第9話「君は呪われてなんかない」

 王都アストリアへの帰還。

 それは、リナ――ルナにとって、過去の悪夢との対峙を意味していた。

 ミモザ村を発つ日の朝、村人たちが総出で二人を見送りに来てくれた。


「リナさん、行っちまうのかい……」


「王子様、リナさんを頼みましたよ!」


 村人たちは、リナが元聖女であることも、王都で何が起きているのかも知らない。

 ただ、自分たちの村を救ってくれた心優しい薬師と、明るい王子が旅立つのを、寂しそうに見送っていた。


「皆さん、お世話になりました。必ず、戻ってきますから」


 ルナは深々と頭を下げた。

 この温かい村が、彼女に再び立ち上がる勇気をくれたのだ。

 馬車に乗り込むと、隣に座ったリオネスが、固い表情のルナの顔を覗き込んだ。


「緊張しているか?」


「……はい。少し」


「無理もない。だが、忘れるな。君は一人じゃない」


 リオネスはそう言うと、ルナの手をぎゅっと握った。

 その力強い温もりに、ルナの心も少しだけ和らぐ。

 しかし、王都に近づくにつれて、彼女の不安は再び大きくなっていった。

 街道沿いの村々は活気を失い、畑は枯れ、道端に座り込む病人たちの姿が目につく。

 淀んだ空気が、国全体を覆っているようだった。


「これが……今の、アストリア……」


 ルナは、馬車の窓から見える光景に、胸を痛めた。

 自分が王都を去ってから、たった半年。

 国はここまで疲弊してしまったのか。


 私のせいだ……私が、聖女としての役目を放棄していたから……。


 罪悪感が、心の奥で疼く。


「君のせいじゃない」


 まるで心を見透かしたように、リオネスが言った。


「悪いのは、セレーネと、真実を見抜けなかった僕たちだ。君は何も悪くない」


「でも……」


「今は、自分を責めている場合じゃないだろう? 僕たちには、やるべきことがある」


 彼の言葉に、ルナは唇をきつく結んだ。

 そうだ。

 感傷に浸っている暇はない。

 数日後、一行はついに王都アストリアの城門に到着した。

 リオネスの突然の帰還に、城門の衛兵たちは驚きながらも道を開けた。


 追放されたはずのルナを伴っていたため衛兵たちはひどく困惑したが、リオネスが「国王陛下への緊急の報告がある。道を開けよ」と王子としての威厳を込めて命じると、彼らは逆らえず道を開けた。

 馬車はそのまま、王城の中庭へと乗り入れる。

 ルナが、半年ぶりに踏んだ王都の地。

 そこには、彼女を罵倒した民衆の姿はなかったが、代わりに冷たい視線を向ける貴族や兵士たちがいた。


「あれは……追放されたはずのルナ様では……?」


「なぜ、リオネス王子とご一緒に……?」


 ひそやかな囁き声が、ルナの肌を刺す。

 彼女は思わず、リオネスの服の袖を掴んだ。

 するとリオネスは、そんな彼女を守るように一歩前に出ると、集まった人々に向かって堂々と宣言した。


「皆、聞け! 私が連れてきたこの方は、ルナ様だ! この国、唯一の、真の聖女である!」


 その声は、城の中庭全体に響き渡った。

 人々は、あまりにも堂々とした宣言に、どよめきを隠せない。

 そこへ、騒ぎを聞きつけた国王と、第一王子のアルフォンス、そして――聖女の衣をまとったセレーネが現れた。


「リオネス! 何の騒ぎだ! それに、なぜその女がここにいる!」


 国王が、怒りに満ちた声で叫んだ。

 セレーネは、ルナの姿を見ると、一瞬だけ驚きに目を見開いたが、すぐに悲劇のヒロインのような表情を作り、涙を浮かべた。


「姉様……! どうして……。貴女の呪いは、まだ解けていないというのに……!」


 その芝居がかった台詞に、周囲の貴族たちがざわめく。


「やはり、呪われていたのか……」


「危険だ、近寄らない方がいい……」


 人々の囁きを聞いて、ルナの心は再び恐怖に凍りつきそうになった。

 セレーネの暗示は、まだ解けていない。

 彼女の言葉は、今もルナの心を蝕もうとする。

『お前は呪われている』

『お前は不幸を呼ぶ』

 頭の中で、セレーネの声が響く。

 ルナは思わず、その場にうずくまりそうになった。


「――君は呪われてなんかない!」


 その時、リオネスの力強い声が、彼女の耳を打った。

 彼は、震えるルナの前に立つと、セレーネを真っ直ぐに見据えた。


「セレーネ。お前の嘘は、全て暴かれた。お前がルナ様にしたこと、国を欺いた罪、今ここで償ってもらう」


「な、何を……! リオネス様、何を根拠にそのようなことを!」


 動揺を隠せないセレーネに、カイが一歩前に進み出た。


「根拠はあります。貴女が使ったとされる、暗示の魔法。そして、ルナ様が追放されて以降の、この国の惨状。全てが、貴女の犯行を裏付けています」


 カイが冷静に事実を述べると、国王やアルフォンスも、ただならぬ気配を感じ取ったようだ。

 しかし、セレーネはまだ諦めなかった。


「嘘です! 全て、姉様とリオネス様がわたくしを陥れるための嘘ですわ! 本当に呪われていないと言うのなら、証明してごらんなさい!」


 セレーネは叫び、近くにあった儀式用の聖杯を指さした。


「その聖杯は、聖なる力にしか反応しません! 呪われた者が触れれば、たちまち黒く穢れてしまうでしょう! さあ、姉様! 触れてごらんなさい!」


 それは、悪魔の挑発だった。

 ルナは、過去に自分の力が物を壊してしまった記憶が蘇り、動けなくなった。

 もし、本当に聖杯が穢れてしまったら。

 リオネスの言葉も、カイの調査も、全てが嘘になってしまう。


「ほら、できないのでしょう? やはり、貴女は……」


 セレーネが勝ち誇ったように笑みを浮かべた、その時。


「僕が、証明する」


 リオネスが、ルナの前に進み出た。

 そして、彼は何の躊躇もなく、聖杯にそっと触れた。


「殿下!?」


 誰もが息をのむ。

 リオネスは「不運王子」だ。

 彼が触れれば、聖杯は穢れるどころか、粉々に砕け散るかもしれない。

 しかし。

 何も、起きなかった。

 リオネスが触れても、聖杯は静かに輝きを放ったままだ。


「な……ぜ……」


 セレーネが絶句する。

 リオネスは、聖杯に触れたまま、ゆっくりとルナの方を振り返った。

 そして、彼は空いている方の手を、ルナに差し出した。


「ルナ。僕の手を取って」


「で、でも……私が触れたら……」


「大丈夫だ」


 彼の青い瞳は、どこまでも澄んでいた。


「信じろ。君の力を。そして、僕を」


 ルナは、差し出された彼の手を、じっと見つめた。

 この手は、いつも私を支えてくれた。

 この手は、私を幸運の女神だと言ってくれた。

 ルナは、震える手で、おそるおそるリオネスの手に自分の手を重ねた。

 その瞬間。

 聖杯が、今まで見たこともないような、眩い黄金の光を放った。

 温かく、清らかな光が、城の中庭全体を包み込む。

 淀んでいた空気は浄化され、病に苦しんでいた者たちの咳が止み、枯れていた庭の木々が一斉に芽吹いた。


「こ、これは……!」


「なんと、清らかな光だ……!」


 人々は、目の前で起きた奇跡に、ただただ圧倒されていた。

 リオネスは、光の中で微笑んだ。


「ほら、言っただろう? 君と僕が一緒にいれば、奇跡だって起こせるんだ」


 ルナは、自分の手から放たれる温かい光と、握られたリオネスの手の温かさを感じていた。

 ああ、そうか。

 私は、呪われてなんかいなかった。

 私の力は、人を傷つけるものじゃなかったんだ。

 長年、彼女の心を縛り付けていた最後の鎖が、音を立てて砕け散った。

 ルナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 それは、絶望の涙ではなく、再生の涙だった。

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