第二章 2
1
「起きたか銀次郎。行くぞ」
朝起きた泉は、コーヒーを飲んで黒猫を籠に入れると、エレベーターに乗って建物を出た。すると、向かいのバーの前を掃除している橙子と行き会った。
「あ、おはよ。あら銀次郎ちゃんも? 珍しいわね。病気にでもなったの」
「取りに行くんだ」
「取りに?」
「ちーたまを」
「……ああ」
橙子はなにかを悟ったような顔になり、籠に向かって、
「頑張ってね」
と声をかけた。
「でもなんか、かわいそうみたい」
「そんなことはない。去勢はしない方がよっぽどかわいそうだ」
「そうなの?」
「発情中のストレスを抑えることもできるし、生殖器の病気も予防することができるし、マーキングしなくなるようになる。それになにより」
「なにより?」
「長生きする」
「は……」
「長い目で見れば、こいつのためにもなるんだ」
「そ、そうなの」
歩き出す泉の後ろ姿を、橙子は呆れたように見つめている。
あれから度々、橙子は泉の部屋を訪ねるようになった。殺し屋の仕事の件でではなく、パーの仕事が終わってから。
そして短い逢瀬を彼と重ねて、帰っていく。泉は今のところ、なにも言わない。用がすんだら帰れとも、泊っていけとも言わない代わりに、やさしい言葉をかけるでもなく、かといってきつい言葉を浴びせるでもない。
ただなにも言わずに、ベッドの縁に座って暗闇を見つめている。
その横顔を見ていると橙子は、よりかかることもなにか言葉をかけることもできなくなって、それで服を着て帰ってしまう。
惰性で泉と寝ているのではない。
無表情で冷酷無比で嫌われ者と評判の彼の、自分しか知らないちょっとした一面を知る度、惹かれていったことは否めない。
無情なほどの物言いなのに思いやりがあったり、手配犯に固執するのも、やさしさの裏返しなのだと思う。
世間は彼を冷徹な首切りと評するが、橙子は泉がどれだけあの黒猫を大切にしているかを知っているし、どれだけ銀次郎に振り回されているかも知っている。明日をも知れぬ身の上で生きる泉の、家族ともいえるあの仔猫がどれだけ彼にとって安らぎになるかを思い知っている。
冷蔵庫の下を真剣に覗き見てねずみのおもちゃを取ろうとする泉を見て、素直にかわいいと思った。やさしいひとだと。
橙子はため息をつき、店のなかに入った。店はもう開店の準備を終えて、店主が仕込みを始めている。食堂も兼ねているので、この時間簡単に昼食をすませていこうという客が多い。
泉も、その一人だ。
彼はしばらくすると空の籠を持って戻ってきて、カウンターに座ると店主にいつもの食事を注文した。
「あら、もう手術終わったの」
「それを待ってる。終わるのは、だいたい三時間後」
どんな時でも、泉は外出するときに刀を手放さない。殺し屋稼業をしている限り、いつどんな事態に居合わせるかわからないからだ。
店主が出した昼食を泉が食べていると、突然女性息を切らせた女性が飛び込んできた。
「誰か、助けてください」
その女性は服が引き裂かれ、身体のあちこちがすりむけて血が出ており、髪も乱れていて、いかにもなにかあったように思われた。
泉は一目で、それがなんなのか悟ったようだ。
「警察を呼べ」
と店主に低く言い、橙子と一緒にその女性の側まで近づいていった。
「どうかしたんですか。大丈夫ですか。立てますか」
橙子は突然のことにおろおろとして、女性に声をかけている。泉は彼女に囁いた。
「奥に連れていけ」
「え?」
「いいから」
わけがわからないままに橙子が女性を連れて行くと、店主がため息をついて言った。
「十分で来るってよ」
警察は、すぐにやってきた。女性に話を聞こうとしていたが、
「女のひとがいる場所で話したい」
と女性が言うので橙子が同席した。
「私でいいですか。女性のおまわりさん、呼んでもらいましょうか」
「いいです。そういうひとより、ふつうの方のがいい」
女性はぎゅっと拳を握った。橙子は緊張して、泉に言った。
「ちょっと、どうしよう。泉、一緒にいて」
「俺がいたらまずいだろ」
「でもなんか恐い」
「他に男性がいても構いません。ただ、女性が一人でもいてくださればいいんです」
女性がそう言って強く望むので、結局橙子と泉の立ち合いの元で話を聞くことになった。
「子供を送っていった帰りに、知らない男のひとに道を聞かれて。よくわからないから案内してくれと言われて、時間があるから連れて行ってあげたんです。そしたらどんどん人通りのない場所に連れて行かれて。でもまだ明るいから、平気だと思ったんです」
「それで、どうしたんです」
警察官が聞いた。
「それで、
強姦されたのだという。
「……」
橙子は青くなって、立ち尽くしている。
突然自分の日常に入り込んできた非日常に、どうしていいかわからない様子だ。
「抵抗しましたか」
警察官が重ねて聞くと、女性は首を振った。
「下手に動くと殺されるかもしれないと思って、恐くて動けませんでした」
「しかしねえ。抵抗しなかったのは、同意があったのでは? 女性は話を大袈裟にするから」
「え?」
「結婚してて、お子さんもいらっしゃるんでしょう。旦那さんと同じようなことをしておいて、被害に遭ったと泣かれてもねえ」
「そんな……」
ひどい。
橙子が抗議しようとして身を乗り出すと、それより先に泉の刀の切っ先が伸びた。
彼は刃を警察官の喉元に突きつけて言った。
「あんたは身動きを取れない。それはなぜか。抵抗しないのは、同意の上か?」
「泉……」
「無理矢理されてる最中でも、相手を刺激しないために行為に応じることはよくあることだ。嫌がって抵抗して殴られるよりも応じるふりをして早く終わらせようとする。警察官なのに、そんなこともわからないのか」
「ちょ、ちょっとあなた」
そこへ扉が開いて、店主が男性を連れてきた。
「旦那さんが来ましたよ」
「妻が、お世話になったようで」
女性は夫の姿を見ると限界がきたのか、声を上げて泣き出した。遅れて別の警察官がやってきて、そのなかには女性もいた。
「もう大丈夫ですよ。一緒に行って、もう少しお話を聞かせてください」
夫婦が警察官に連れられて行くと、店には店主と泉と橙子だけとなった。
店主がカウンターの奥に行って、仕込みの続きをしている。
「泉、ありがとね」
彼は顔を上げた。
「私、あの女のひとがひどいこと言われたのに、なんて言っていいかわかんなくて、咄嗟に言葉が出なかった。でも泉は、ちゃんと言ってくれた」
泉は食後のコーヒーをひと口飲んだ。
「手配犯を相手にしてると、あいつらよく言うんだ。俺が犯した女たちの誰も、抵抗なんかしなかった。あいつらは喜んで犯されてたって」
「……」
「女たちのことは、俺は手に取るほどよくわかるんだって豪語するんだ。でも実際は違うから、手配犯なんだ」
「嫌にならない? そういうの見てて」
「たまにな」
でも仕方ない――そう言って彼は立ち上がった。
そろそろ銀次郎を迎えに行く時間だ。
獣医に行くと、銀次郎はまだ麻酔が抜けきっていないのか、呆けたようなぼーっとしているような様子で、泉を見ると一声鳴いて自分から籠に入ってきた。
「よしよし。疲れたな。家に帰ろう」
部屋に戻って籠から出すと、銀次郎はふらふらとした足取りで床の上を歩いた。まだ麻酔が効いているのだ。
「俺は出かけてくるから、ゆっくり休んでろよ」
泉は黒猫にそう言い置いて、部屋を出ていった。
今日はある手配犯を探しに、高田馬場まで出かける予定だ。
手配写真の情報にはこうあった。
『鈴村壮一 二十一歳 百六十八センチ 五十八キロ 左腿に矢印のタトゥーあり 高田馬場に多く出現 年齢十六から十九歳までの少女を狙い、三度の強姦未遂 いずれも未遂であったため不起訴 単独犯』
これだから法律は。
舌打ちをして、電車に乗る。高田馬場は学生街だ。十六歳から十九歳が好みなら、高校生から専門学校生、大学生といったところだ。そんなのは選り取り見取りで、選びたい放題に違いない。
手配犯の鈴村の写真は、若い。二十一歳というのだから、当の本人もまだ学生かもしれない。そんなのが学生街にいたら、探すのは骨が折れる。
泉は鈴村の写真をじっと見た。
目元にほくろのある涼しげな顔立ちの、なかなかにいい男である。言うなれば、どこかの雑誌にでも出てきてもおかしくないような顔をしている。
ふうん、と思っていると、通りで一人歩きの女子学生に声をかけている男に気がついた。
よく見ると、なにやら話しかけてついていき、それが失敗しては元の場所に戻り、また別の学生に話しかけているようなのである。
ん? あれ、鈴村かな。写真を取り出して、見比べてみた。髪型を変えているが、確かにそうだ。
そうか。一人の子を狙ってナンパして、どこかに連れていこうって考えだな。
そこで離れた場所からずっと観察していると、それはなかなか成功しないようなのである。
日が傾いてきて、場所を変えたらいいのに、と泉が思うくらい長時間い続けて、それでも鈴村は諦めなかった。
五時間ほどもそうし続けた結果、ようやく一人の女性が彼の呼びかけに応じて立ち止まり、共に歩いていくのが見られた。
そろそろ日が暮れる。お茶するか、夕食でもどうですかってとこか。さてどうするかな。
二人は道を歩いていくと、一軒の店に入った。食事をするつもりだ。後についていって、食べるふりをしながら様子を窺った。
食事の途中で、女性がちょっと失礼、席を立った。その間に、飲み物が運ばれてきた。
鈴村は辺りを見回し、何気なくその器の際に手をやった。
見たぞ。
泉のするどい眼光がその瞬間を捉えた。薬を盛ったな。
女性が戻ってきて、鈴村は飲み物を勧めている。
そして食後のデザートを食べて、ひと息入れた辺りで女性の様子がおかしくなった。
テーブルに突っ伏して、動かなくなってしまったのだ。
鈴村はそれをじっと見つめて、ねえ、大丈夫? と小声で聞いている。
泉はそれを見て、なるほど、と感心していた。さっきのあれは、睡眠薬か。食事に連れて行って一服盛って、眠ったところを襲う。古い手口だ。
今まで未遂ですんだのが奇跡みたいな話だ。だが、未遂で終わった分今度は確実にやろうとするだろう。
鈴村が勘定をして、女性の腰を支えて店を出ていくのを泉はじっと見ていた。そして自分も出ていくと、ホテル街の方向に歩いていく彼の後について行った。
鈴村は女性を引きずるようにしてホテルのなかに入っていき、エレベーターで三階へ上がっていった。泉はそれを確認すると、脇の階段から走って三階まで行った。
こういう場所の廊下は、狭くできている。だから、すぐに追いつける。
扉が閉まる瞬間、泉はそっと指を入れてわざと閉まらないようにしておいた。これから始まる行為に夢中になっている鈴村は、それに気がつかない。
隙間から覗いてみると、女性をベッドに寝かせた鈴村がその正面に立って服を脱ぎだすのが見られた。
こういう光景を目にすると、時々殺し屋稼業が嫌になる。俺は女の敵を殺すためにあんな辛い修行をしてきたわけじゃない、そう思うことがある。
しかし、目の前で無力な女が犯されようとしていて、どうしてそれを放っておくことができようか。それは正常な人間のやることではない。
泉はそっと刀を抜いて、部屋のなかに入った。
「そこまでだ」
鈴村は下着一枚だった。彼は突然現われた闖入者に驚いて振り向くと、腰を抜かして仰天した。
「お前、惜しかったな。今度は成功するとでも思ったか」
男は尻餅をついたまま、口をぱくぱくとさせていて声も出ないようである。
「残念だったな。お前はここで死ぬ」
男は床を張って入り口まで逃げ出した。泉はそれを、緩慢な歩みで追いかけた。
廊下まで出た男の髪を掴むと、一気に刀を引いた。血飛沫が顔にかかって、辺りが血の海に染まった。
首を店主の元へ持って行くと、彼はやれやれと呆れた様子だった。
「どうしてこう、強姦犯だとかそれの未遂だとかばかりなんだろうねえ、手配犯てのは」
店主は言った。
「奴らにだって、母親や妹や姉はいるだろう。娘がいるかもしれない。そういう自分の周りの女性たちが、自分がしているような目に遭わされたらどういう思いをするのかとか、考えたことはないのかねえ」
「――」
その言葉は、泉の心に重くのしかかった。
彼はなにも言わずに踵を返すと、バーを出ていった。
部屋に帰ってくると、すっかり元気になった黒猫が鳴きながら近寄ってくる。
気分を変えようと風呂に入るも、心は晴れない。
髪を拭きながら寝室へ行くと、先ほどの店主の言葉が脳裏に蘇ってきた。
奴らにだって、母親や妹や姉はいるだろう。
――姉さん。
窓の外に目をやると、いつの間にか雨が降っている。その雨粒を見つめながら、泉は昔のことを思い出していた。
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