プラスチックの朝ごはん

ことりいしの

第1話

 結婚してから六年。

 妻がおかしくなった。


 当初は育児疲れかと思っていた。

 そのころ俺たち夫婦には念願の第一子が誕生したのだ。妻は子どもが大好きで、付き合っているころから「子どもが欲しいの」と繰り返し言っていた。俺もそれに対して、「そうだな。どうせなら二人か三人とか子どもがいたら、賑やかになるかもな」と返していた。俺は三人兄弟だし、妻は二人姉妹だった。一人っ子の多い現代にしては、そこそこ多いきょうだいの中で育ったんだと思う。だから、俺も子どもはたくさんいても良いなと思っていた。妻も、「そうだね」と嬉しそうに頷いていた。

 だが、目も虚ろに、ときおりひどく泣き叫ぶ妻を目の前にすると、あのときの俺たちの考えは甘かったとしか言えないのかもしれない。子どもがひとり生まれただけでさえ、こんなに大変そうなのだ。ふたり、三人と増えれば、妻の負担は二倍、三倍と膨れあがるのは言うまでもない。

 妊娠、出産、育児。

 子どもを授かるというのは、女性側にかかる負担が非常に大きい。育児はともかくとして、俺は男だから妊娠も出産はできない。だから家事でも育児でも、自分でできることはやり、手伝えることは手伝っていた。でも、それは俺が「やったつもり」になっていただけなのかもしれない。

 だって、実際に、妻はおかしくなってしまったのだから。



 ジリリリリと蝉のように鳴きわめく目覚ましで起きる。朝六時には似合わない、耳障りな音だ。止めようとボタンを押しても、うまく止められなかった。うるさい音がやまない。独身時代から使っているから、経年劣化かもしれない。そろそろ買い替えようと決意するも、目の前の時計には何も施すことができない。とりあえずどうすることもできず、仕方なくジリリリリジリリリとやかましく鳴り響く時計をそのままにしてベッドから起き上がった。


 そのままリビングへ向かうと、キッチンで妻が朝食を作っていた。結婚した年に買ったこの家は、キッチンが売りだった。大容量の冷蔵庫が置けるスペースが十分にあり、収納もたくさんある。それに、IHではないコンロが三口あった。妻は料理やお菓子づくりが好きで、キッチンにこだわりを持っていた。そのこだわりのひとつが、IHでないことだった。なんでも、燻製をやってみたかったらしい。燻製って何? と呆ける俺に、彼女は誇らしげに燻製っていうのは、色々種類があってね、と教えてくれたっけ。確か……ああ、そうだ。冷燻、温燻、熱燻だ。いや、言葉だけ知っているだけで、それが何かはわからないけど。

 ほかにもIHでないコンロのキッチンがある物件はいくつかあったが、内見したときに立ち会ってくれた不動産屋のお兄さんが言った、

「将来、おふたりにお子さんができたら、面倒を見ながら料理を作ったりもできますよ」

 という言葉が購入のきっかけになった。

 このキッチンは対面式だ。料理をしながらも、リビングの全体が見渡せる設計になっている。妻は大好きな料理をして、家族と向き合いたい。そう笑っていた。だかこの物件に決めたんだ。



「おはよう」

 声をかけても、返事はない。俺がほとんど目の前の椅子に腰かけても、視線が交わることもなかった。

 最近はいつもそうだ。

 妻はどこか呆然とした顔で、火をつけた鍋を見つめている。最近、妻ときちんと目を合わせて会話した覚えがない。

「今日の味噌汁の具はなんだ?」

 努めて明るい声で問いかける。だが、やはり自分の声は妻の耳には届いていないらしい。妻はおたまで鍋をかき回すばかりで、こちらには視線ひとつ向けなかった。もちろん返答もない。かちゃりかちゃりとおたまが鍋の底にあたる音が響いてきた。しばらくすると、ガスの止まる音が聞こえる。妻は棚から食器を取り出し、ひとり分の朝食を用意して、立ったままリビングで食べ始めた。


 昔からそうしていたわけではない。


 むしろ妻は行儀作法に厳しかった。特に子どもが生まれてからはそれが顕著で、新聞を読みながら朝ごはんを食べる癖のあった俺は、毎朝のように叱られていた。

「ちょっと、悠人くん! またそんな行儀の悪いことしてぇー、この子に悪影響でしょ!」

「あ、ごめんごめん! 直すよ、直すからさ」

「それいつも言ってるけど? 悠人くんはいつになったら、その悪癖を直してくれるのかなぁ? あたし、昨日も一昨日も言ってるんだけど?」

 まだ哺乳瓶からミルクを飲んでいるような赤ちゃんに、行儀もなにもないじゃないかと思いつつ、俺は妻に注意されて朝食を食べ終えてから新聞を読むようになった。

「ちゃんと、『いただきます』って言って!」

「テレビばっかり観てないで、ちゃんと手も動かす!」

「ちゃんとお行儀よくできない人にはごはんなしですよ!」

 俺は妻のおいしい料理にありつきたい一心で、「いただきます」と言って手を合わせ、食事中はテレビを消すようにした。そんな俺の様子を見た妻は、「やればできるじゃん!」とどこか誇らしげに鼻の下を人差し指でこすっていた。

 そんな妻が『いただきます』も言わず、それどころか立ったまま、キッチンで食事をとっている。

 以前であればどんなに忙しくても、卵やウインナーを焼いておかずにしていたのに、それもない。

 妻の前にあるのは、おにぎりと一杯の味噌汁だ。だがそれすらも食べきれないらしく、おにぎりはほとんど三角コーナーに捨てられ、味噌汁もまた排水口へと流されていった。ジョゴジョゴと、排水溝が水分を下に下に流す音が部屋の中に響く。


「凛子ちゃん、大丈夫?」

 妻の名前を呼ぶ。

 明らかに大丈夫でない人に「大丈夫?」と問いかけてはいけない。どこかで読んだことがあった。でも、それ以外に問いかけるべき言葉が見つからなかった。

 でもやはりと言うべきか、妻からは一文字も返ってこなかった。

「凛子ちゃん」

 もう一度、名前を呼ぶ。それでも視線すら交わらない。

「ごめんね、凛子ちゃん。俺が悪かった。一か月半も家を空けたから。君をひとりにしてしまって、申し訳なかった。ごめん、だから元の君に戻ってくれ」

 謝罪も、懇願も、彼女の耳には入らない。

 ジリリリリ。妻に反応してくれない俺をあざ笑うかのように、部屋に置いてけぼりにした目覚まし時計が一際やかましく鳴く。

 妻はその音には気づいたようで、「ああ、また鳴ってたんだね」と言いながら、俺の寝室へと走っていった。そして、俺がそのままにしていた時計の目覚ましを消してくれたらしい。それまでずっと鳴っていたジリリリリという音が消えた。妻には、俺の声だけが届いていないのかもしれない。そんな予感が、脳裏にぷかりと浮かんでは消えてゆく。


 不意に時計を見上げた妻が「あ」とひとつの母音を漏らす。つられて時計を見た。気が付けばもう七時に近い。朝には時間泥棒がいるんじゃないかと思うくらい、時間がやたらとはやく進む。

「もうこんな時間か。悠夏を起こさないと、保育園に遅れちゃう」

 悠夏は俺たちの娘だ。「夏生まれだから夏の字を使いたい」という俺の意思と、「悠人くんの名前から一文字使いたい」という妻の意思がぶつかった結果だった。

 ぱたぱたと廊下を走っていった妻は、ほとんど悠夏を小脇に抱えてリビングに帰ってくる。そして、まだ半分くらい寝ている悠夏の前に、小さいおにぎりとヨーグルトを置いた。ぼんやりとしたままの悠夏は自分の前に置かれた朝食を見てから、

「ぱぱのぶんは?」

 と言った。

 悠夏は誰に似たのか口が達者で、同じくらいの年の子よりもよくおしゃべりをする。

「悠夏、なにいってるの……」

 妻は吐息まじりにそう言ってから、「いいのよ。いらないの」とはっきり言いきった。

「じゃあ、ゆうが用意していい?」

「……そうね、そうしてあげて」

 悠夏はごしごしと目をこすり、それから幾分しゃきりとした様子でごはんを食べ始める。それを見て妻はトイレに行った。

 それからすぐにジャーという水を流す音が聞こえ、水の勢いがゆるやかになってきた頃に「ううううううう」という声が零れてきた。慟哭に聴こえた。

 ほどなくして悠夏はごはんを平らげ、おもちゃ箱に駆け寄った。そして、いつか俺が買ってあげたおままごとセットを床に広げる。プラスチックのお皿の上に、プラスチックの料理を並べた。ハンバーグにチキンライス、それからリンゴのような果物。よく見るお子様ライスのようなラインナップだ。

 悠夏は綺麗にそれを並べて、部屋の片隅に向かって走った。

 リビングの一角には、写真を並べている低い飾り棚がある。俺は写真が趣味で、どこかへ行ってはカメラを構えて、シャッターをきって、現像して、それらをフォトフレームに入れて並べてを繰り返していた。

 実のところ、妻とは趣味の写真を通して出会った。いや、きっかけといった方が正しいか。

 大学生のころ、ふらっと立ち寄った海岸があった。本当にふらっと立ちよっただけで、目的があったわけじゃない。縁もゆかりもない土地だった。潮風に吹かれながらカメラのレンズを覗いていると、波打ち際でワンピースをはためかせる女性に焦点が当たった。

 それがのちの妻だった。

 妻はそこで映画のワンシーンのように立ち尽くしていた。あとで聞いた話によれば、付き合っていた彼氏に振られて傷心旅行中だったらしい。そんな彼女に、「一目惚れしました!」と叫んだのが俺だった。今考えるととんでもない話だ。笑い話にしかならない。

 その笑い話のネタにと、妻と出会った海岸の写真も飾ってある。

 娘はその写真の隣に、「ぱぱ、ごはんだよ」とおままごとセットの料理を並べる。フォトフレームのような影がそこにはあった。

 その隣には何を飾っていただろうか、と思い、俺は娘に近寄る。

 娘はそんな俺の行動に気が付いていないようで、「おいしい?」と無邪気にフォトフレームに向かって話しかけていた。それをほほえましいなぁと思いながら、娘の視線の先に目を向ける。


 そこにあったのは、俺の写真だった。


 それだけではない。そこには、白い骨壺も置かれていた。




 ああ、そうか。

 俺は――。

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