第二章 3

泉は、横浜の片隅に四人家族で暮らしていた。

 四つ違いの姉は薫といって、長い髪の美しい、笑顔の絶えない明るい娘であったと記憶している。

 悲劇は、ある夜突然起こった。

 泉の家に強盗が入り、金品を持って行ったばかりか両親も殺されてしまったのである。

 突然孤児となった二人は、途方に暮れた。他に頼るような親戚はいない。行政は泉を保護施設に預けて働けと薫に言う。

 どうしようもなかった。

 薫には、当時恋人がいた。

「泉、鎌倉に行こう」

 彼女は言った。

「鎌倉?」

「うん。鎌倉に行けば、彼の住んでいる家に住まわせてくれるって。そこで私たちを住み込みで雇ってくれるって」

 強盗はめぼしい金や預金通帳なども持って行ってしまったため、二人には本当に金がなかった。薫と泉の持っていた小遣いを持ち寄って電車代にして、なんとか鎌倉まで行った。

 鎌倉まで行けばどうにかなる。そこに行けば住む場所もある、働いてお金ももらえるようになる――十四歳の泉は漠然とそれだけを考えていた。ただ、寒くてお腹がすいて、あまりよく考えられなかった。

 目的地は遠く、着いた場所はかなりの田舎で、駅前で薫の恋人が迎えに来てくれるはずだった。

「もうすぐあのひとが来てくれるからね、待ってようね」

 雪が降りしきるなか、傘も差さずに待った。待ち続けた。

 一時間して二時間もすると、姉の恋人という男は来ないのではないかと思い始めた。

 ちらりと姉を見ると、寒さに凍えながら必死に人混みのなかに知った顔はいないかと探している。そんな姉の横顔を見ていると、とてもではないが自分の思っていることなど言えなかった。

 日が傾いてきた頃、姉に恋人は本当にいるのだろうかと思った。もしかして姉さんは、なにか勘違いをしているのではないか。

 辺りがすっかり暗くなってきて、泉は小さく言った。

「行こうよ」

 それで薫は肩を落として、泉に言った。

「ごめんね、泉」

 雪が降り続けている。行く当てはない。姉が隣で歩きながら声も上げずに泣いているのを、泉は気がつかないふりをしなければならなかった。

 奥歯を噛みしめながら、自分は泣かないようにと歩き続けた。

 どこかに泊まるほどの所持金はないので、節約するためにカフェで食事をした。閉店までそこにいて、後は屋根のある場所に行って夜明けまでそこで寝た。

 これからどうするんだろう。自分たちは、どうなるんだろう。

 そんな疑問がむくむくと頭をもたげる。

 しかし一度口にしたらそれと向き合わねばならないという恐怖が先に勝って、姉に尋ねることは憚られた。

 二人は当てもなく、街を歩き続けた。時々薫が働けそうな場所があったが、その間泉をどうするかということがどうしても引っかかって、結局無駄に終わった。

 学校に行くにも、金がない。義務教育とはいえ、それには経費がかかる。

「俺、外で待ってるよ。だから行って、働いてきて」

 泉はそう言った。しかし住む場所がない子供を雇ってくれるところなど、どこにもなかった。

 そうしてカフェで過ごしていくうちに、金はどんどん減っていった。

「お金があるうちに、もっと田舎の、畑とかがある大きな家に行こう。そこで働かせてもらおう」

 二人は鎌倉の奥の方まで足を伸ばして、より深い場所へと入っていった。

 確かに畑はあるし大きな家はあるが、どこにも二人を住まわせてくれるという奇特な家庭はなく、二人は連日野宿をした。寺や神社があちこちにあるので、そういった場所の軒先を借りて夜露をしのいだ。

「寒くない? ほら、もっとしっかり側に寄って」

 寒い夜には、抱き合って眠った。

 夜、畑から野菜を抜いてきては、それを二人でかじって食べた。

 役所に行けば、行政が力を貸してくれるだろう。しかしその途端二人は、引き離されるに違いない。児童養護施設は、十八歳以上の子供は入所させてくれないからだ。

「一緒に暮らせないなんて、そんなのだめ」

 いつも一緒。ずっと一緒。だって、家族だもん。

 薫はそう言って泉を抱きしめた。

 ある日泉が畑から大根を盗んで戻ってくると、いつも隠れて暮らしている寺の軒先に誰かがいるのが見えた。

 それは、どうやら男のようである。三人の男が、なにやらひそひそと話し合っているのだ。

 その様子がいかにも怪しいので近づかないでおこうとその場から離れようとした時、むこうからわずかに物音がして、悪いことに男たちがそれに気がついた。

「誰だ」

「どこにいる」

「あっ、こんなところに隠れていやがった」

 姉が軒先から引きずりだされるのが見えた。助けに行こうと飛び出しかけて、はたと止まる。相手は大人の男だ。しかも三人。俺一人では、勝ち目がない。

「このアマ、俺たちの話を聞いていやがったな」

「知らない、なんにも知らない」

 薫は泣きながら命乞いをしている。泉は拳から血が出るほど握りしめて、唇をぎゅっと噛んでそれを睨みつけるように見ていた。

「聞いていた以上は、生かしておくわけにはいかねえ。おい」

「ああ」

 あっ。

 泉は声を上げそうになった。

 こちらに背を向けている男が、姉の首に両手をかけているのが後ろからでもよくわかったからだ。ばたばたともがく薫の両足が恐ろしいほどに暴れていたと思うと、ひとしきりして動かなくなった。

「その辺に転がしとけ。寺の境内だ。そのうち埋めてもらえるさ」

「これからどうする」

「もうこの辺はだめだ。手配写真が回ってる。手配犯だってばれる前に、もっと都会に行こう」

 そう言って立ち上がったその背中を向けていた男の、手の甲に赤い痣があるのを、泉は確かに見た。目に焼き付けた。

 男たちがいなくなってしまうと、泉は薫の遺体に駆け寄った。

 涙と土で汚れてしまってはいるが、それでも元の美しさは隠しきれなかった。あの男たちがおかしな気を起こさなくてよかったと、泉は今にして思う。もしあいつらが薫を犯そうとしていたら、自分は身の危険を顧みたりせずに飛び出していただろう。

 その長い、乱れた髪を直してやると、少しは見映えがよくなった。それだけしか、してやれることがなかった。

 誰か大人に訴えても、姉の遺体は取り上げられて無縁仏として弔われるだけだ。そして、自分は施設に送られるだろう。そんなのはご免である。

 その場から逃げ出すようにして離れると、泉は都会を目指して歩き出した。あの手に痣のある男は言った、もっと都会に行こうと。自分たちは手配犯だと。

 ならば、都会で手配犯を探せばあの男に会える。姉を殺したあの男に。

 いつか殺す。

 必ず殺す。

 そう固く心に誓って、歩き続けた。

 憎い。

 両親を殺した強盗が、姉を迎えに来なかった恋人が、自分を必死に守ってくれたその姉を殺したあの手配犯の男が、憎い。

 憎しみの気持ちだけを胸に、ひたすら歩いた。

 だが身体はあまりにも正直で、襲いかかる空腹に勝つことができず、小さな道を歩いていてふらふらとそこに倒れた。

 そうしてあの老人と出会ったのである。

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