第18話「救助隊だ! こっちだ!」

第二幕。


夜明け。

御巣鷹の尾根一帯に、白々とした朝霧と、依然として燻る煙が立ち込めていた。


「救助隊だ! こっちだ!」


樺島の怒号が、到着したばかりの自衛隊員と地元の消防団を呼び寄せる。

さゆりの背中から、あかりが担架へと移された。

少女は意識が朦朧としながらも、さゆりの袖を掴んで離そうとしなかった。


「さゆり……おねえ……ちゃん……」

「大丈夫。プロの人たちが来たからね。もう安心よ」


さゆりは泥だらけの手で、あかりの小さな手を握り返し、そしてゆっくりと指を解いた。

担架が運ばれていく。一つの命が、死の山から生の世界へと戻っていく。


それを見届けた瞬間、さゆりの膝から力が抜けた。

ドサリ、と地面に座り込む。


だが、安堵の時間は一瞬だった。


「おい! 君たち! どこの社だ!」


鋭い怒号が飛んだ。

振り返ると、腕章を巻いた県警の広報官と、遅れて到着した他社の記者たちが、鬼のような形相で立っていた。


「東京朝日放送です! 生存者を一名、保護しました!」

高田が誇らしげに報告する。しかし、返ってきたのは賞賛ではなく、罵声だった。


「朝日だと!? 協定はどうなってる! 正式発表前に勝手にエリア内に入りやがって!」

「現場保存はどうするんだ! 遺体を動かしたのか!? 捜索の邪魔だ!」

「抜け駆けして、特ダネ欲しさに遭難者を利用したんじゃないのか!」


フラッシュが焚かれる。

救助者であるはずのさゆりたちに、無数のカメラレンズが「加害者」を見るような冷ややかな眼差しを向ける。


これが、1985年の現実だった。

人命よりもルール。結果よりもプロセス。そして何より、男たちのメンツを潰した「女の単独行」への嫉妬と反感。


山を降り、上野村の対策本部に戻った頃には、事態はさらに悪化していた。

テレビやラジオは、生存者発見のニュースと共に、こう報じていた。


『一部報道機関が、報道協定を無視し、無断で現場へ立ち入った模様です。混乱を招く行為として、当局は厳重に抗議する方針で……』


非難殺到。

「みず、知らず」の他人を助けるために、泥にまみれ、命を懸けた行為が、「無秩序なスタンドプレー」として断罪されていく。


上野村小学校の校庭。

臨時で設置された公衆電話の列。

さゆりは、罵声を背に浴びながら、震える指でダイヤルを回していた。


実家の京都。

呼び出し音が鳴る。


『はい、もしもし……』

母の声だ。


「お母さん……私……」


『さゆり!? あんた、ニュース見たえ! 協定破りて、何したんや!』

母の声は厳しかったが、その奥に安堵が滲んでいた。


「千早は……? 千早は起きてる?」


『……昨日の晩、発作が出てな。ずっと「ママ、ママ」言うて泣いてたんや。今は薬で眠っとるけど……』


さゆりの喉が詰まった。

言葉が出ない。


「ごめん……ごめんね、千早……」


受話器を握る手に、じわりと涙が落ちる。


昨夜、自分はあかりを助けた。

あかりの母親は、命を捨てて娘を守った。

それに引き換え、自分はどうだ。

喘息で苦しむ我が子との「帰る」という約束を破り、危険な山へ入り、他人の子供を背負って這い上がった。


(私は、何をやってるんだろう……)


自問自答が、棘のように胸を刺す。


千早のそばにいて背中をさすってやるべきだったのではないか?

「報道の使命」とか「人命救助」とか、そんな美名に酔って、母親としての職務放棄をしただけではないのか?


世界中から非難され、そして自分自身でも自分を許せない。

シーサイド感を漂わせていた美貌の面影はなく、今のさゆりは、ただの疲れ果てた、罪深い一人の母親だった。


「さゆりさん」


背後から、樺島が声をかけた。

彼の手には、冷えた缶コーヒーが二つ。


「……デスクから電話があった。本社はハチの巣つついたような騒ぎだ。始末書じゃ済まねえかもな」


樺島はコーヒーをさゆりの頬に押し当てた。

「でもな」


彼は、担架が運び込まれた救護所のテントを顎でしゃくった。


「あの子、意識が戻った時、一番最初に言ったそうだ。『さゆりおねえちゃんはどこ?』ってな」


さゆりは顔を上げた。


「外野が何と言おうと、あの子にとってのヒーローは、協定守って指くわえてた俺らじゃねえ。お前だ」


さゆりは缶コーヒーを握りしめた。

冷たさが、熱を持った掌に沁みる。


我が子を裏切り、他人を救った。

その矛盾と十字架を背負いながら、それでも彼女は、ここにある「事実」から逃げるわけにはいかなかった。


「……樺島さん。カメラ、回して」


さゆりは涙を拭い、立ち上がった。

その目には、再びセントバーナードのような、決して揺るがない強さが戻りつつあった。


「私が何を言われようと構わない。でも、あそこで起きたこと、あの母親がどうやって娘を守ったか……それだけは、伝えないと」


非難の嵐の中で、さゆりはマイクを握る。

第二幕。それは、世間との、そして自分自身の罪悪感との戦いだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る