第2話:久我山アイシャ、借金3,000億円
光沢を帯びた眼が、海中の生き物のようにわずかに動き、表情の代わりに感情を映す。殻の開口部からは細い触腕が何本も流れ、まるで長い髭をたくわえたようにも見えた。
ぴったりと体に沿ったオーダーメイドスーツを着込んだ地球外人類──ルパラギは、宇宙人類連盟の理事であり、そして今、アイシャが借金をしている相手だった。
「ご返済内容を確認いたしました。それにしても……こんなに入金してもよろしいのですか? 身を削ってまで返す必要はありませんよ。そのような行いを、私は求めていません」
「けじめなんです。家に入れるお金も、貯金も、自由に使うお金もちゃんと残しています。ルパラギ理事が返済を無期限にしてくださったおかげです」
本当は、全部消えてほしい。こんなに大きな借金も。過去の過ちも。でも、それが叶わないこともまたアイシャには分かっていた。逃げることはできないし、したくない。自分が向き合うべき現実に向き合わなくてはならない。
「それなら良いのですが」
夏の日差しが大きなガラス窓越しに差し込んでいた。テーブルの上のトールサイズのアイスコーヒーを透かして、朝の光がコーヒー色に揺らめいていた。
「それに、私の借金は全部で三千億円ですから……」
「残高はわずかですが減りました。学生でありながら、区役所でも働く……あなたの年齢を考えれば破格の返済額です」
低く落ち着いた声が、ホロ越しに届いた。
「龍狩りになれたら、もっとお返しできたんですが……」
「私にとっても、あなたが龍狩りになれないことは驚きです。年齢が考慮されたのだとは思いますが、あなたは特級の防性魔法の術師ですのに」
「でも、現実です。現実は現実として、受け止めようと思っています」
アイシャは視線を逸らさずに答えた。
カラン、と氷が鳴る。グラスの底から深い色が揺らめく。その隣には、まだ一口もかじっていないパイ。オーブンでせっかく焼いてもらったというのに、焼き立ての香ばしい匂いがアイシャの鼻をかすめて消えた。
「本当は背負っていただく必要などないのですが……あなたのお覚悟を無為にしたくはありません」
殻がわずかに傾き、あちら側の室内灯の光が反射した。貝殻特有の虹色の筋がちらりとホロディスプレイを光らせた。
「私のわがままに付き合わせてしまって、本当にすみません」
「あの事故はあなたのせいではありません。もちろん、ご家族の怪我もです」
「それでも、です」
言葉が喉に引っかかって、うまく出てこない。アイシャは膝の上に置いていた手を、自分の胸元にやった。
事故と聞いて、心臓がちくりと痛んだ気がした。それから体中に、じっとりとした重たい後悔がまとわりつくような感覚があった。
私のせいだ。全部、自分が愚かな選択をしたせい。閉じこもってゆく考えを振り切るように一旦息を止めてから、吐く。それから、アイシャは自分の心臓の部分をぎゅう、と握った。
「今の私があるのは、ルパラギ理事のおかげですから」
「あなたの努力ですよ。アイシャさん」
ホロディスプレイ越しのルパラギは、口元(多分、口だと思う)の触腕をゆらりと動かして言った。
「私はいくらでも待てます。引き続き返済をお願いしますね」
「はい。少しずつですが、いつか必ず……!」
結露の雫が光るアイスコーヒーのグラスを横目に、アイシャは背筋を伸ばした。
そんなアイシャを見て、ルパラギはすっと指を三つ差し出した。ほっそりとした指は長く、内部の柔らかな骨格構造が透けて見えた。
「あなたは高等部の学生、管理課の新人、特級の防性術師。三つの顔があなたにはあります。……才能に溢れた方です」
「そんな、持ち上げないでください。管理課で仕事をし始めたら、うまくできることは少なくて……龍狩りになろうと思っていたのも夢みたいな話で……」
「謙虚は美徳ですが、謙遜は毒にもなります」
ルパラギの言葉に、アイシャは苦い笑みを浮かべるしかなかった。アイシャは胸の奥ではまだ龍狩りになるという夢を手放し切れていないものの、区役所での業務にアイシャはまだまだ追いつけていない。
何せ、毎日たくさんの物品が宇宙から渋谷へと入ってきて、その安全性を確かめなければならないのだ。さまざまな星の知識と、地球の常識を照らし合わせるだけでも一苦労だった。
「夢ではありません」
そっと囁かれた一言が、ぐるぐると考え込むアイシャの思考を遮った。
ルパラギの言葉は心からの言葉のように思えた。その温度に、アイシャの胸の奥が熱を持つ。
「防性魔法の使い手は龍との戦いに欠かせません。それに、龍狩りだけが龍と戦う仕事ではありませんよ。それに、管理課にいらっしゃるのですから、将来的には鑑定士として前線に立つこともできるでしょう。お望みとあれば、より多くのことを学ぶために別の星へ──〈始原人類文明〉の星に研修に行くこともできます。龍のことも、魔法のことも、地球よりずっと多くを学べるでしょう」
地球を離れて、他の星に。魔法のことは、きっと今よりも多く学べるだろう。アイシャにとって、その誘いは何よりも魅力的なものに思えた。地球で魔法が使えるようになってから、二〇年。アイシャのような魔法世代にとって、中でもこよなく魔法を愛するアイシャにとって、他の星の魔法を学ぶことは思わず前のめりになりそうな提案だった。
「……でも、私は地球を、渋谷を守りたいんです。故郷ですから」
好奇心よりも先に、アイシャには心に決めたことがあった。地球で学べることはたくさん学んだ。他の星の魔法も、同級生よりも知っているつもりだ。だからこそ特級という資格を早くに得ることができたのだ。
魔法を学んだのは、好奇心のためだけじゃない。龍という脅威から、多くの人を守るためだ。
アイシャは膝の上に手を置き、握りしめた。強いくらいに。そうすると、自然と背筋が伸びた。
自分よりも権威で、そして知識で勝る相手であろうと、アイシャは折れずにいたかった。
「素晴らしい心がけです」
ルパラギはアイシャを否定しなかったが、肯定であるかどうかは分からない。
二対、四つの眼がアイシャを捉えて離さなかった。
「……地球は本当に尊い星です。若く美しい。かけがえのない星なのです、私にとって」
会話の間、ルパラギの四つの目は一度も逸れなかった。その視線の奥に、アイシャの知らない計算式が渦を巻いているように見えた。
ルパラギ。地球から二五〇万光年離れたアンドロメダ銀河出身のバビナ人。
七〇億年生き、宇宙人類連盟で活動している存在。
一体何を考えているのか、アイシャがどれほど考えても、その思考の深さを測ることはできないだろう。
「そういえば、今日は六層で龍が上がったそうですね」
ルパラギはすっと指先でホロディスプレイを起動させ、それを見て言った。
「私は管理課ですので、上がってきてからの鑑定です」
「そうですか。──さて、我々もそろそろ本腰を入れて探し出さないといけませんね」
「何か探し物があるんですか?」
アイシャが尋ねると、ルパラギはわずかに動きを止めてみせた。ルパラギのこうした仕草は初めてみたので、アイシャは少し意外に思った。目の前のバビナ人から感情のようなものを感じたのは、これが初めてのことかもしれない。
ルパラギは触腕をゆらりとさせて、それを指先でさすった。それから何かを思いついたかのように、いたずらっぽく指を口元にやった。
「〈あれ〉を探すんですよ。アイシャさん」
「……〈あれ〉、ですか?」
「そろそろ次の打ち合わせの時間です。それではアイシャさん、良い一日を」
通話が途切れ、ホロの光がふっと消える。
アイシャとしては消化不良だったが、報告が終わったことで力が抜けて、肩周りがすっと楽になったのを感じた。思ったよりも緊張していたのだと、アイシャはようやく気がついた。
息を吐き、指先でグラスの水滴をぬぐった。その冷たさが、緊張が残る体に心地よい。
グラスはすでに汗をかき、木目のテーブルにうっすらと水たまりができていた。
「〈あれ〉って、なんだろう」
呟きの後に、静けさが戻る。視線を落とした、その瞬間──ぽん、と肩を叩かれた。
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