第10話「ロープが……切れてる……」
冷たい岩肌に体を預け、三人は垂直に近い崖を慎重に降りていた。
漆黒の闇の中、頼りはヘッドランプの心もとない明かりと、先行するさゆりが張ったザイル(ロープ)のテンションだけ。
しかし。
「……おい」
二番手を行く樺島が、不審そうに呟いた。
最後尾の高田が、上から声をかける。
「ど、どうしました?」
「……ロープが、軽い」
「え?」
樺島の手元にあるザイル。さっきまで、先行するさゆりの体重と動きを感じさせる確かな「張り」があった。グッ、グッと引かれる感覚が、彼女が生きている証だった。
だが今、そのザイルはふわりと頼りなく垂れ下がっている。
「止まってるだけ、ですよね? 足場を探してるとか……」
高田が希望的観測を口にする。
樺島は答えず、ザイルを数回、強く引いてみた。
合図だ。通常なら、下から引き返す反応があるはずだ。
しかし、ザイルは手応えなく、スルスルと手元に手繰り寄せられてくる。
「な……」
樺島の顔色が変わった。
ズルッ、ズルズルッ。
何の抵抗もなく上がってくるザイルの先端。
そこには、無惨に千切れた断面があった。鋭利な岩角で摩耗したのか、あるいは何かの衝撃で破断したのか。
「ロープが……切れてる……」
樺島が呆然と呟く。
「ひっ……!」
高田が息を呑む。「やっぱり! やっぱり壬生さん、落ちたんじゃ……!」
「バカ言え! まさか……!」
樺島はライトを下に向けるが、光は深い霧と闇に吸い込まれ、底は見えない。
「壬生! おい壬生!! 返事をしろ!!」
樺島の怒号が闇に吸い込まれる。
返事はない。風の音がゴウゴウと鳴るばかりだ。
その頃。
さらに数十メートル下。
「…………っ!」
さゆりは、急斜面の途中に生えた太い木の幹にしがみつき、荒い息をついていた。
心臓が早鐘を打っている。
あと少しで滑落するところだった。
足元の岩が崩れ、体勢を崩した瞬間にザイルが岩角に噛み、プツンと弾けたのだ。
反射的に近くの枝に飛びつき、なんとか宙吊りになるのを免れたが、命綱は失われた。
「……くっ……」
さゆりは切れたロープの端を握りしめ、悔しげに唇を噛んだ。
上を見上げる。遥か彼方、豆粒のような明かりが二つ揺れているのが見える。樺島と高田だ。
(叫んでも……届かない)
風向きが悪すぎる。それに、この距離だ。
彼らは今頃、私が落ちて死んだと思っているかもしれない。パニックになって引き返すか、無謀にも助けに来ようとして二次災害に遭うか。
さゆりは大きく深呼吸をした。
セントバーナードと呼ばれたタフネスさを、今こそ発揮する時だ。
彼女は、持っていたマグライトを口にくわえた。
そして、切れたロープの端を木の幹に結びつけ、残りのロープを自分の腰のハーネスに固定し直す。
もう上には戻れない。下へ行くしかない。
さゆりはライトを外し、上空に向けて大きく三回、点滅させた。
――チカッ、チカッ、チカッ。
そして、大きく腕を回す。
「私は無事! 先に行く!」という意思表示。
声は届かないが、この光なら届くはずだ。
(見て! 樺島さん、高田君! 私はまだ生きてる!)
崖の上。
絶望的な顔で下を覗き込んでいた高田が、叫んだ。
「ああっ! 光が! 下で光が動いてます!」
「なんだと!?」
樺島が身を乗り出す。
暗闇の底で、規則正しく明滅する小さな光。
それはまるで、深海で輝く希望の灯火のようだった。
「……生きてやがった」
樺島が安堵のあまり、ヘルメットを岩にぶつけた。「あの野郎、合図送ってやがる。『無事だ、先に行く』だとよ」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ。しぶとい女だ。ロープなしでフリークライミングに切り替えやがったんだ」
樺島はニヤリと笑い、自らのザイルを握り直した。切れた部分は結び直すには短すぎるが、彼らにはまだ自分たちのロープがある。
「高田! 俺たちも降りるぞ! 壬生に置いてかれるな!」
「は、はいっ! もうヤケクソです! 行きますよ僕は!」
さゆりの送った無言のメッセージは、確かに男たちに届いた。
命綱が切れても、心のザイルは繋がっている。
三人は再び、それぞれの覚悟を胸に、地獄の中心へと降下を再開した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます