嘘つき人間と正直鬼が交わした、決してちぎれぬ約束~埋もれた童話集・鬼~
毛糸ノカギ
正直者は馬鹿を見る。だが、嘘つきだって損をする。
「ねぇ知ってる? あそこのお山には鬼が住んでるんだってさ」
日暮れ時。村の広場にて、子供たちが五人。楽しそうに何かを話している。
女子が三人に男子が二人。全員まだ小さな子たちだ。噂話を鵜呑みにしていてもおかしくない。
「鬼はね。暗くなると山から降りてきて、人を食べちゃうんだって。だから、夜はバレないように家で静かにしてなきゃ駄目なんだって。昨日、お母が言ってたの」
「え~こわ~い! じゃあ今日はもう帰らなきゃ! おひさま、そろそろ帰っちゃうよ!」
「えーもう? 俺らまだ遊んでたいんだけどなぁ」
「じゃあ二人は遊んでればいいじゃない。でも、鬼に食べられちゃうけどね」
女子たちの見放したような物言いに、男子たちは「ちぇ。わかったよ」と渋々ながらも頷いた。やっぱり怖いものは怖いのだろう。
そも、この手の噂話とはそのためのものだ。
幽霊に連れていかれるだったり、蛇に噛まれるだったり色々なバリエーションがあるこれらは、どれも子供をしつけるための作り話。
今回ならば、子供を怯えさせ日の入りまでに帰宅を促すものだろう。
だからだろうか。この手の話には粗が多い。子供に伝わればいいのだから、難しく複雑に作る必要がないのだろう。
今回だって、実際に鬼がいるのだとしたら、家にこもったところで意味がないだろう。だというのに、多くの子供たちはそんなことも気にせず怖い怖いと鵜呑みにする。
俺にとっては、なんと都合がいいことか。
「おーいそこの子供たち。安心しろー。鬼は来ねぇからよー」
ニコニコと手を振りながら、子供たちに近寄る。
今にも帰ろうとしていた彼らが、一斉にこちらを振り向いた。
「誰だよ兄ちゃん。俺たち早く帰んなきゃなんだけど」
「だから、帰んなくてもいいんだって。俺は、そうだな……そう! 鬼の友達なんだ!」
「えー!? 本当?!」
当然、そんなの嘘である。
鬼なんか会ったこともないし、正直実在してるかどうかも疑っている。
だが、女子たちはそんな俺の言を聞き、大層驚いた様子で駆け寄ってきた。
俺がこんなことをするのは、単に子供を騙すのが楽しいからだ。
河童と相撲をして勝ったことがあると言えば、はたまた三途の川を泳いで帰ってきたと言えば、子供たちは素直に騙されて、凄い凄いと俺のことを尊敬する。
それがとても気持ちが良い。
幼い故の愚かさだ。嘘を吐いても簡単に信じる。
例え疑われても、ちょっと話に具体性を持たせてやればすぐに掌を返す。
大人相手じゃこうはいかない。
「おー本当だとも」
「うっそだー! だって兄ちゃん弱そうだもん」
「嘘じゃないさ。鬼はな、自分より酒が強いやつを尊敬するもんなんだ。現に俺は鬼の野郎と酒飲み勝負を交わして勝ったから、鬼に認められてんだよ」
これも嘘。俺は人に勝てるほど酒が強くない。鬼なんぞと勝負すれば、たちまちに酔わせられ負けるのがオチだ。
「えー? じゃあ、鬼はどんな姿をしてるんだよ。実際に見たんだったらわかるよな?」
「……もちろんわかるとも。鬼はな、それはもう大岩のような大男で、頭には真っ黒な角が二本。いつも酔っぱらってて脇には子供一人が収まるくらい大きな徳利を抱えてんだ。顔中に髭が生い茂り、牙はまるで龍のそれ。顔つきは獣染みていて、皮膚は血で真っ赤に染まってる。……どうだ? ここまで言えば信じてもらえるか?」
以前どこかで聞いた知識を適当に並べてそれっぽいことを言ってみると、疑っていた男子たちはひそひそと相談事を始める。
「……なぁおい、もしかして本当なんじゃ……」
「確かに。嘘ついてるようには見えないしな……」
漏れて来るその会話を聞いて、俺はにやりとほくそ笑んだ。
さて、そろそろ称賛の言葉を聞かせてもらおうか。
「そうだお前ら。もし鬼と会ったら、
「へぇー! お兄さんってすごいんだね! ありがとう!」
「…まぁ認めてはやるよ。でも、俺らもすぐ兄ちゃんみたいに、鬼に勝てるようになるんだからな? 舐めんなよ!」
純粋な誉め言葉。いや、男子の方は少々敗北感の方が強そうだが、それならそれでいい。どちらにせよ気分がいいことには変わりないのだから。
ほれ。もっともっと聞かせてくれ。
「あ、じゃあさじゃあさ。この兄ちゃんに守ってもらえば、暗くなっても遊べんじゃないか?」
「うっわ名案! 夕餉前まで遊んでやろう!」
「えーやだよー。わたしたち鬼なんて見たくないもん」
「なら兄ちゃんに村の入り口を守ってもらえばいいだろ? そんで、鬼が来たら追い返してもらうんだ。そうすれば村の中にいる俺たちが鬼に会うこともないしな!」
おっと。風向きがなにやら変な方向に。
面倒くさそうな話になってきた。
「おいおい。言ったろ? 鬼に会ったら俺の名前を出せば……」
「やだよー。鬼って怖そうだもん。お兄さんの名前を言う前に食べられちゃったらどうするの?」
「頼むよー。兄ちゃんの言うことなら鬼も聞いてくれるんだろ? だったら村に入らないように言ってやってくれよー。夕餉まででいいからさー」
「いや……でもなぁ……」
子供たちに囲まれて、拝まれるように説得される。
正直言ってあまりにも面倒な話だ。最近は昼でも肌寒くなってきたのに、夕餉までとはいえ夜の寒さの中一人立ち尽くすというのは、日々を怠けて過ごす俺にとって苦行でしかない。
とはいえ、ここで逃げてはせっかくの敬服も蔑みに変わってしまう気がする。
「なんだよ。やっぱり嘘なんじゃん」なんて言われてしまえば、俺はたちまち嘘つきだ。
「―――……仕方ねぇ。夕餉までだぞ」
「やった! ありがとな兄ちゃん!」
***
日が落ちる。すると、辺りは妙な静けさに包まれる。
夜は人の時間ではないという。鬼や妖などが跳梁跋扈し、我ら人は家の中に籠らなければならない。そういう噂話だ。
居もしないものを怖がるなんて馬鹿馬鹿しいと思っていたが、こうして夜の暗闇の中一人立っていると、少しは恐れる気持ちもわかるというものだ。
一寸先は真っ暗で、まさしく人の世ではない。あちら側に行ってしまえばもう戻っては来れないような、そんな根拠のない常識が俺の中へ刷り込まれる。
村の入り口には門などという便利なものは置かれておらず、当然そんな村なもんだから番の者なんているわけもない。
あるのはとってつけたような木柵くらいのもので、あとは田畑が広がるのみだ。
よって、木柵を背もたれに座りただ安酒を飲むくらいしかやることがなかった。
(寒いし退屈だし……いつまでやりゃいいんだこれ)
あの子供たちは、帰る時にはその旨を伝えに来てくれると言ったが、果たして本当なのか……。もうそろそろ
いやしかし、もしまだ遊んでいたら厄介だ。来た時に俺が居ないとわかれば、それは嘘を吐いたとみなされる。そうなれば、こうして一人寒空の下座り呆けているのは一体何になるというのだ。十割の損でしかない。
自分を励ますように酒を一口。安っぽい辛さが口の中を満たしていった。
どうせならもっといい酒が飲みたいものだ。大吟醸。大吟醸が飲みたい。
あれは、俺には手の届かない酒だ。
他の人よりも面白い人生を送っていると考えていた以前の俺は、各地で自分の経験した面白い小話を話す話者として銭を稼ごうとした。
しかし、そんな小話は聞く人からすれば自慢話でしかなく、だからなんだという程度のものでしか無かった。わざわざ金を払ってまだ聞く価値は無いとされ、話者としての俺はすぐに破綻した。
だが、先がないとわかっていながらもしばらくは活動を続けた。
そんな俺が店仕舞いを決意したのは、ある客に言われた一言がきっかけだ。
『つまらない人生ばっか送ってんだから、嘘でも吐いて少しくらい面白くしろよ』と言われたのが、今も耳の中で木霊している。
その後は不貞腐れて怠慢な日々を送った。つまらない人間である俺がまともな生活を送れないのは道理であり、そんな俺に高い酒を買うような余裕なんてないのは至極当然の事だったのだ。
村の人々は俺を役立たずと罵り、今となってはまともに相手をしてくれるのなんてそれを知らない子供だけ。
せめてそんな彼らだけでも俺を誉めてくれればと、嘘で塗り固めた有りもしない自慢話を得意げに語っている。
……なんて馬鹿らしい。
もう帰ろう。こんな寒さの中では、なけなしの酔いも冷めてしまいそうだ。
「やぁやぁそこの人。突然で悪いのだけど、ワタシにもその酒を一口頂けないだろうか?」
と、立ち上がろうとしたその時、闇の中から突然声をかけられる。
何者だ? 声色は女だ。だが、女がこんな時間に、それもこんなところで何をしているというのだ。
なんだか、嫌な予感がしてならない。
「誰だアンタ……」
「ワタシか? ワタシは鬼だ」
闇の中からうっすらと、その姿が見え始める。
子供のような背丈のそいつは、やはり女であった。
だが、ただの女ではない。見ればすぐに分かった。
頭には二本の赤い角。山中の木々のような深緑の荒れた長髪。皮膚の色は薄汚れているものの、人間とは思えないほど真っ白い。
服は熊のような獣の毛皮を剥いでそれをそのまま着ているかのよう。所々に付いている赤い汚れは恐らく血だ。
だが、顔だけは美しい。なぜか目を閉じているのが気がかりだが、それさえ気にはならないほどの美しさを持ち合わせていた。
色気なんてないはずなのにどこか扇情的な気持ちになるその顔は、警戒心を超えた何かを俺に抱かせる。
それなりの着物を着せ身なりを整えてやれば、古い話に出て来る月の姫ほどの美しさになるのではないだろうか。誰だ。獣染みているなんて馬鹿を言ったやつは。
「なんだお前? 逃げないのか?」
「いや、俺も逃げたいんだがな。足がすくんじまったみたいで動かねぇんだ」
「そうかそうか。いやなに、その方がワタシとしてもありがたい。楽なのでな」
アハハと笑い、鬼を名乗るそいつは俺から酒を奪うと、ごくごくと豪快に飲み干していった。
だというのに、飲み終わった後のその顔は不満気に引き攣らせている。ならば全て飲むな。
「……安い酒だな。久しく飲んでいないとはいえ、これじゃあ喉も潤わんぞ……。よくこんなものを飲めるな」
「うるせぇ。人様のもの奪っておいて文句言うなよ」
「それでいうならワタシは鬼様だ。人のものを奪って何が悪い。どうせお前はワタシに食われるのだぞ?」
まるであたりまえのことを言うように、鬼は俺を喰うと宣言した。
あぁ…不運なことに、見た目は違くともそれだけは同じなのか。
「喰うのか……。どうやって?」
「そうだな……まずは血を飲もう。腕を千切り、そこから飲む。その次は肉だ。腹を豪快に嚙み千切る。そうして最後には、残った頭を少しずつ啜ろう。甘味が効いてて美味いのだ」
「それは…とても痛そうだ」
だが、なぜだろうか。思ったよりも恐怖心はない。
現実味がないからか? それとも、俺がおかしいだけか?
とはいえ喰われたくはない。なんとかならないだろうか……。
「なぁ鬼さんよ。俺も喰われたくはない。代わりの別のなにかじゃ駄目か?」
「ダメだな。ワタシたち鬼は血を吸わねば強くなれんのだ。それゆえに血は美味いものだが、中でも人の血は特段の美味だ。生き物である以上、目の前に豪勢な食事があれば楽しまぬわけにはいかないだろう?」
強くなるためか……。
それが鬼にとってどれほど大切なことなのかは知らないが、聞く限りではそれは人間の血でなくとも賄えそうな気がする。
つまり、彼女が求めているのは美味という娯楽だ。
娯楽というものは何も美食だけではない。ならば、なにか別の娯楽を提供してやればいいのではなかろうか?
「……俺を喰うのは、もう少し待ってくれ」
「嫌だ。今食う」
「いや、ただ喰うなと言ってるわけじゃないんだ。俺だってここから逃げようとか戦おうとか、そういうのが無理なことくらいはわかるからな。ただ、ちょっとくらいは抵抗させてほしいんだよ」
「じゃあどうすると? 泣いて命乞いでもするか?」
「そうだな……。話をさせてほしい。面白い話だ。今から話す俺の話が面白かったら俺を喰わないでくれ。もしつまらなかったら、俺を好きにすればいい」
「ほぅ……」
正直、歩の悪い賭けだ。
つまらんと言われた俺の話に自分の命を賭ける。どう考えても払う代償が大きすぎるし、命を賭けられるほどの自信もない。
だけど、これしかない。逃げるのも戦うのも出来ない俺にとって、錆びついたこの口だけが唯一持ちうる武器だったのだ。
「いいぞ。話してみろ。ワタシが食うのを惜しむほど面白い話が出来るというのなら、お前を食わんでおいてやる」
「よし。じゃあ、始めるぞ……」
そして、俺は話し始めた。
登場人物全て嘘。出て来る物も現実味のない嘘ばかりの現実味の無い物語を。
京を飛び回る鳥のような寿司なんて存在しないし、そいつが眠る熊の口に入って魚にとなり山の大滝を登るなんてもはや意味が分からない。
そんな話を、俺は必死こいて話したのだ。まるで目で見たことのように丁寧に、嘘に没頭して楽しんでもらうために。
だから、意外にも鬼が聞き入る姿勢を見せてくれたのは相当に嬉しかった。時折クスクスと笑ったり、口を開けて驚いてくれる彼女を見る度に、話の勢いが強まっていた。
「―――と、これにて一匹の魚は大空へと羽ばたいたわけだ。おしまいおしまい!」
話終わったころには、夜も深くなっていた。丑三つ時も近いかもしれない。
さて、どうだ? 話している間、鬼の反応は悪くなかったぞ?
「……うむ! つまらん!」
「えっ……はぁ?! なんでだよ!」
「なんでもなにも、誰が面白いと思うんだ? それ。展開に突拍子もなければ、人物…いや動物か。そいつらに共感も出来ん。よくわからん生き物のよくわからん悩みに誰が共感できるというのだ。後長い! 魚が魚として海で生きるか、羽のある寿司として空で生きるかの葛藤に半刻も使うんじゃないわ!」
「うっ……」
鬼の指摘はもっともだった。まともに聞いてもらえてると思うと興が乗ってきて、思い付いた限りの事を全て語ってしまったのだ。そりゃ夜も更けるというもの。
しかも、聞いてる側はたまったもんじゃない。つまらん話に数刻も付き合わされたのだ。むしろよく途中で襲い掛かられなかったな、俺。
「あー! そうかよ! じゃあもう好きにしろ! でも出来るだけ優しく喰ってくれよ!! 痛いのは嫌だ!」
「いや、お前の事は食わんぞ」
「えっ……え?」
四肢を地に投げ打って仰向けに寝転がる俺を見て、鬼はクカカと可笑しそうに笑う。あ、今日で一番面白そうだ。
「お前の話はつまらんが、気に入った! だから食わん!」
「気に入ったって……どこが?」
「丁寧なとこだ! ワタシは生まれつき盲目ゆえ、山の景色や海というものをこの目で見たことがない。だが、お前の話はそんなワタシでも、山や町、川に海といったものの景色がありありと浮かんでくるほど丁寧なものだったぞ!」
言いながら、鬼は前髪を掻き上げてその目元を見せて来る。
ずっと目を閉じているからそういうもんなのだと思っていたが、改めてみると彼女の目は、上下の瞼がくっついているかのように閉じている。
恐らく、開けられないのだろう。もしかしたらこの瞼の奥には眼球があるのかもしれないが、瞼が開かないことにはあったところで意味がない。
「あぁ、初めての気持ちだ。赤とは心が焼けるような色であり、青とは木々の間を駆け抜ける風のような色だったのか。魚とは刀のような切れ味を持つ勇ましい生き物で、熊とは怒りを形にしたような恐ろしい存在だったのか。ワタシはお前たちが当たり前に知っていることを、今初めて知ったぞ!」
ずいぶんと喜んでいる様子の彼女だが、反対に俺は少々罪悪感に駆られた。
果たして、魚の表現はあれでよかっただろうか。可愛らしい熊もいるのではなかろうか。わからない。わからないが……。
「そうか……喜んでもらえて、何よりだ」
初めて、まともに話を喜んでもらえたんだ。どんな形であれ、嬉しいことには変わりない。
「おい人間! お前、名は何という?」
「名前? 与楽だ」
「そうか与楽! ワタシは明日もここに来る! だから、与楽も此処に来い! そしてまたつまらん話を聞かせろ!」
鬼は俺の肩をぶんぶん揺らしながら命令してくる。
つまらんという言葉が本当か疑わしいくらいのその顔を見れば、断るなんて考えは浮かばなかった。
「―――あぁいいとも。もちろんだ。必ず、明日も俺の面白い話を聞かせてやる」
***
もうそろそろ、季節は雪が降り始めるころになる。
気が付けば、あの日からずいぶん日が過ぎていた。
冬入り前のあの日から、俺の生活は彼女と過ごす夜が中心のものへと変わり、今ではもうすっかりあちら側の仲間入り。
彼女にくだらない話をして、彼女となんでもない話を交わすだけの日々を送っていた。
ある日は鬼の質問に日が昇るまで答え続けたし、またある日は俺が作り上げた遠い異国の話もした。
俺が話す話に、鬼はいつも夢中になって耳を傾けてくれる。
もちろん、そんな異国なんて存在しないし、質問の中にはでたらめを言って答えたものもある。
というかむしろ、でたらめだらけだ。
彼女の目が見えないのをいいことに、俺は自分の体が古傷だらけだと言ってしまったこともある。昔、剣の道を志していて国中あちこちを旅して周った時の傷なんだと。彼女の中ではそういうことになっている。
なぜこんなことをするかといえば、嘘でもいいから彼女に喜んでほしかったからだ。とにかく面白い話をしようと、俺の面白くもない人生を嘘で面白くしようと語った。
だって、笑った彼女が見たかったから。彼女がどう思っているかは知らないけれど、俺はこの時間に彼女の笑みを見るのが人生の何よりも楽しみだったのだから。
そして今日は、過去俺が体験した春夏秋冬それぞれの季節の面白い出来事について語っている。まぁ絵空事だが。
俺はしたこともない花見を楽しみ、架空の古寺に散る紅葉の舞を見て、訪ねたこともない神社で参拝をする。そこでの経験を、俺は彼女にじっくりと話すのだ。
そうして語った嘘の体験談の中で、俺が一番面白く語れたなと思ったのは海の話だった。
海というものに対して僅かな知識しか持ちえない彼女は、どこまでも続く水平線の美しさを知らなかった。
だから、俺が果てしない海の圧倒的な様を語れば、大袈裟ともとれるほどにいい反応が返ってきた。
「なに!? 海とは淡海の海よりも広く美しいものなのか! ずるいぞ与楽。それほどの光景ならワタシも見てみたい!」
「残念だな。俺も言葉で伝えきれないあの雄大さをお前に見てほしいよ」
「おぉそうだ! なら、いつか見に行こう! そして海を前に、与楽がワタシにその水や砂の輝くような美しさを語ってくれ! ワタシはそれを、潮風とやらを感じながら聞いてみたい!」
「そりゃいい。今からその時が待ち遠しいな」
なんて言いながら、俺はいつまでこいつと一緒に居る気なのだろうと思う。
こうしていると忘れがちだが、こいつは人を喰う化け物なのだ。俺がこいつの食い物である以上、いつまでもこのままというわけにはいかない気がする。
だが、最近のこいつは俺をどう見てるのだろう。
共に笑い、時には喧嘩をするかのようにお互いが乱暴な言葉で会話をしている相手である俺を、こいつは未だに食べ物としてしかみていないのだろうか。
そうだったら、なんだか胸から何かが零れそうだ。だったらいっそ全てを食べてほしい。
その想いはだんだんと大きくなっていって、どうにも聞かずにはいられなかった。
「―――な、なぁ。おまえ」
「あ、雪だ」
と俺が言いかけたところで、彼女の頭に冷たい白球が落ちた。
見上げると、うっすらと灰がかった夜空からはしんしんと雪が降ってきている。
そろそろかと思っていたが、まさかもうこんな季節になっていたとは……。
「困ったな……。ワタシ、雪は苦手なんだ。ずっと体に当たって来るから、他の感覚が鈍って仕方がない」
「あー、お前そういえば、全身の感覚を研ぎ澄まして歩いたり走ったりしてるとか言ってたもんな」
「そうだぞ。だから、雪に降られると歩くのも一苦労なのだ」
渋そうに顔をしかめてため息を吐く。
これほど元気のない彼女は今まで見たことがない。よっぽど雪が嫌いなようだ。
「じゃあ、俺の家来るか? 雪止むまで」
そんな言葉が、困ってる彼女を見たら自然と口に出ていた。
「―――は、はァーーッ!? 与楽おま……何言ってッ…!」
「な、なんだよそんな大声出してさ。嫌なら来なくていいっての……」
「いや…! 嫌じゃないが……! そうか、与楽もそうだったのか……」
毛が逆立つくらいの勢いで叫び出す彼女。見ると、顔を手で覆って何やらうめき声を上げていた。
いきなりなんだっていうんだ。困ってる人を家に泊めるくらい、よくある話だろうに。
「……いよっしっ! 行く! 行くぞ! 早く行こう! 急いで行こう! ほら、与楽も立て! 立って走れ!」
「別にそんな急がんでも……」
「えぇい! いいから言う通りにしろ! 喰うぞ!」
「ちょっ……わかったわかったって……! だから噛みつこうとすんな! それは洒落ならん!」
***
「早く歩け! 自分の住処だろう!?」
「別にそんな急がんでも……まだ雪も弱いだろ?」
「うるさぁい! 与楽から誘ったんだろう!!」
俺たちは村の中をずかずか歩いて行く。人目がないからいいけれど、誰かが見てたら大騒ぎになってるところだ。鬼が村を襲いに来たと思われても仕方がない。そうなれば、俺は鬼の手引きをした大罪人ってとこか。
まぁ、招き入れたかったのは俺の家だけなのだがら、そこは許してほしい。
しばらくして一軒の家屋の前で足を止めると、彼女は察したように戸の傍へと駆け寄った。
「ここか!? ここが与楽の住処か!?」
「あぁそうだ。だからあんま大声出すなって」
きぃ、と木の軋む音を立てながら家の戸を開ける。
あんまり綺麗な家ではないが、雪避けの屋根くらいはある。今はそれで十分だろう。
「ちょっと待ってな。今、囲炉裏の火を点ける」
「いや要らん。というか点けるな恥ずかしい」
恥ずかしいって、いつもは夜闇の中だからか? 慣れれば姿くらい結構普通に見えてるけどな……。
なんてのんきなことを思ったのも束の間、彼女は一度大きく深呼吸したかと思えば、突然着ていた服をバっと全て脱ぎ捨てた。
「―――はっ…はぁ!? お前何して……ッ!」
「何って…見ればわかるだろう!? お前も早く脱げ!」
「脱ぐか馬鹿! 意味が分からん!」
「意味が分からんって……あぁ! まさか!!」
彼女の突拍子もない行動に驚いていると、彼女は何かを察したように片手で口元を抑え、いつもより赤くなった顔をさらに赤くさせて迫って来ると、がっしりと俺の肩を掴んだ。
「与楽お前もしかして、そういうつもりでワタシを誘ったんじゃないのか……!?」
「そういうって……はっ!? そういうことか!?」
ようやく事態を察した俺の問いに、彼女はもじもじと俯きながらもこくりと頷く。それで合点がいった。
つまりこいつは、俺が夜伽に誘ったと勘違いしたってことだ!
なんか今日はいつもと騒ぎ方が違うなと思ったら、それで混乱してたのか!
「違うわ! そんな度胸俺にあるかよ!!」
「―――はぁぁぁぁああああ!?!?」
彼女の叫びは、それはもう空気を震撼させるほどのものだった。
***
夜中。やけに騒がしいと思って目を覚ました男がいた。
うるさい。どこの家のやつだ。こんな夜更けに叫びやがって。
一言文句を言ってやらなきゃ気が済まん。
そう意気込んだ男は、家を出て、声の主を探り始める。
よく聞くと、聞いたことのない女の声だ。こんな村に来客か?
疑いながらもたどり着いたのは、村で有名な厄介者の家。
あの疫病神め…どこまでも俺たちに迷惑かけやがる。今度という今度は許さん。
と、同時にあんなやつとつるむ女はどんな顔をしてるのか見てみたくなった。
男は、窓からこっそりと覗いて見ることにした。
夜伽でもしてたら面白い。せいぜい笑って恥かかせてやる。
「―――お……鬼、だ」
そう意気込んだ男が目にしたのは、化け物であった。
頭には禍々しい角が二本。肌は人間とは思えないほど白く、眼は埋まっている。
だというのに顔は異常なまでに美しく、最早妖の類でしかあり得ないほどだ。
それに加えて、髪は黒でも茶でもなく山の深い緑のよう。よく見れば、口には犬よりも鋭い牙があり、爪は鋭く長い首を刈り取る鎌みたいだ。
極めつけに、近くには熊の毛皮が放り投げられている。
あの女の姿は、どう考えても人じゃなかった。
アイツは、あの鬼は今にも与楽に襲い掛かりそうな勢いだ。怒っているのか? でも、与楽が引き入れたんじゃないのか?
「―――と、とにかく村長……村長に知らせなきゃ……」
腰を抜かしたように倒れ込んだ男は、赤子のように手足を動かし、地面を這って進んでいく。彼が村長の家にたどり着くのは、少しだけ時間がかかりそうだ。
***
「そろそろ機嫌直してくれって。勘違いさせたのは悪かったけど、何も泣くことないだろ」
「……うっさいわ。なら紛らわしいことするなっての…バカ野郎」
彼女は膝を抱えて床に転がってそっぽを向いてしまった。
あれからもうずいぶん経つが、ずっとこんな感じだ。黙って服を着たかと思えば、ごろんと不貞腐れたっきり、何を聞いても放っておいてくれ的なことしか言わない。
けれど、そろそろこちらも確認しておきたいことがある。
「―――……なぁ、お前ってそのさ、俺のことどう思ってるんだ?」
勘違いとはいえ、夜伽とわかっていながらここまでついてきたのだ。
それはつまり、彼女は俺とそういうことをしても問題ないということ。
人間的に考えれば、ただの食料にそんな感情は抱かないだろう。
ただ、彼女はあくまでも鬼である。人間の常識で考えることは出来ない。
もしかしたら、人間でいうところの家畜に対して愛着が湧くのに近いのかもしれない。そうだったらやはり駄目だ。俺は彼女とそういうことは出来ても、そういう関係にはなれない。
俺は寝転がる彼女の横に胡坐をかく。
そして、恐る恐る尋ね始めた。
「俺は……お前のことを、人として好きになっている。正直言って、お前の白い肌を思いっきり抱きしめたいし、唇も重ねたい。今までの俺の人生は、なにも面白みのない嘘にまみれたつまらない人生だったけど、お前といる間だけは本当に楽しかったんだ」
「―――……つづけろ」
まだ、彼女はこちらを振り向かない。湿り気のある声で、一言話の続きを求めるだけだ。
その要望に、俺は全力で答える。嘘無し見栄無し楽しませる気無しの本当だけで構成された俺の話を。
「俺は、ずっとお前に話を聞かせていたい。どこへ行っても、どんな時もずっとだ。お前は、そんな毎日をどう思う?」
俺が語り終わると、彼女はごろんとこちらを振り向く。
そのまま俺の腰に手を回すと、顔を押し付けてきた。
角が当たらないように配慮はしてくれているのが、なんとも愛おしい。
「―――そんな毎日は、とてもつまらなそうだ」
「……おい、そこは正直に言うなよ。嘘でも面白そうって言ってくれ」
「いいんだよ、つまらなくて。ワタシは、つまらないのがいいんだ」
俺は、自分の腹に埋まろうとする彼女の頭に手を置いた。
撫でると、彼女はより強く頭を押し付けてくる。
その柄ら強さに、俺は心の底から満たされている感じがした。
「なぁ……。一つだけ、約束してほしいことがあるんだ」
「なんだ? ワタシ、与楽の言うことならなんでも聞くぞ?」
腹から顔を上げた彼女は、きょとんとした顔で俺が口を開くのを待っている。
「もう、人間は襲わないでくれ。お前が人と敵対したら、俺たちは一緒に居られなくなる」
「それは、お前が嫌だと思うからか?」
「……やっぱり、そんな理由じゃ駄目か?」
別の言葉を並べることもできた。お前のことをみんなに認めてほしいからとか、本当は悪い鬼じゃないのだと知ってほしいからだとか、そういうお前のためを思ってという聞こえの良い訴えをすることもできた。
もちろん、そんな気持ちがないわけじゃない。正々堂々彼女と一緒に居たいとも思うから。
でも、やっぱり一番はこれだったのだ。俺が嫌だと思う感情。俺は彼女を好意に思う心のどこかで、彼女が人を食べることに少なくない嫌悪感を抱いていたのだ。
「―――わかった。じゃあ、やめる」
だから、彼女が快くそう言ってくれた時、ホッとため息が出た。
「いいのか?」
「いい。別に美味しいってだけだ。動物の血でも十分だし、何より与楽と一緒に居られなくなる方がワタシには辛い」
「……そうか。ありがとう」
「ただし! 与楽も一つワタシと約束しろ!」
ずいっと顔を近づけた彼女は、いたずらな笑みを浮かべる。
約束。俺はどんなものでも受け入れるつもりで彼女の言を待った。
「お前は、もうワタシに嘘を吐くな。自分じゃ気が付いてないんだろうけど、嘘を吐く時のお前の声は、ちょっとだけ震えているんだぞ?」
優しく叱るように、微笑む彼女は俺の頬に触れた。
その手からは、温かなぬくもりを感じる。小さな掌なのに、全身を包み込んでくれるような温かさだった。
「……知らなかった」
「だろうな。だから言ったんだ」
少しだけ自慢げに微笑む彼女。お前のことはお前よりも知っているんだぞ、とでも言いたげな顔だ。
「……そうだな。わかった。もうこれからは、お前の前でそんな顔を見せないようにする。約束だ」
「本当か? 鬼にとって約束は絶対に破っちゃいけないものなんだぞ? 破ったらもう、ワタシと与楽の縁は千切れちゃうんだぞ?」
「なんだよ、もう疑ってるのか? わかったって言ったろ。俺はもうお前に嘘を吐かない」
「……うん。それでいい!」
そう言って彼女は俺から離れると、俺の前に座った。意外にも、綺麗な正座でだ。
そして、何かを言おうとして言い淀んだ。少しだけもごもごとした後、一度大きく深呼吸をしてまた口を開く。
「与楽。今から、ワタシの名前を聞いてくれないか?」
「名前? あぁ、そういえば知らなかったよな。てっきり無いもんなんだと…」
「言わなかっただけでちゃんとあるがな。鬼の名前は、生涯を添い遂げると誓った相手にしか教えてはいけないんだ」
「つまり、鬼の儀式みたいなものか?」
「まぁ、そうだな」
実質婚姻の儀式だ。
鬼の、彼女の大切な名前を今から教えてもらえる。そして、俺が彼女の相手になれたという事実。
それが、俺の心の中を赤色が染め上げていくのが分かった。
「い、いいか? 言うぞ?」
「おう。こ、来い!」
「ワタシの、名前は」
「村に害なす悪鬼め! 覚悟しろ!」
彼女が名乗ろうとしたその瞬間、勢いよく家の戸が破られた。
入ってきたのは、大勢の村の男たち。皆それぞれ、クワや斧なんかの武器になりそうなものを持っている。
「な、なんだよお前ら……」
「与楽……貴様、どうやら鬼を手引きしたというのは本当のようだな。役に立たないだけではなく、村に厄を連れ込むとは……!」
男たちの真ん中に立つ老人が憎たらしそうな声を出す。村長だ。
どうやら、俺が悪意をもって村に鬼を連れ込んだと誤解しているらしい。
しかし、一体どこで彼女のことがバレたんだ……?
とにかく、弁明しなくては。
「村長…違うんだ。こいつはそんな、人を襲うような鬼じゃないんだよ……! だから落ち着いてくれ!」
「貴様の言うことなぞ信じられるか!! 知っておるぞ! 子供に嘘ばかり吐きおって……! 貴様はこの後牢行きだ! 奉行所に引き渡してやる!」
厄介なことに、村長は俺の話を聞く気がないらしい。
怒鳴り、罵倒し、罰することしか頭にないのだろう。これではもうどうしようもない。
なら、俺に何が出来る? 彼女を守るために、今の俺に何が出来る?
浮かんできたのは、最早武器とも言えないような方法だった。
―――あぁ。ならもう、仕方がない。これしかないのだから、仕方がない。
「与楽……?」
手と足に力を込め立ち上がろうとしたとき、彼女が不安そうに俺の手を取った。
俺は彼女のその手を優しく退かし、耳元で小さく囁いた。
「上手く逃げろよ。じゃあな」
そして、走る。
「うおおおおおおお!!!!」
村の男たちの胴に体当たりをかまし、そのまま入口周辺にいた男数人を押し倒す。
「貴様…! 何をする! 大人しくしろ!!」
もみくちゃにされる。顔を殴られ、腹は蹴られ、血を吐きそうになった。
なっても、俺は暴れ続ける。とにかく彼女が逃げるだけの時間を作るべく、話に伝わる鬼のように暴れた。
「クソ……こいつ…!」
やがて手首を抑えられ、足を踏まれ、首を掴まれた。
もう動けない。目線だけで、彼女を探した。
……いない。先ほど彼女が居たはずの場所を見ても、彼女の姿は見当たらなかった。無事に逃げてくれたらしい。
「ハハ……よかった……」
そうして、俺は目を閉じた。閉じたはずだったのに。
「―――鬼を捉えたぞぉ!!」
「――――――……は?」
その勝鬨を聞いて、勝手に目が開いた。
なんとか首を暴れさせ、声のした先を見やる。
するとそこには、確かに彼女がいた。男たちに乗っかられて、全身を押さえつけられている。
しかも、全身は血だらけだ。服はいつも以上に血で真っ赤に染まり、真っ白な皮膚は殴られた痕と切られたような傷だらけになってしまっている。
「なんで……逃げなかったんだよ!!」
悔しさからか、悲しみからか。溢れてくる涙のままに叫ぶ。
しかし、彼女はこちらを振り向かなった。まるで、自分とは関係がないとでも言うように。
「抵抗しろよ! 鬼なんだろ! そんなやつらさっさと殺して逃げればいいじゃねぇか!」
「黙れ!」と頭を押さえつけられながらも叫んだ。
その声がやっと届いたのか、彼女はなんとかこちらを見上げ、そしてその顔を見せてくる。
……その顔は、優しく笑っていた。
「―――なんだよ……ッ! なんだよそれぇ……ッ!」
きっと、彼女は今も守ってくれているのだ。
さっき交わしたばっかりの約束を、守ろうとしてくれているのだ。
俺との縁を千切れさせないために。
「いい! もういいから! 逃げろ! 殺して逃げろ! 頼むから約束なんて破ってくれ!」
「ああもう! うるせぇんだよこの疫病神が!!」
必死な形相で彼女に叫ぶ俺を見て、隣にいた大男が、癇癪をあげるように怒鳴ってきた。
彼はその怒りをぶつけるように、持っていた斧を俺の足目掛けて力のままに振り下ろす。
「ッがア!?」
そして、俺の右足が千切れた。
痛い。痛い。熱い。熱い。
全身が悲鳴を上げている。もう死ぬぞ、と警告してきた。
悲鳴は、遠くからも聞こえた。泣き叫ぶように、俺の名前を呼んでいる。
「へ……へへっ。やった…やってやった! オレはなぁ、ずっとお前のことをこうしたかったんだよ! 死ね! 死ね! やっと死ね!」
俺の足を切断した大男は、狂ったように笑っていた。笑いながら、それはそれは楽しそうに俺の体を蹴りつけて来る。
「死ね! 死ね! しね! しね! し―――」
だが、十回目の蹴りを入れようとしたその時、動きが止まる。
不思議に思って見上げると、男の首はまるで彼の数倍ほどの背丈を持つ大入道にもぎ取られたかのように無くなっていた。
「あぁ! 与楽! 与楽!! 大丈夫か!?」
「あ―――、なんで」
周りにいた男たちが退いて行く中、俺を抱きかかえるように持ち上げてきたのは、押さえつけられていたはずの彼女だった。
だが、俺が驚いたのは彼女がここにいることじゃない。
(なんで……目が開いてるんだ……?)
驚いたのは、彼女の瞼が上がっていることだった。ぱっちりと大きく見開かれている。
あの目が自然に開くわけがない。恐らく、引っ付いた瞼を無理やりこじ開けたのだ。
それの証拠に、今も彼女の目の周りではドロドロと血が流れ、眼球自体も赤く染まっている。
思えば、外は雪が降っていた。しかも今は、少し前よりも強さを増している。まるで、世界を真っ白に染め上げようと意気込んでいるかのようだ。
「ごめん! ごめんな……! ワタシ、約束破らないと、お前が酷いことされると思って……!」
「だから、そんなのいいんだって……。いいから、とっとと逃げろ……。この馬鹿……」
「うん……! うん! わかってる! 逃げるから! だから絶対に死ぬな!」
彼女はそのまま俺の膝に手を回すと軽々と抱え上げて、そして風のような速さで走り出した。
「おい! にがすな! ぉ―――」
村長の怒声も、すでにはるか遠くのものだ。
あぁ、そうか。やっぱり彼女は鬼なのだ。
それはやっぱり、鬼なのだ―――
***
遠い、とても遠い場所。
崖の上だから、ここはとても景色がいい。風も気持ちが良くて、遠くにある海も見える。
思えば、これが初めて見る海だ。
なのに不思議なもので、まったく初めてだという気がしない。いつも見ていたかのようにだって思える。
あぁ、つまらないな。思っていたよりもずっと、つまらない。
―――それはきっと、ここには彼が居ないから。
「与楽……」
足元に埋まった彼の名を呟く。
彼は助からなかった。
人体に詳しい妖に問い詰めたところ、出血が多すぎたらしい。ワタシは止血なんて必要がない体だったから、人間は出血が死因になるなんて知らなかった。
思い返してみれば、今まで人間を食べたときにも、血を止めてくれと訴えて来る奴らが居た気がする。あれは、そういう意味だったのか。
そんなことにも気が付かなかった自分に、酷く嫌気がさした。
こんなことなら、人間についてもっと聞いておけばよかったのに。
大切な人の身体の作りを、もっと知ろうとしていれば……。
「結局、ワタシは人間を食べ物としてしか見れてなかったってことか……」
ワタシが大切だったのは彼であり、人間ではない。人間というものは、ワタシにとって食べ物でしかなかったということだ。
そして、それはきっとこれから先もずっとそうなのだろう。食べ物ではない人間は、ワタシにとって彼だけなのだ。
もうこの先、ワタシの生涯で人間を信頼することも、人間に恋をするなんてことも二度とない。
だって、彼は最期に震える口でこう言った。
『ごめん……な。約束、守ってやれなくて。嘘つきで、ごめんな……』
彼は最期までワタシに心配をかけまいと、なんとか笑おうとしていた。
でも、わかった。目が見えるようになってわかってしまった。
怖い怖いと寒さに震える、彼の表情がわかってしまった。
だから、ワタシはもう許せない。
あんなに怖がりな彼に嘘まで吐かせなければ生きていけないほどまで追い詰めていた人間たちを、彼を最期まで苦しめた人間たちを、ワタシは絶対に許せない。
ワタシは最後に、彼の墓標代わりに刺した木の板を優しく抱きしめて、板の先っぽにそっと唇を重ねた。
馬鹿みたいなことをしてる自覚はあるけれど、それでもいい。
約束も守れない愚かなワタシにはお似合いの恰好だろう。
「ワタシの、名前は……―――」
そして、あの時に言えなかった契りの名前を送る。
もうこの世界で、彼とワタシしか知らない名前。
千切れた縁を結ぶ、唯一のものだった。
「与楽……じゃあ、行ってくるよ」
そうして、ワタシは崖から飛び降りた。
この国中の、お前を苦しめた人というモノを殺しに行くために。
***
後世には名も残らぬ鬼の娘は、ついに悪鬼となった。
この世は人の世であり、故に人を苦しめる彼女は悪と見なされる。
人は誰も、この世の誰も、悪鬼と化した彼女に手を差し伸べてはくれない。
彼女は、その恋と怒りによって再び目を閉じたのだから。
……誰もいなくなった崖には、静かな風だけが吹いている。
それは彼女の向かい側から、遠くの海から吹いていた。
ただ、それに彼女が気が付くことはない。それは嘘で作られた風でありからだ。
嘘はどこまで行っても、本当にはなれないのだ。
これは、嘘かもしれない小さな物語。その僅かな断片。
嘘は忘れてしまうのが、きっと彼らのためとなる。
嘘つき人間と正直鬼が交わした、決してちぎれぬ約束~埋もれた童話集・鬼~ 毛糸ノカギ @key-tao
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