第2話 図書室の彼女
楓の事件から、三日が過ぎた。
私は、まだ慣れない。
廊下ですれ違うたび、彼女の首が傾いている。
でも、誰も何も言わない。
この学園では、それが普通なのだと。
瑠花は、そう言った。
放課後。
私は図書室に向かった。
静かな場所が欲しかった。
考えを整理したかった。
重い扉を開けると、古い本の匂いがした。
書架の間を抜けて、奥の席へ。
そこに、彼女がいた。
窓際の席。
制服姿の少女が、一冊の本を読んでいる。
長い黒髪。
背筋を伸ばした、綺麗な姿勢。
私は、少し離れた席に座った。
鞄から教科書を取り出す。
でも、文字が頭に入らない。
気づけば、その少女を見ていた。
彼女は、微動だにしない。
本を読んでいる——ように見える。
でも、ページをめくらない。
ずっと、同じページを見つめている。
五分。
十分。
私は、不思議に思った。
そして、声をかけた。
「あの……」
少女は、反応しない。
「すみません」
もう一度、呼びかける。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
目が合う。
彼女の瞳は、深い灰色だった。
「……何か?」
声は、静かだった。
「いえ、その……ずっと同じページを読んでいるようだったので」
少女は、本を見下ろした。
「そう?」
彼女は、初めて気づいたように呟いた。
「私、ずっとここにいたの」
ずっと?
「どれくらい……?」
「わからない」
彼女は、微笑んだ。
でも、その笑みには温度がなかった。
「あなた、転入生ね。紬さん」
「はい。あなたは……?」
「詩織」
彼女は、本を閉じた。
「三年生よ」
それから、私は時々図書室に通うようになった。
詩織先輩は、いつもそこにいた。
同じ席で。
同じ本を開いて。
話しかけても、返事は短い。
でも、嫌がっている様子はなかった。
ある日、私は尋ねた。
「先輩、その本……何を読んでるんですか?」
詩織先輩は、表紙を見せた。
『失われた時を求めて』
「好きなの」
「……何度も読んでるんですか?」
「そうね」
彼女は、また本を開いた。
「何度も、何度も」
その日の帰り際。
司書の教師が、私を呼び止めた。
「紬さん」
彼女は、眼鏡の奥の目で私を見た。
「詩織さんと、仲良くなったの?」
「はい……まあ」
「そう」
教師は、本棚を整理しながら続けた。
「詩織さんはね、三年前に亡くなったの」
私の手が、止まった。
「……え?」
「病気でね。入院先で、静かに」
教師は、淡々と話す。
「でも、ここにいるでしょう?」
私は、何も言えなかった。
「詩織さんを愛した子が、まだいるから」
教師は、私を見た。
「だから、戻ってこれた」
楓と、同じ。
死んでも、愛されているから。
「誰が……詩織先輩を?」
「さあね」
教師は、肩をすくめた。
「本人も知らないかもしれない。でも、確かに誰かが愛してる」
私は、窓際の席を見た。
詩織先輩は、まだそこにいた。
本を読んでいる。
いや——読んでいるふりをしている。
私は、探し始めた。
誰が、詩織先輩を"残している"のか。
図書室の貸出記録。
詩織先輩のクラス名簿。
卒業アルバム。
でも、手がかりはない。
ある日、図書室の隅で古い日記を見つけた。
革張りの、小さなノート。
中を開くと——
「詩織先輩は、私だけのもの」
最初のページに、そう書かれていた。
筆跡は、丁寧で、几帳面。
でも、文字が震えている。
ページをめくる。
「今日も先輩は図書室にいた。私の視線に気づかない。それでいい」
「先輩が他の子と話していた。許せない。でも、黙っている」
「先輩が笑っていた。誰かのために笑っていた。私のためじゃない」
日記は、どんどん狂っていく。
文字が乱れ、インクが滲んでいる。
「先輩が病気になった。入院した。私のせいじゃない」
「お見舞いに行けない。でも、ずっと考えてる。ずっと」
「先輩が死んだ。でも、いい。これで誰にも取られない」
私は、息が苦しくなった。
これは——
「先輩は図書室に戻ってきた。私の愛が、呼び戻した」
「先輩は、ずっとあの席にいる。誰とも話さない。私だけを見てる」
「私だけのもの。永遠に」
最後のページ。
そこには、新しいインクで書かれていた。
「新しい子が来た。紬という名前」
「紬が、先輩に話しかけている」
「許さない」
そして。
「紬も、私のものにする」
私の名前。
私の名前が、書かれている。
日記を持つ手が、震えた。
誰が書いたんだ。
誰が——
「それ、どこで見つけたの?」
背後から、声がした。
振り向くと、詩織先輩が立っていた。
いつもの席を離れて。
初めて、彼女が動いた。
「先輩……」
「その日記」
詩織先輩は、私の手元を見た。
「読んじゃったのね」
私は、後ずさった。
「先輩、これ……」
「私も知らなかったの」
詩織先輩は、静かに言った。
「誰が私を愛してるのか」
彼女の目に、初めて感情が浮かんだ。
悲しみか。
諦めか。
「でも、今わかった」
「誰、なんですか」
私は、震える声で尋ねた。
詩織先輩は、微笑んだ。
「あなたよ、紬さん」
私の心臓が、止まった。
「違います。私じゃ——」
「いいえ」
詩織先輩は、首を横に振った。
「あなたが私を見た瞬間から、私は気づいてた」
彼女は、一歩近づく。
「あなたの目。あの子と同じ目をしてる」
「あの子?」
「日記を書いた子」
詩織先輩は、私の手から日記を取り上げた。
「この子は、もういない。卒業して、この学園を出ていった」
「じゃあ……」
「でも、あなたが来た」
詩織先輩は、ページをめくる。
「だから、私はまだここにいられる」
私は、理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
「私は、先輩のことを——」
「愛してるでしょう?」
詩織先輩は、静かに言った。
「まだ気づいてないだけ」
その夜。
寮の部屋で、私は日記のことを考えた。
あれは、誰の日記だったんだ。
そして。
私の名前が、最後に書かれていた。
まるで——
まるで、私がこれから書き継ぐかのように。
翌日。
図書室に行くと、詩織先輩はいつもの席にいた。
本を開いて。
私を待っているように。
私は、席に座った。
詩織先輩の向かい。
彼女は、顔を上げた。
微笑んだ。
日記の最後のページに、私の名前が書かれていた。
そして私は、それを消さなかった。
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