第31話 監視下の平穏

 ルーヴェン皇国の保護施設は、一般的な宿舎とも明確に異なっていた。


 廊下は広く、天井は高い。

 壁は白ではなく、落ち着いた灰色で統一されていた。

 装飾は最小限に抑えられ、掲示物もほとんどない。

 視線を引き留める要素が意図的に排されている。


 窓は大きく、外光は十分に入る。

 しかし、開閉する機能は備えられていない。


 カレンは、その廊下を歩いていた。


 着用しているのは簡素な衣服。

 動作を妨げない造りで、装飾性は排されている。

 武器も携行していなかった。


 足取りは一定で、歩幅に乱れはない。

 視線は周囲に気を配るが、過剰に警戒する様子も見せていない。


 廊下の両脇には警備兵が配置されていた。

 一定の距離を保ち、視線を外さない。

 敵意は感じられない。

 存在そのものが抑止として機能していた。


 安全は確保されているが、自由は、別の条件に置かれていた。


 

 医療区画は、さらに無機質だった。


 床は清潔に保たれ、機材は新しい。

 空間には消毒薬の匂いがわずかに残っている。

 皇国軍医と技術士官が待機しており、余分な会話はない。


 カレンへの状態の説明は簡潔だった。

 確認事項のみが読み上げられる。


 右眼の欠損。

 視野は欠けている。


 だが、頭部をわずかに動かすことで死角を補正している。

 その動作は自然で、意識的なものではなく、身体への負担も見られない。


 神経反応、正常。

 判断遅延、なし。

 痛覚反応、基準値。


 軍医の声に抑揚はない。

 事実だけが淡々と並べられていく。


 続いて、訓練場へ移動した。


 広い空間に、移動標的が設置されている。

 複数方向から疑似的な脅威が同時に発生する構成だった。


 カレンは指定位置に立ち、指示を待つ。

 姿勢は崩れず、呼吸も一定に保たれている。


 射撃開始の合図が出る。


 一射目。

 命中。


 標的が動く。


 二射目。

 補正。

 再命中。


 標的は複雑な軌道を描きながら移動を続けるが、カレンの動作に迷いはない。

 射撃の間隔も一定だった。


 表示パネルに数値が並ぶ。


 命中率は戦前の記録とほぼ同一。

 反応速度は規格内。

 判断誤差は確認されない。


 技術士官が短く言った。


「性能低下は確認できません」


 それ以上の補足はなかった。


 

 訓練場を離れた後、通路の一角でカール・リヒターは足を止めた。

 通信室の扉が開き、内部の照明が廊下に漏れている。


 入室し、扉を閉める。


 壁面スクリーンに、一人の男が映し出された。


 白髪混じりの髪。

 表情に感情の起伏はない。

 ルーヴェン皇国軍参謀総長、エーヴァルト・フォン・シュトラウスだった。


「報告を」


「F01=カレンの評価を終了しました」


 数値データが送信される。

 反応速度、命中率、判断誤差。


 エーヴァルトは黙って目を通した。

 

「……想定どおりだな」


「戦前とほぼ同一です」


「右眼の欠損は?」

 

「補正動作で相殺しています。実戦における不利は限定的です」


 一拍の沈黙。


「戦闘には支障なし。戦えば勝つ、か」


「はい」


「だからこそ、危険だ」


 言葉に迷いはなかった。

 評価であり、結論だった。


「処分を求める声があがるのも時間の問題では?」


 カールが不安をにじませた声で言う。


「当然だ。国家は、管理できない兵器を恐れる」


 エーヴァルトは視線を上げ、続けた。


「だが、殺せば済む話ではない。それは失敗の後始末でしかない」


「監視下に置く、と」


「保護としてだ。同時に拘束でもある」


 さらに、淡々と告げる。


「彼女は“撃てない”のではない。“撃たせられない”存在にする」


「了解しました」


 通信は切断された。


 カールは端末を下ろし、廊下へ戻る。

 判断は下された。

 個人の感情が介在する余地はない。

 それが、皇国のやり方だった。


 


 中庭は、よく整えられていた。


 植物は一定の高さで揃えられ、枯れ葉も落ちていない。

 風の通り道まで計算されている。

 静かすぎる空間。


 クラリスとカレンは、石造りのテーブルを挟んで向かい合っていた。

 紅茶の湯気が、ゆっくりと立ち上る。


 クラリスの視線は、無意識にカレンの右側へ向かい、途中で止まる。

 意識して正面に戻した。


「……目、痛くございません?」


 問いは控えめだった。


「痛覚反応は、認識しておりません」


 カレンは即答したが、さらに続けた。


「しかし、違和感はあります。距離の測定に、補正が必要です」


 クラリスは、わずかに目を見開いた。


「それは……大丈夫、なのですか?」


「問題はありません。想定範囲内の補正です」


 クラリスは紅茶に視線を落とした。


「あなたが“問題ない”とおっしゃるとき、わたくしは少しだけ、怖くなります」


 責める響きはない。

 ただ、事実としての言葉だった。


 カレンは一拍置いた。


「以前は、それ以上を伝える必要がないと判断していました」


「以前といいますと、今は?」


「今は……共有した方が適切だと判断します」


 紅茶の表面が、わずかに揺れる。


「平気であることと、無事であることは、同じではありませんわ」


 カレンはすぐには答えなかった。


「理解しています。私は壊れてはいませんが、以前と同一でもありません」


 紅茶のカップを持つ指に、わずかな力がこもる。

 無意識に頬がゆるんでいる。 


「それでも、あなたがここにいることを、わたくしは平穏と呼びたいですわ。仮初かりそめでも」


「仮初であることは、認識しています」


 会話はそこで途切れた。

 無理に続けることはしない。

 静けさだけが中庭に残る。

 心地よい二人の時間が過ぎていった。



 ふいに、背後から声がした。


「おいおい、優雅だな。捕虜生活だってのに、こんな風に紅茶が出るなんてよ」


 ヘルマンだった。

 手をポケットに突っ込み、周囲を見回しながら歩いてくる。


「少なくとも、連邦の尋問室よりはマシっしてことか?」


 クラリスは、ため息を一つついた。


「……もう少し声を抑えてくださいな。ここは、あなたの居宅ではございませんわ」


「細かいこと言うなって。どうせ全部聞かれてる」


 ヘルマンは、そう言って、天井を指さす。


「なぁ、カレン。あんたもそう思うだろ?」


 カレンは、紅茶のカップに視線を落としたまま、ほんの一拍置いた。


「……通信機器のノイズが少し聞こえます」


「ほらな」


 ヘルマンは肩をすくめる。


 そのときだった。


 カレンの口元が、わずかに動いた。


 ほんの一瞬。

 表情と呼ぶには、あまりに小さな変化。


 だが――


「……」


 クラリスが、カレンの顔を見たまま言葉を失う。


 ヘルマンも、動きを止めた。


「お、おい……今、笑ったか?」


「認識できません」


 カレンは、すぐに視線を上げる。


「ただ……あなたの登場は、快適な騒音でした」


 クラリスは、口に手を当て、カレンを見る。

 その瞳が潤んでいた。


「……カレン。あなた、今……」


「何か、問題がありましたか」


 カレンの声はいつもと変わらない。


 だが、二人は理解していた。


 今のは、間違いなく自然な反応。

 演算などではない。


 ヘルマンは、ゆっくりと息を吐く。


「……やれやれ。ルーヴェンに来て、一番の驚きだぜ」


 クラリスは、視線を逸らし、小さく言った。


「……本当に、そうですわ」


 紅茶の湯気が、静かに立ち上る。


 平穏は戻ったように見える。

 だが、それは確定したというには、あまりにも不安定だった。



 午後、将校から正式な説明が行われた。


 外出制限。

 接触制限。

 通信制限。


 言い方は丁寧だったが、選択肢は提示されない。


 クラリスは反論しなかった。

 だが、視線を逸らすこともなかった。


 守られている。

 同時に、囲われている。


 説明の最後に、将校が淡々と告げた。


「彼女は、“戦えない”のではありません」


 一拍置いて、続ける。


「戦わせられない存在です」


 理由の説明はなかった。

 カレンへの評価として言い切られる。


 その場にいた全員が理解した。

 能力、危険性、そして政治的意味。


 夜。


 施設の外灯が一定の間隔で点灯している。


 カレンは一人で立っていた。

 その手にブレイカーⅡ型はない。

 視線の先には警備兵がいる。

 見張られていることを、正確に理解していた。


 カレンは、上空に視線を向ける。

 アルブレア連邦で眺めた空とは違う鈍色にびいろの空。


 しかし、カレンの左目には、空を流れる星が見えたような気がした。



(つづく)

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