第三章 2

橙子から電話がかかってきたのは、夜の八時頃だった。

「なんだ」

『泉? 今どこ?』

「なんだいきなり」

「部屋には帰らないで。今やばいことになってる」

「やばいことって……」

「さっき届けた首、中国人のボスの弟分のだったの。それでボスが怒って、あんたに賞金かけたのよ。もしもし? いず……」

 前方から、抜き身の刀を持った男がこちらへ歩いてくる。泉は電話を切った。

 間合いを取って、刀に手をやる。

「柳泉か」

「誰だ」

「あんたの首に金がかかってる。それをもらいに来た」

 先ほどの橙子の言葉がちらりと思い起こされた。

 じり、じり。

 男が距離を詰めてくる。泉は刀を抜いた。

 それと同時に、男が飛びかかってきた。凄い力だ。泉はなんとか両手でそれを受け止めると、奥歯を噛みしめてそれを押し返した。

「いい腕だ。だが、若い。若すぎる」

 男はそう言って笑った。

「あんた、最年少で登録されたんだってな。なるほどな」

 泉と男は斬り合った。

 強い。

 泉の額に汗が流れる。

 何度か鍔迫り合いをしたのち、男はせせら笑った。

「だがな、強いだけじゃこの世界、生き残れないよ。したたかじゃないと。あんた、そこんとこどうだい。ずる賢くやっていけるかい」

 シャッ、泉の右腕が斬り払われた。

 くつくつくつ、男が忍び笑いを漏らす。

「どうしたい。最年少で殺し屋に登録されたにしちゃ、情けねえ戦いっぷりだな。ほら、来いよ」

 楽しんでいる。

 泉は脂汗を流しながら、どうにかしてこの男から逃れよう、それがだめならなんとかして倒さねばと思っていた。

 この男は、俺を弄んで楽しんでいる。そう、まるで仔猫がおもちゃで遊ぶように。

 泉は完全にこの男の間合いに入ってしまっている。今背中を見せたら、斬られる。

 くそっ今日のあの男が仇だと思ったら、このザマか。

 ――復讐は修羅の道ぞ。

 突然、あの声が頭のなかで響く。

 引き返すのなら今のうちだ。

 そうはいかない、そうはいかないんだ。

「行くぞ」

 男が地面を蹴って、上段に振りかぶってきた。泉は反射的に、それに向かって大きく刀を突き上げた。

 思わず目を瞑っていた。

 やられた、と思った。

 ぽたり、ぽたりと顔に落ちてくる血の滴りで我に返って、泉はそっと片目を開けた。

 自分の刀の切っ先が、男の喉を突いている。

 泉はゆっくりと刀を下ろすと、そのまま男の喉からそれを抜いた。そして辺りに注意深く目を配ると、人目を憚るようにビルとビルの間を抜けていった。

 びゅん、と物陰からいきなり斬りつけられて、慌ててそれをよけその拍子に相手の頸動脈を斬った。通行人の悲鳴が上がる。

 あれも殺し屋か。泉は走りながら、その死体を注視する道行く人々の群れを振り返りつつどこへ行くかを考えていた。家はだめだ。橙子が言っていた、俺の首に賞金がかけられたと。

 なら、既に住所は知られているだろう。今行くのはだめだ。とにかく、人のいるところへ。

 どこへ行けばいいのかと考えている矢先に、突然背中を切り裂かれた。

「う……」

 思わず膝をつき振り返ると、肩に刀を背負った男がこちらを見ながらにやにやと笑っていた。

「柳泉?」

 顔が知られている。どこへ逃げてもだめだ。では一体どこへ?

 泉は燃えるように痛む背中の疼きを堪え、必死に走った。

 通行人の誰もが、殺し屋に見えた。油断するな、刀を持っていないからといって殺し屋でないとは限らない。彼らの武器は、刀だけではない。

 老人の声が蘇る、

 復讐の道は、修羅の道ぞ。

 引き返すなら、今のうちだ。

 死に物狂いで走り回りながら、泉は心のなかで老人に問いかけていた。

 じいちゃん、これが復讐の報いなのか。俺は、仇を討てずに殺されるのか。

 心の曇りは、晴れぬぞ。

 ――心んなかは、曇り空のまんまなのか。

 歓声を上げながら、赤い髪の青年が飛びかかってきた。

「見つけたぜ、柳泉だ。俺が一番乗りだぜ」

 泉は辛うじて、その刃を受け止めることができた。その青年の刀を押し返し、向き合っていると、後ろから二人、人影が近づいてくるのが見えた。

「賞金は山分けだ」

「わかってるって」

 後ろからかかった声に、赤い髪の青年がこたえる。

「あんた、強いんだってな」

 赤い髪の青年は笑いながら言った。

「でも三人がかりなら、どっちが強いかな」

 ――

 泉は走り出した。

 手負いの今、こいつらとやりあったら確実に殺される。そう思ってのことだ。逃げたぞ、追え、逃がすなという声が後ろで聞こえる。

 泉は走った。走りに走った。ただひたすらに走った。

 ようやくあの三人を撒くことができたと思った頃にあちらから刀を持った人影が見えて、びくりとなって目の前の裏路地に入り込んで隠れた。

 ごみ箱の陰に座り込み、そっと辺りを窺う。誰にも見られてはいないようだ。ほっと息をつく。

 ひと息入れることができて初めて、自分が傷だらけだということに気がついた。特に、背中の傷はひどい。足もやられている。腕も斬られているし、全身切り傷だらけだ。

 上着を脱いで傷口を見ていると、道の奥からひとの気配がした。思わず刀を構えると、コンビニの袋を持った小太りの男が立っていた。

「あんた、そこでなにやってんの」

 泉は黙って刀を向けた。この男が何者かわからない以上、警戒を解いてはならない。

「怪我してんの」

 男はこちらを覗くように屈むと、

「ふうん……気の毒に」

 と呟き、

「じゃ、僕はこれで」

 と背を向けて歩き出そうとした。それで泉は驚いて、思わず、

「誰かに知らせないのか」

 と言ってしまった。男は立ち止まって彼を振り返ると、

「知らせるってなにを?」

「……」

「まあいいや。話が長くなるようなら来なよ。お茶くらい淹れてあげるから」

 と歩き出した。男が泉の返答を待たずに行ってしまったので泉は少し迷ったが、ここで野垂れ死ぬよりはいくらかましだろうと思い、足を引きずり引きずりついて行った。

 男は小さな雑居ビルのなかに入っていくと、薄暗い廊下を進んでいきそのなかの一室の扉を開けた。

「ただいま」

 誰かいるのか。

 思わず警戒した泉は、次の瞬間目に入ってきた光景に目を奪われた。

 室内には壁一面所狭しとパソコンの画面が並べられており、それに合わせるようにしていくつものキーボードもあった。

 そして床には、五匹の猫がいたのである。

「ごはんを買ってきたぞー」

 男が袋からごそごそとなにかを取り出すと、猫たちが彼の足元に寄ってきた。

 猫缶か。

 缶を開ける音と漂ってきたにおいでそう判断して、所在なげに室内を見回す。物凄い数のモニターだ。ざっと数えて、二十七もある。

 猫たちが猫缶を食べ始めると屈んでいた男は泉を振り返って立ち上がり、

「好きなとこ座って。今お茶淹れるから。コーヒーでいい?」

 と言ってへ奥へ行った。

「あ、ああ」

 泉はその辺にあった座り心地の悪い椅子に座ると、猫たちが食べる様をじっと見ていた。

 丸々と太って、毛艶もいい。かわいがられているようだ。

「お待たせ」

 男は持ってきたマグカップを泉に渡すと、自分の椅子に座った。

「で? なんであんなとこいたの。どうしてそんな傷だらけなの」

 泉は渡されたコーヒーをひと口飲んだ。温かい飲み物を飲んで初めて、喉がからからであることに気づいた。人心地がついて、彼は答えた。

「ある男を殺したら、賞金をかけられた」

 男は口笛を吹いた。

「そりゃお気の毒様。誰を殺ったの」

「楊という手配犯だ」

「楊……」

 男は椅子に座ったままパソコンの方まで移動して、手配犯のリストが載っているサイトを開いた。

 泉が昼間殺した男が、画面に映し出された。

「こいつ? 楊紫連」

「なぜこのサイトを見ることができる。これは、殺し屋しかアクセスできない専用サイトだぞ」

「こんなの僕の手にかかればお手の物だよ」

 男は背を向けたまま、またキーボードをカタカタと叩いた。

「おっと、まずい男を殺しちゃったね。こいつ、新宿を取り仕切ってる中国人たちのボスの兄弟分だよ。劉って奴。劉が弟分を殺されたことに腹を立てて、あんたに賞金をかけたんだ。柳泉ってあんたのこと?」

 男がカタ、とキーボードを叩いた。

 泉の顔写真が画面に映し出された。

「やっぱりね。あんた、街中の殺し屋に狙われてるよ」

 男がもう一度口笛を吹いた。

「劉は大分ご立腹のようだね。賞金、一億だって」

「一億……」

「ご愁傷様」

 男はコーヒーを啜った。

 泉は傷が痛いのも忘れて、そこに立ち尽くした。

「どうすればいいんだ……」

「ま、東京から出ることだね。このサイトは東京の殺し屋専門サイトだから、東京の外に出ればあんたは安全だ。もっとも、今までの生活をみんな捨てて一からやり直さなくちゃいけなくなるけど」

「それはできない。俺はこの街で、まだすることがあるんだ」

「じゃあ、賞金を取り下げてもらうしかないね」

「どうやればいいんだ」

「自分で考えれば?」

 男はにべもない。

「ま、考えてる間にここにいたいってのなら、好きなだけいればいいよ。傷薬くらい買ってきてあげる。寝床は、そこのソファに寝てればいいよ。毛布はあっちね」

「あんたは、何者なんだ」

 男は振り返った。

「僕、細木っていうんだ。自分で言うのもなんだけど、天才ハッカー」

 細木はまた画面の方に向き直って、カタカタとキーボードを叩いている。

「街中の情報は、僕のもの。中国人たちは我が物顔で歩いてるけどね、本当のこの街の主は僕だよ」

 えさを食べ終わった猫たちが、泉の足元にすり寄ってきた。そのうちの一匹が、彼の膝に乗ってきた。

 その温かさで、急に気が緩んで強烈に眠気が襲ってきた。猫たちが次々に泉の膝の上にやってくる。

「……おや」

 背後から聞こえてくる寝息とごろごろという声に振り向いた細木は、椅子の上で眠る泉とその膝の上の五匹の猫たちを見た。彼はやれやれ、とため息をつくと、立ち上がって奥から毛布を持って来て、泉の上にそっとかけた。

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