第1話:2050年、渋谷



 渋谷スクランブル交差点を飲み込むように、巨大な龍の頭蓋骨が顎門を天に向いて開いていた。 


 ──二〇五〇年、七月。東京、渋谷。


 朝七時、渋谷スクランブル交差点。

 夏の太陽はすでに上りかけの位置にあって、じんわりと暑い日差しを交差点に投げかけていた。巨大な龍の真っ白な牙が夏の陽を弾き、交差点に影を落とす。

「早く……早く……」

 少女は赤になった信号を見つめながら、祈るように呟いていた。暑さと焦りで、顎下から汗が滴る。急がないと。暑い。早く変わって。思わず足踏みをしたくなるような、たまらない時間。

 約束の時間まで、あと十分もない。身分的には学生かもしれないが、アイシャは社会人でもあった。


「──青!」

 これからの面談が自分の借金返済の報告だとしても、時間厳守が社会人の鉄則だとアイシャは思っているし、そんな社会人になりたいと思っていた。

 久我山くがやまアイシャ——今年で十六歳。
 黒く長い癖っ毛に、褐色よりも柔らかく、ミルクティーを思わせる滑らかな肌。はっきりとした目鼻立ちに長いまつげが影を落とし、少し高めの鼻梁が光を反射する。異国の香りを帯びたその顔立ちは、本人が思う以上に人目を引く。
 そして、その視線の高さは隣に並ぶ男性よりも上にあった。身長一七六センチのスラリとした体躯は、高等部のセーラー服越しにも凛とした線を描いていた。

 青になった交差点に、少女が駆け出す。

 雲ひとつない快晴の元で、青になった交差点に人々がぞくぞくと足を踏み入れる。群衆の歩みは群をなすムクドリのようで、混沌としながら秩序があった。それでも、アイシャにとってはさながら動く壁のようなもので、ぶつからないように歩くだけでも苦労する。

 息継ぎをするように見上げた交差点の上空には、二重、三重に浮かぶホログラフィック広告がずらりと並んでいた。

 中空の透明なパネルは、渋谷の目のように交差点を見下ろしている。

 広告に混じって、天気予報と龍予報が三言語──日本語、英語、宇宙共通語でループ再生され、通りのざわめきに溶けていった。


「ぐううぅぅ……遅刻ぅ〜〜!」

 アイシャは人の波を縫うようにすり抜けた。肩がぶつからないように、慎重に走った。

 視界の端にはスクランブル交差点を撮影する観光客、ながら見されているホログラフィックディスプレイ、鮮やかな色が波立ち、流れてゆく。

 群衆の中を足早にすり抜け、アイシャは近場にあるスターバックスを目指して走っていた。

 ここに来るまで、遅刻したせいでずっと心臓が痛い。遅刻したことを考えて、頭はいっぱいいっぱいで、時間の流れる早さが異様に長く感じるほどだ。

 顔を上げてスターバックスの入った建物の方を見ると、龍の白骨化した頭蓋骨が同時に目に入った。


 ──目にするだけで、悔しさにも似た苦い感情が込み上げる。

 ──目にするだけで、あの日から離れない決意が嫌でも蘇る。


 お腹の奥から迫り上がるような感情の渦を、アイシャはぐっと飲み込み、唇を噛んだ。こうすれば、出てこようにも出てこれまい。

『本日の渋谷の天気は晴れ。晴天が続くでしょう。本日、龍の発生確率は、公園通り地上出口地下で三十%、ハチ公口地下で十%──』

 耳に触れるアナウンスは、風にさらわれるように流れてゆく。

 世界が目を離さない交差点。その口の中へ、アイシャは入ってゆく。


 ──渋谷スクランブル交差点は巨大な龍の口の中にあった。


 アイシャが駆け込むように入った店内は、清々しいほど涼しかった。人の熱気と外の暑さですっかりほてった体に、店内の冷房が心地よい。

 思わず一度深呼吸をして、窓際の席を確保してからレジに向かった。

 注文内容はいつも同じだ。スターバックスで一番安いセット。アイスコーヒーと、あらびきソーセージパイ。

 本当はもっと節約したいけれど、耐えきれずに食事も。今のアイシャにとっては贅沢な朝食だ。本当は家で家族と一緒に朝食を囲みたかったが、遅刻した今、そんな権利はアイシャにない。

 少ないお小遣いを削って、なんとかありつける食事がある場所が渋谷中にいくつかあることをアイシャは探し出していた。

「社会人は時間厳守……良し……!」

 アイシャは急いで席に戻り、お盆に乗ったコーヒーと食事をテーブルに置いた。

 呼吸を整えながら、指先でホログラフィックをいくつも立ち上げる。乾いた喉にアイスコーヒーを与えてやることもできない。時間に追われるアイシャにとって、面談の約束の時間に間に合うことは何よりも重要なことだ。

「ふー……集中。誰にも聞かれず、覗かれず……〈遮断〉に、〈防護〉を、そして〈見えざるもの〉を……」

 アイシャは口の中で呟くほどの小さな声で、防性魔法のコマンドを立ち上げた。

 公共空間での魔法使用は防性に限り許可が下りている。渋谷に限らず、世界中の多くの場所では抑制術式でコーティングされている。訓練以外では、攻性魔法は龍のみに限定だ。

 人に聞かれたくない話をするだけだったら、多分〈遮断〉だけでなんとかなる。でも、ここは公共の場所だ。誰にも聞かれたくない話をするのであれば、ただの魔法じゃダメだ。


 アイシャは頭の中で魔法の術式をスクラッチした。

 すでに防性魔法をいくつも重ね合わせた術式になっているが、まだ足りない。それに、アイシャだったらもっと高度な鉄壁の個室のような環境を作り上げることができる。

 他者の目を、耳を、ただ遮るだけではなく、欺く。介入しようとする魔法はすべて、この対照魔法によって打ち消す。まるで自分は普通に喋っているように見せかけて、本当は別のことを話しても、それが見えないように──

「見えざる部屋をここに──コード:〈秘匿された影マーヤーのヴェール〉」

 音もなく、空間が切り取られる。周囲の音が遠くなり、店内の景色がわずかに色褪せて見えた。

 アイシャは試しに手を叩くが、誰も気付いた気配はない。成功だ。これで落ち着いて話すことができる。

「あっ時間!」

 慌ててホロディスプレイに表示された時間を見ると、七時九分。間に合った。

 安心でほう、とため息が出た。こんな日に寝坊なんて。今年の四月から社会人を始めたばかりだが、まだまだ社会人生活には慣れない。

 ホロ回線をつなぐ。アイシャは息を整えた。そして窓の外を眺めた。

 自然と目に入る龍の白骨と、スクランブル交差点。巨大な龍の頭蓋骨はとてつもなく分厚く、堅牢で、重々しい。目を凝らすと、表面に複雑な紋様がさざめいているのが見えた。


 ホロディスプレイがパッと光り、音声が乗った。

「おはようございます。今日も良い朝ですね、アイシャさん」

 アイシャは慌てて目線を目の前のホロディスプレイに表示された人物に移した。

「お、おはようございます、ルパラギ理事! 今日もお時間を割いていただき、ありがとうございます」

 アイシャは思わず頭を下げ、それからすぐに頭を上げてホロディスプレイを見た。

 ホロディスプレイの中に写されているのは、地球の人間ではない。
 オウムガイのような殻を頭にすっぽり被り、その殻の側面には二対の眼が並び、合計四つの眼がアイシャを見つめていた。

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