第14話「地下に堕ちた美神」

【前回までのあらすじ】

国境の街ザルツァで束の間の休息を取るカイラスとリセラ。カイラスは「レオンは怪物じゃない、治療が必要な患者だ」とリセラに説明した。だがその夜、宿の主人が運んできた食事を口にした直後——

二人の意識は闇に沈んだ。



————————————————————



頭蓋骨の内側から、鈍いハンマーで殴られているような痛み。


そして、胃の底からせり上がってくる強烈な吐き気。



「……ぐ、ぅ……」



俺は冷たい石の床に額を押し付けたまま、うめき声を上げた。


意識が覚醒すると同時に、不快な感覚が一気に押し寄せてくる。


これは二日酔いじゃない。


麻酔薬——


おそらくエーテル系の吸入麻酔による急性中毒症状だ。



(クソ、頭が割れそうだ)



重い瞼をこじ開ける。


視界はまだぼやけているが、鉄錆の臭いと、カビた藁の臭いが鼻をつく。


鉄格子。石壁。そして、薄暗い松明の明かり。 典型的な地下牢だ。



「カイラス!」



悲痛な声が響いた。


鉄格子の向こう、通路を挟んだ向かいの牢に、リセラの姿があった。


彼女も床に倒れていたようだが、俺の声に反応して鉄格子にすがりついている。


怪我はないようだが、顔色は紙のように白い。



「リセラ……無事か」



「あ、ああ……でも、剣が……」



彼女の腰にあったはずの“母の剣”がない。


俺の懐にあったゴルガ戦の賞金も、当然ながら消えていた。


身ぐるみ剥がされたわけではないのが、不幸中の幸いか。



「目が覚めたか、『眠りの美神(アドニス)』」



コツ、コツ、と硬い靴音が響く。


通路の奥から現れたのは、あの宿屋の主人……ではない。


上質なスーツを着崩した、痩せぎすの男だ。


その背後には、例の爬虫類人(リザードマン)と、数人の屈強な兵士が控えている。



「俺はこの街の『流通』を仕切っているザガンという者だ」



男は鉄格子の前で立ち止まり、値踏みするように俺を見下ろした。



「アドニス、お前の噂は聞いている。人を眠らせる不思議な術を使うそうだな?」



「ただの手品だ」



俺は壁に背を預けて体を起こし、虚勢を張る。


まだ指先の震えが止まらない。


筋弛緩剤の効果は抜けているが、麻酔のハングオーバーが酷い。



「手品、ね。まあいい」



ザガンはニヤリと笑った。



「西の国境で、お前のような美しい男を欲しがっている貴族がいてな。


それに、そっちの『狂姫』。闘技場のスターは、裏オークションの目玉になる」



「ふざけるな」



リセラが鉄格子越しに睨みつけるが、ザガンは鼻で笑った。



「無駄だ。このアジトは地下深くにある。


叫んでも誰も助けに来ないし、魔法封じの結界も張ってある」



ザガンが俺の方に向き直る。



「お前のその『術』が魔法なら、ここじゃ使えない。


もし薬学の類だとしても、道具がなきゃただの凡人だ」



「分析ご苦労なことだ」



(『処方箋』の力はそもそも魔法なのか?


いずれにしろ、今の俺には『処方箋』を発動する気力も、体力も残っていない)



ザガンが部下に何か指示を出そうとした、その時だった。



ズドン!!



地下牢全体が揺れるような、凄まじい衝撃音が響いた。


天井からパラパラと砂塵が落ちてくる。



「な、なんだ!?」 ザガンが狼狽える。



「敵襲です! 正面ゲートが突破されました!」



「はあ!? ここの場所は極秘だぞ! 誰だ!」



通路の奥、階段の方から、兵士たちの悲鳴と怒号が聞こえてきた。


金属がぶつかり合う音。何かが砕ける音。


そして——



「姉弟子ぃぃぃぃ!!」



空気を震わせるような大音声。


俺とリセラは顔を見合わせた。


その声には聞き覚えがありすぎた。



「レオン……!?」



リセラの顔が、恐怖と安堵がない交ぜになった複雑な表情に歪む。



ドカッ! 階段の扉が蹴破られ、一人の金髪の青年が飛び込んできた。


返り血で服を赤く染めているが、その表情は——


満面の、屈託のない笑顔だった。



「探しましたよ。姉弟子!」



「ひっ……!」



リセラが小さく悲鳴を上げて後ずさる。


レオンは、立ち塞がる兵士たちを、まるで枯れ枝を払うように薙ぎ倒していく。


速い。 俺の動体視力では剣の軌跡さえ見えない。


剣聖直伝の剣技。そして何より、迷いがない。


“姉弟子を助ける”という一点のみに集中した、純粋な暴力。



「貴様、何者だ!」 ザガンが叫ぶ。



レオンはザガンを一瞥もしなかった。


彼の視線は、リセラだけに固定されている。



「姉弟子、今そこから出しますね。……おい、そこをどけ。姉弟子が見えない」



「やっちまえ!」



ザガンの合図で、リザードマンと残りの兵士が一斉にレオンに襲い掛かる。


だが、レオンは止まらない。


右へ、左へ。最小限の動きで攻撃を躱し、正確に急所を突いていく。



(強い。強すぎる)



これが「ASD由来の過集中」による戦闘能力か。


周囲の状況などお構いなし。


ただ“ルール(姉様の救出)”を執行するマシーンだ。



あっという間に、立っているのはザガンとリザードマンだけになった。



「くそっ、化け物か!」 ザガンが後ずさる。



「いまその邪魔な鉄格子を壊します、下がっていてください」



レオンは平然と問いかけながら、ザガンに歩み寄る。



勝てる。 そう思った瞬間だった。



——キキッ



リザードマンが、懐から奇妙な水晶を取り出した。


紫色の光を放つ、歪な結晶体。



「……!」



嫌な予感がした。 俺は咄嗟に耳を塞ごうとした。



キィィィィィィィィィィィィィィン!!



鼓膜を突き破るような、超高周波の金属音。


水晶が共鳴し、地下牢という閉鎖空間で反響増幅される。



「ぐっ……!」



俺は激痛に顔をしかめた。頭痛が悪化する。


だが、耐えられないほどではない。



しかし——


レオンは違った。



「あ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」



レオンが剣を取り落とし、両手で耳を塞いでその場にうずくまった。


白目をむき、泡を吹いて痙攣している。


尋常ではない反応だ。



(そうか、聴覚過敏(ハイパーアカシス)か……!)



ASDの特性の一つ。特定の音に対して、極度の苦痛やパニックを感じる症状。


この地下牢の反響音は、彼にとって脳を直接ミキサーにかけられるような激痛なのだ。



「へへっ、やっぱりな!」



ザガンが勝ち誇ったように笑う。



「こいつの動き、音に敏感すぎた。足音一つで反応しやがるからな。


耳が良いってのは、こういう時は弱点になるんだよ!」



「あ、が、あぁ……!」



レオンは床を転げ回り、もはや戦うどころではない。


完全に無力化されている。



(嘘だろ)



俺は呆然と立ち尽くした。


ほんの数秒前まで“最強の救世主”だった男が、たった一つの「音」で、無残な肉塊のように転がっている。



希望が、一瞬にして、手のかかる巨大な「絶望」へと変わった瞬間だった。


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