第17話「嘘だろ……あれ、壬生さんか!?」

「うぐっ……!」


ザイルのない急斜面。

しかも背中には30キロ近い体重のあかりを背負っている。

壬生さゆりの全身の筋肉が悲鳴を上げていた。太ももは痙攣しそうになり、指先は岩肌で擦り切れて血が滲んでいる。


だが、止まらない。

四つん這いになり、木の根を掴み、岩の突起に足をかけ、一歩ずつ、確実に高度を上げていく。


「あかりちゃん、大丈夫?」

「うん……さゆりおねえちゃん、がんばれ……」

背中から聞こえるその小さな応援だけが、今のさゆりのエネルギー源だった。


上空から、樺島たちの声が聞こえてきた。

「おい! 何か見えたぞ!」

「嘘だろ……あれ、壬生さんか!?」


懐中電灯の光が、下から這い上がってくるさゆりの姿を捉えた。

泥人形のような姿。だが、その背中には確かに子供がしがみついている。


「マジかよ……」

樺島が絶句した。

「あんな急な崖を、ガキ一人背負ってフリークライミングだと……!?」


高田も目を疑った。

「ありえない……! オリンピック選手だって無理ですよあんなの!」


二人の驚愕の声が、風に乗ってさゆりの耳に届く。

さゆりは顔を上げ、ライトの光に向かって吠えた。


「冗談じゃない! ありえないなんて言ってる暇があったら、信じろよ!!」


その一喝は、地獄の底から生還した者だけが持つ凄みに満ちていた。

「そこにいるんでしょ! 早くロープ投げなさいよ! 引き上げろッ!!」


「は、はいっ!」

樺島が我に返り、慌てて自分たちのザイルを束ねて投げ下ろした。

「高田! 確保だ! 全力で引くぞ!」


「了解です!」


ザイルの先端が、さゆりの目の前に落ちてくる。

さゆりは片手であかりを支えながら、もう一方の手でザイルを掴み、素早くハーネスのカラビナに固定した。


「連結完了! あげて!」


「おうらぁぁぁッ!!」

樺島と高田が、声を合わせてザイルを引く。

男二人の全力と、さゆりの足腰の力が合わさり、二人の体はグイグイと引き上げられていく。


「重てぇ! でも、絶対に離すなよ高田!」

「離しませんよ! 絶対に!」


ズザザザッ……。

土砂崩れの跡を乗り越え、ついにさゆりの手が崖の縁にかかった。


「手ェ貸せ!」

樺島が身を乗り出し、さゆりの腕をガシッと掴む。


「うりゃあああ!!」


最後の一引き。

さゆりとあかりの体が、崖の上へと転がり込んだ。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

さゆりは大の字になって空を見上げた。

隣には、あかりが無事に座っている。


「……戻った……」


「壬生さん……あんた、化け物かよ……」

樺島が膝をつき、信じられないものを見る目でさゆりを見た。

高田は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、あかりに駆け寄った。

「よかった……よかったぁ……!」


あかりは、きょとんとした目で男たちを見回し、そして横たわるさゆりの顔を覗き込んだ。


「さゆりおねえちゃん、すごいね」


さゆりは泥だらけの顔でニカッと笑った。

Wild & CATSのユニフォームではないが、今、彼女は人生で最高の勝利のポーズを決めていた。


「でしょ? 私たち、最強のチームだから」


夜明け前。

御巣鷹の尾根に、最初の生還者がもたらされた瞬間だった。

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