第二章 4

手配犯が手にかける誰かは、きっと誰かの母や姉や妹や娘、か。あの男にも聞かせてやりたい言葉だ。

 今でも思い出す、苦しみで暴れる姉の足の動き、飛び出すにも飛び出していけない無力感、そしてあの手の痣を。

 関東で都会といえば、東京だ。東京で一番手配犯が集まるのは、新宿だとじいちゃんは言っていた。あの男は、ここにいる。必ずいる。

 もし東京にいないのなら、別の都市に行って殺し屋の登録許可を取って探し出してみせる。そこでいないのなら、また他の都市を。

 そうして日本中、洗いざらい探してやる。

 泉は手配犯を探す仕事がない時、屋上に行って木刀を振るう。

 剣の型、技、太刀を一つずつ復習し、肉体を鍛え、いついかなる時もあらゆる事態に対処できるようにする。そうでなくては、いざ憎い仇と対峙した時にうまく動けないと思ってのことだ。

 姉が殺されたあの日から、泉の心には分厚い雲が垂れ籠めている。

 それは日の光を遮り、けっして明るい陽光を彼に届けてはくれないのだ。

 部屋に戻れば、黒猫が迎えてくれる。汗を流してソファに横になっていると、銀次郎はねずみのおもちゃを咥えて持ってくる。

 泉がそれを投げると、仔猫はどたばたとやかましい足音を立ててそれを追いかけていってその先で遊び、しばらくしてそれを咥えて戻ってくる。そして、泉の前でそれをぱっと放して、彼を見上げて待つのだ。

「相変わらずね」

 橙子はそんな昼下がりにやってきた。

「なにしに来た」

「ちょっとお願いがあるの」

「お願い?」

 泉はおもちゃを台所に放る。銀次郎がそれを追いかけていった。

「私の知り合いの子が付き合ってる彼氏が、中国人マフィアの一味に入っちゃって。彼女、やめさせたいんですって。そんなことしたら命がいくつあっても足りないし、結局は日本人だから捨て駒にされて殺されるか、道具みたいに扱われてごみみたいに捨てられるって」

「道理だな」

 黒猫がねずみのおもちゃを咥えて、泉の元まで持ってきた。泉はまたそれを、台所の方へ放った。

「なんとかしてあげて」

 泉は顔を上げて、橙子を見た。

 彼女は腕を組んで、自分をまっすぐに見下ろしている。

「なんで俺が」

「他に頼めるひとがいないの。お願い」

「嫌だね。新宿に住んでて連中に楯突こうなんて思う馬鹿はいねえよ。他を当たりな」

 銀次郎が台所でおもちゃでじゃれて遊んでいる。その物音を聞きながら、橙子はなおも言った。

「あなたならやってくれるでしょ」

「へっ。なにを買い被ってやがる。俺はそんなお人好しじゃねえ」

「そんなことないわ。やさしいひとだもの」

 鼻で嗤っていた泉はその言葉で真剣な面持ちになって起き上がった。そして立ち上がると、橙子の側まで行って彼女の鼻先までせまってこう聞いた。

「誰が、やさしいって?」

 目を剥いて自分を睨む泉のするどい瞳に圧倒されながらも、橙子は一歩も引かない。

「あなたがよ」

 泉はなにも言わずに、橙子を舐めまわすように睨んでいた。

 橙子もまた、彼を睨み返した。

 永遠とも思われるような長い間、そうして二人は見つめ合っていた。

 先に言葉を発したのは、泉の方だった。

「けっ、やさしくて殺し屋が務まるとでも思ってんのか。そんなものはなあ、俺らには一番用のねえものだ。慈悲なんてないんだよ、殺し屋には」

「ううん、あなたはやさしいひとだわ。銀次郎ちゃんと遊んでる時すごくやさしい目をしてるの、私知ってる。手配写真見る時だって被害者のこと真っ先に口にして、ひどいことしやがるっていつも言うじゃない。やさしくなかったらそんなこと言わないわ」

「家にいる時と仕事をしてる時は別だ。そんな感想はこの仕事してりゃ嫌でも出てくるもんで殺し屋なら誰でも言うわ」

「あなたは誰かがひどいことされるのが我慢できなくて、それで手配犯を始末してるのよ。 そんなこと、やさしくなかったらできないわ」

「俺のことなんも知らねえくせにわかったようなこと言うな。俺が殺し屋になったのはそんな理由じゃねえ」

「じゃあなによ」

 泉は怒鳴り返そうとして、すんでのところで留まった。

 黒猫が冷蔵庫の側でちょこんと立っている。

「……もういいわ。私一人でなんとかする」

 橙子はそう言うと、踵を返して出ていった。

 銀次郎がにゃお、と鳴いたので、泉は台所へ行った。

「お前、またなくしたのか」

 冷蔵庫の下を覗き込むと、白いねずみのおもちゃが隠れていた。それを引っ張り出して銀次郎に放ってやると、仔猫はまたそれで遊び始めた。

 泉は気分を落ち着けようと、ソファに座った。橙子は戻ってこない。なぜか、いらいらが止まらなかった。

「……くそっ」

 彼はそこにあった刀を持ち上げると、エレベーターに飛び乗った。

 バーに入ると、店主がいつになく浮かない顔で仕込みをしていた。

「おい、橙子は」

「ああ柳ちゃん。なんか出かけるって。それが、中国人たちのところに行くって言ってたんだけどだいじょぶかなあ」

「それ、どこだ」

「多分、歌舞伎町の方。一丁目」

 泉は店を出て、雑踏を早足で歩き始めた。

 急げば橙子に追いつくと思ったが、それは間違いであったようだ。彼女の姿はどこにもなかった。

 十分ほども行くと、一丁目界隈に着いた。途端に治安が怪しく、空気が悪くなって、あちらこちらに地べたに座る若者が見受けられた。

 中国人の仲間なら、襟元に銀の龍のバッヂをしているはずだ。あと、スーツ。俺みたいな。二、三人で固まってて、刀を持ってる。

 ――あれだ。

「おい」

 泉は角に立っていた四人組のスーツの男たちに声をかけると、いきなり言った。

「お前らんとこに、女が来なかったか」

 新宿で中国人の一味にそんな口を利く人間などいなかったので、当然彼らは顔色を変えた。

「なんだと」

「誰に向かってもの言ってやがる」

 身を乗り出してきた一人の顎を、泉はがしっと物凄い力で掴んで握りしめた。

「こっちが穏便に話してるうちに、教えてくれ」

 掴まれた方はそれですっかり身動きが取れなくなり、泉のそのあまりの素早さに他の三人もこれはただ者ではないと気がついて、すぐには動けない。

「な」

 その頃、橙子は友人の美枝が恋人を探して一丁目に行ったと聞いて探しにやってきて、彼女が中国人に捕まったと聞きそこへ行こうとしていた。

 そして、逆に自分も捕まり、まんまと連れて行かれたところであった。

 その建物に入ると美枝もそこにいて、泣きながらそこに座り込んでいた。

「美枝」

「橙子ちゃん」

 美枝は橙子の側へやってくると、また泣き始めた。

「恐かったよう。あのひとたちにいきなり腕掴まれて、連れて来られて」

「彼氏はどうしたの? 見つかった?」

「いない。どこにもいない」

 そこへ、背の高い男が入ってきて声高に言った。

「お嬢さん方、困りますなあ。こんなところまでのこのことやってきてお話しですか」

 橙子はきっと彼を見返して、睨みながら言い返した。

「あんた誰よ。いいからこの子の彼氏を出しなさいよ」

「彼氏、とは」

「最近あんたたちの仲間に入った、日本人よ」

 男は首を傾げた。側にいた誰かがそっと耳打ちすると、ああ、とうなづいた。

「あの男ですか。そちらの髪の長いお嬢さんは、あの男の恋人さん? いいでしょう、連れて来ましょう」

 しばらく待つと、扉が開いて誰かが入ってきた。

「お呼びですか」

「湯川、お前に客だ」

「客……? あっ」

「博之」

「美枝。なんでここに」

「帰りましょ。こんなとこやめて、私と一緒に帰ってきて」

「馬鹿を言うな。俺はもうここの仲間なんだ。誰かに言われたからといってすぐにやめるわけにはいかないんだ」

「あなたは連中の恐ろしさをわかってないのよ。今に無理難題を突きつけられて、できないって言った途端に死ぬほど殴られてごみ同然に捨てられるわ」

「ここはそんなところじゃない。みんないいひとたちだし、仲間なんだ。彼らを悪く言うのはやめてくれ」

「目を覚まして」

 男が高らかに笑い出した。

「なんとも麗しい愛のやり取りですな。実に美しい。私はそういう、情の厚いものに弱くてね」

 彼は両手を広げると、恋人にむかってこう言った。

「どうだ湯川。お前が本当に私たちの仲間だというのなら、ここでテストをしようじゃないか」

「テスト……?」

「これからここにいる全員で、このお嬢さんを抱く。お前の目の前でだ」

「――」

「ここに入る時、過去は捨てたと言ったな。それはすなわち、恋人も捨てたということだろう。ならば、仲間が代わる代わるかつての恋人を抱いたところでなんとも思わないはずだ。そうだろう?」

 顔面蒼白になる恋人をよそに、男は側にいた者に支度をしろ、と低く言った。誰かが部屋を出ていく。

「ちょっと待ちなさいよ。そんなこと許されるわけないじゃない」

「威勢のいいお嬢さんだ。あなたはあなたで、うちの経営する店で働いてもらうとしますかな」

「嫌よそんなの」

「ここに来た時点で、あなた方に選択の自由はないんですよ。もちろん、あなたのことも我々でたっぶりと楽しませてもらう。若いお嬢さんは、いつ味わってもいいものですからねえ」

 男が忍び笑いを漏らすと、周りにいた男たちもいっせいに笑った。美枝は青くなって、我が身を抱きしめて震えている。

 誰かが部屋に入ってきて、男に囁いた。

「おお、支度ができました。では行きましょう。お前たち、お嬢さん方をお連れして。

 最初は無論、私だ。湯川、しっかり見ているように」

 男たちがやってきて橙子と美枝の両脇を掴み、歩き出そうとした時、突然別の扉が乱暴に開かれて誰かが入ってきた。

「橙子」

 息を切らせてやってきたその長髪の男は、片手に刀を持っていた。

「泉」

「なんだ貴様は」

「その女の知り合いだ。そいつらは俺と帰る。おい、行くぞ」

 橙子は男たちの手を振りほどいて美枝を助け、泉の元まで駆け寄ってきた。

「来てくれたのね」

「言われっ放しで気分が悪かっただけだ」

「待ちたまえ。この新宿で我々にむかってそんなことをして、ただですむと思っているのかね」

「あんたらこそ、軟禁未遂で警察呼んでもいいんだぜ暴力中国人」

 男の顔が、怒りでわずかに変わった。

 周りにいた男たちの手が、いっせいに刀を抜こうとする。

「おっと、よしな。余計な死人が出ることになるぜ。殺し屋とその辺のチンピラじゃあ、くぐってる修羅場の数が違わあ」

「殺し屋……」

 男が低く呟いた。

「貴様、名は」

「柳泉だ」

「覚えておこう」

 おい、と泉が橙子に言った。橙子が美枝を見ると、彼女は後ろの恋人に博之、と呼びかけた。

 恋人はすこし迷って、美枝の方に歩き出し、そして止まらなくなって彼女の手を取った。

「……ごめん」

「よし、行くぞ」

 二人を先に行かせ、橙子が出ていくと、泉は部屋の全員を注視しながら静かに扉を閉じた。最後まで、刀の柄から手を離さなかった。

 そうして建物から出ていって、なんとか安全な場所までやってきたのである。

「あんた、あいつらに住んでる場所とか知られてるか」

 泉は恋人にむかってそう尋ねた。

「いえ、そういう場所はもうありません。ここに来るときに、みんな引き払ってしまいました」

「そうか」

「落ち着くまで私のところに来るといいわ。仕事もそこで探せばいい」

「あいつにあんなことを言われて、目が覚めたよ。本当の仲間なら、身内の恋人をそんな風に扱ったりしないはずだ。ごめんよ。俺が馬鹿だった」

 抱き合う二人を見て、やれやれとため息をついて歩き出す泉に、橙子は追いついて言った。

「やっぱり来てくれたのね」

「言っただろ。言われっ放しで気分が悪かっただけだ」

「違うわ。やさしいからよ」

「へっ、言ってろ」

 ふふ、橙子は笑った。それが気に入らなくて、泉は益々機嫌が悪くなる。

「笑うな」

「笑うわよ。おかしいもの」

「おかしくない」

「おかしいわよ」

 二人はなおも言い合いながら、雑踏のむこうに消えていった。


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