熱かった。
論文を発表したのは、ほんの二日前のことだ。
その中で彼は、スペリオル湖で観測された異常な電磁パターンを、未知の生物活動による可能性として提示した。
だが──その瞬間から、世界のどこかで“何か”が動き出していた。
「……これは、政治的圧力ですね」
スコットの声は、掠れていた。
アレクシアは目を伏せ、机の上に手を置いた。
「ええ。EPCだけじゃない。州も、カナダも、……連邦も関わっている。
あなたの研究は……“扱いが難しい”のよ」
部屋の中に、時計の針の音が響く。
スコットは封書を見つめたまま、静かに言った。
「……科学に、“扱いが難しい”なんて言葉はないはずだ」
アレクシアの唇が微かに揺れた。
そして彼女は、まるで自分の心に言い聞かせるように呟いた。
「私も、かつてそう思ってたわ。
でもね……沈黙しなきゃ、守れないものもあるの」
その言葉に、スコットは顔を上げた。
アレクシアの黒い瞳の奥に、怒りと悲しみが混ざった光があった。
────
──ミシガン州アナーバー大学 研究棟
リサ・イースタリングは、いつもより静かな研究棟の空気に、最初の違和感を覚えた。
朝の蛍光灯が白々と点き、コーヒーメーカーのライトだけが点滅している。
だが──誰もいない。
いつもなら、サンプルの匂いとパソコンのファンの音が入り混じっているはずの部屋は、無人のまま冷えていた。
机の上には整理途中のデータシート。
電子顕微鏡のカバーは半分だけ掛かっていて、まるで誰かが途中で手を止めたようだった。
「……おかしいな」
リサはトートバッグを置き、モニターのスイッチを入れる。
けれど、どの端末も“アクセス権限エラー”の赤文字を返すばかりだった。
ドアの方に目を向けた瞬間、喉がひゅっと鳴った。
研究室の入り口に、一枚の紙が貼られていたのだ。
大学の公式印が押された白い紙。
『環境科学部第2研究室 閉鎖通知
研究責任者スコット・イースタリング教授をアーカイブ部門へ異動とする。
関係資料はEPC管理下に移行。』
「……閉鎖?」
呆然と呟いた声は、誰にも届かない。
廊下の先には、人の気配すらなかった。
まるで、この研究室だけが時間を止められたかのように。
リサは指先で通知の端をなぞり、そして駆け出した。
彼女の履いているブーツのヒールが床を叩く音が廊下に反響する。
胸の奥で、何かが警鐘のように鳴り響いていた。
理事長室の扉の前にたどり着いたとき、中から声が聞こえた。
低く、押し殺したような父の声。
そして、それに答える女性の落ち着いた声。
「──沈黙しなきゃ、守れないものもあるの」
扉の向こうのその一言に、リサの足が止まった。
彼女はノックできなかった。
ただ、ドアの前に立ち尽くしながら、父の声がもう一度響くのを待った。
けれど、次に聞こえたのは、椅子の軋む音と、書類を閉じる微かな音だけだった。
そして、理事長室のドアがゆっくりと開く。
そこに立っていたスコット・イースタリングの顔は、
まるで冬の湖面のように静かで、
そして──何も言葉を持たない人の顔だった。
────
「パパ……」
声が震える。
けれど、そのあとに続く言葉は、まるで意識的に選んだように冷たかった。
「……ドクター・イースタリング」
スコットは足を止めた。
理事長室を出て、廊下を歩き出したところだった。
振り返らない。
ただ、一瞬だけ肩が小さく揺れた。
「──帰るぞ、リサ」
低い声。
それだけを残して、彼は歩き去った。
リサはその背中を見つめながら、何も言えなかった。
父の姿は、まるで声ごと取り上げられた亡霊のように見えた。
────
──ミシガン州アナーバー バーンズ・パーク
スコット・イースタリングの家の窓は、昼でもカーテンが閉められていた。
書斎の机には、古いノートパソコンと、配線の束、そして分厚い資料の山。
大学のネットワークは遮断され、アクセスできるのは、ローカルの保存データだけだった。
人生のほとんどを科学者として費やしてきたスコットにとって、それは凄まじいほどの悔しさだった。
スコットは照明を落とし、デスクライトの下で静かに手を動かしていた。
モニターの画面には、波長グラフと、湖の衛星観測データ。
光の点滅周期、ノイズの干渉パターン、電磁変動の記録。
「……“あれ”は、まだ動いている」
彼の声は、独り言というより確認のようだった。
ニュースでは報道されなくなった、“ロザリー”事件。SNSでは未だに面白おかしく取り上げられている。
EPCの会見は打ち切られ、湖畔の調査は“終了”と発表された。
だが、スコットの自室のモニターには、夜のスペリオル湖で、再び点滅を始める青白い光の波が映っていた。
その記録を、彼はUSBに保存していく。
日付を伏せたフォルダの中に、番号だけを振って。
ドアの外から、リサの声がした。
「パパ……コーヒー淹れたよ」
スコットは、しばらく答えなかった。
やがて、小さく息を吐き、かすれた声で言った。
「……そこに、置いておいてくれ」
それだけ。
彼の手は止まらない。
研究は続いていた。
だが、彼が語る相手はもう、誰もいなかった。
夜、バーンズ・パークの住宅街は風もなく静まり返っていた。
リサ・イースタリングは自分の部屋の灯りを消し、薄暗い廊下を抜けて父の書斎を覗いた。
ドアの隙間から、青白い光が漏れている。
父はまだ、モニターに向かっていた。
「……パパ」
返事はなかった。
机の上には飲みかけのコーヒー、乾いた筆記用具、そして見慣れないフォルダ名の並ぶ画面。
スコットの指が、慎重にファイルをコピーしている。
「“Rosalie_Wave_0723”……?」
リサは小さく呟いた。
その声に気づいたのか、スコットが顔を上げる。
やつれた頬、血走った眼。
「リサ……もう遅い、お前は早く寝なさい」
「……パパ、まだ研究してるの?」
「研究じゃない。これは……記録だ」
スコットはそう言って、手元のUSBメモリをポケットに入れた。
その動作には、どこか怯えのような慎重さがあった。
「パパ、EPCが来たら──」
「何も言うな。誰にも、何も」
その瞬間、父の声は掠れており、リサが知っている“ドクター・イースタリング”のものではなくなっていた。
ただの、娘を守ろうとする父の声だった。
────
翌朝。
スコットが出かけたあと、リサは彼の書斎に入った。
机の上には、前夜のコーヒーの跡と、“記録”と書かれたメモ、そしてUSBが一つ。
彼女はそれを手に取って、胸の奥にひどい不安を覚えた。
もし父がこのデータを消されるようなことがあったら──。
リサは自室に戻ると、USBの中身を自身の持つパソコンへと移し、自分のUSBへと移行させる。
スコットのUSBは彼の部屋へと戻す。
リサは自室へ戻り、机の引き出しを開ける。
底板を少し持ち上げると、二重底になっている。
彼女はそこにUSBを滑り込ませ、板を静かに戻した。
「……パパの研究は、私が守るから」
その声は小さかったが、決意の色を帯びていた。
窓の外では、風が木々を揺らし、遠くで雷の音がした。
その夜、スコットは書斎の窓を開けたまま、暗闇の外をじっと見つめていた。
遠くの空には、スペリオル湖の方角に小さな閃光が走っている。
雷ではない。
──あの青白い、脈打つような光だった。
彼はゆっくりと立ち上がり、机の上の資料をひとつひとつ封筒に詰めていく。
ラベルの貼られたファイル。
“Rosalie(ロザリー)”
“Conductivity(導電率)”
“Bioelectric(生体電気)”
そのどれもが、彼の半生と良心の記録だった。
「……科学は、真実を暴くものじゃない。時に、真実を守るものだ」
小さく呟いた声が、闇に溶けていく。
彼の目の奥には、恐れと決意の両方があった。
誰かに消される前に、誰かが嘘を語る前に、自分だけはこの記録を残す。
それが父として、そして科学者としての最後の責任だった。
────
翌朝、リサは書斎に残された父のメモを見つけた。
──データはもう外へ出せない。だが、見つけた者がいる限り、真実は沈まない。
短い言葉。父であるスコットの、縦に長く乱れのない美しい筆跡。
紙の端には、かすかなコーヒーの染み。
リサはそのメモを見つめ、ゆっくりと笑った。
そして、二重底の引き出しに手を触れる。
中には、ひとつのUSB。
「大丈夫だよ、パパ。真実は沈まない」
彼女は引き出しを閉め、椅子に腰を下ろした。
窓の外、薄曇りの空の向こうに、スペリオル湖がぼんやりと光っている。
──それが、人類が“ロザリー”を見た最初の章の、終わりだった。
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