蠢動を封じて
東海林
第1話 おはよう
「れーい、朝だよ。起きなって」
少女の耳元で、少し焦っているような、怒っているような、少年の声が響いた。顔まで被っていた毛布を容赦なく剥がされる。今日は学校もないし、もうちょっと優しく起こしてくれたっていいのに――と、少女は、
「ほら、起きて。おはよう、零」
「うん……。おはよ、イチカ」
起き上がると、声の主――零の育ての親であり、一番の理解者である
零は、生みの親と呼ばれる人間を見たことがない。――もっとも零はその日のことを覚えてはいないけれど――今からずっと前、雪の降る夜に捨てられていた、まだ赤ん坊だった零をイチカが拾ってくれた日から今日まで、二人きりでこの小さなおんぼろアパートで暮らしてきた。
「……イチカ、今日はなんだか機嫌がいいね。彼女でもできたの?」
「余計なお世話だ。そもそも僕は――」
「――機械だから、機嫌もなにもない、でしょ?分かってるって。からかってみただけ」
零がけらけらと笑うと、イチカはお前なぁ……と、ばつが悪そうに頭を掻いた。
イチカは、――人造人間――所謂アンドロイドと呼ばれる少年だ。零とイチカの暮らす島国では近年、科学技術が急速に発展し、数十年前までは不可能だと言われていたイチカのようなアンドロイドの開発も、ついに可能となったのだった。優秀な科学者たちによって作り出された彼らは、機械であることを感じさせないほど非常に
「いいから、はやく朝ごはん食べな。今日は零の好きなハムエッグだよ」
「えっ、ほんと?ケチャップかけていいよね?」
イチカの返事も待たず、零は急いで布団から飛び出し、リビングへと走っていった。
「いいけど、ご飯食べたら準備してね。出掛けるから……って、聞いてないし…」
トタトタと響く零の足音を聞きながら、イチカはその機械で造られた皮膚に、呆れたような、それでいて優しい笑みを浮かべた。
・ ・ ・
「いただきまーす!」
こんがり焼けた分厚い食パンに、ケチャップをかけたイチカ特製のハムエッグを乗せる。大きく口を開いて、早速一口齧ると、パリッと心地よい音がして、半熟の卵がとろりと口の中に広がる。ハムの塩味とケチャップの酸味も絶妙なバランスが取れていて、まさに絶品だ。
「んーっ、おいひい!」
「こら、口の中に食べ物が入ってるのに喋らない」
イチカに注意され、零はごくんっ、と口の中に入っていたケチャップがけハムエッグ乗せトーストを飲み込んだ。
「だって、これ本当に美味しいよ。朝からこんな美味しいもの食べられるなんて、私は幸せだね」
顔を綻ばせる零を見て、イチカは、本当に暖まる訳はないが、胸が暖まるような気がするのを感じた。
「零は僕のハムエッグが本当に好きだね」
「絶品だもん!この十五年間、いろいろな料理を食べてきたけど、イチカの料理が一番だよ」
もう一口パンを齧る。やっぱり美味しい。イチカ以外が作る卵料理の白身は正直好きではないのだが、これは白身にまで程よい弾力があって。
「特に特別なこともしてないから、零にだって作れると思うけど?」
「私は…無理だよ。料理だけじゃなくて、学校でも失敗ばっかり。イチカみたいに完璧じゃない」
掠れた声で、零が言う。そりゃ、自分でもこんな料理が作れるようになりたいし、学校の委員長たちみたいに、テストで百点を取ってみたい。幼い頃、夢中で観ていたテレビの正義のヒーローやイリエさんやアヤセさんたちみたいに、かっこよく悪い奴を薙ぎ倒してみたい。
でも、ずっとコケてばっかりで。何度挑戦しても卵を焦がしてしまう自分が嫌だった。
「そうかな。僕は、素敵だと思うよ」
「どうして?」
「失敗できるのは、間違えることができるのは、とっても素敵なことだよ」
イチカが零の真っ赤な目をしっかりと見据えて、笑った。
「だって、僕等アンドロイドを開発することができたのがまさにそうだ。あの頭がいい開発者の人たちが、何度も何度も失敗したから、その失敗から学んで、次はこうならないようにってまた何度もやり直したから、僕等ができた。そうだろう?」
それに――と、イチカが続ける。零は驚いていた。イチカは、自分がアンドロイドであるという事実を好ましく思っていないように見えていたから。アンドロイドの技術が進歩したというニュースを見て、ばつが悪そうにイチカが俯くたび、零はそれを笑い飛ばしていた。
「それに、僕等は君たちのように失敗することができない。さっき、零は僕の料理を褒めてくれたけど、それだって美味しい料理のレシピのデータが僕の中に入っているからだ。僕は、僕の中にあるそのデータ通りに動いている。だから、そのデータの時点で間違えていない限り、失敗することはまずできないんだよ」
まあ、俗に言うバグが起きたら話は別だけど。イチカはまた、にっこり微笑んだ。
「でも、やっぱり失敗するのは怖いし、嫌だよ」
最後の一口を飲み込んでから、零が言う。一瞬、イチカはきょとんとしたが、大きな声で笑った。
「っはは!そっか!」
「笑わないでよ…イチカ」
「笑っちゃうよ。でも…うん。それでいいんだよ。でも、零」
イチカの声が、どこか寂しそうな、悲しそうな、それでいて真剣な声になる。
「僕はね、どれだけ転んだっていいと思うよ。命さえあれば、何回だって間違えていいんだ。大切なのは、そのあと立ち上がることだよ」
「立ち上がる?」
零が繰り返すと、イチカは強く頷いた。
「さ、食べ終わったなら着替えて。ちょっと外に出掛けよう」
・ ・ ・
沢山の人々が行き交う大通り。ずらりと並ぶ珍しい商品たちに心を踊らせながら、イチカと街を散策する。休日の午前ということもあり、客を呼び込むお店の人の声や、人々の笑い声が響く。こんなご時世でも、こういった小さな日常が残っていることが分かり、少し、安心する。
ふと、隣を歩くイチカを見やる。拾ってくれてから今まで、十五年一緒に過ごしてきた零からしても、イチカは随分と整った顔立ちをしているように見える。
枯れ草色の切れ長の目。歩くたび、ふわりと揺れる黒髪。チャームポイントである首のほくろ。黙っていればの話だが、どこを切り取ってもまるで絵画から飛び出してきたように綺麗だ。
「どうしたの?そんなに見て」
「なんかイチカが綺麗で、イライラするなって」
「何それ」
口元を隠して、くすくす笑う。とても絵になる仕草だ。うわ出た、と零は顔を顰める。周りを見ると、少し頬を赤らめて通り過ぎていく人たちが何人もいた。それが何だか気まずくて、零は自分の長くて真っ赤な髪の毛を見つめる。
「そうだ、何買いに行くの?イチカが私を買い出しに誘うなんて、珍しい」
「あ、話題変えたね」
「うるさい」
軽口を叩き合いながら歩いていくと、段々と通りの喧騒は収まっていき、薄暗い通りに入った。
「ここ。お目当ての店」
薄暗い通りの中にぽつんと佇むこじんまりとした店を指さして、イチカが言った。
「ここって…アクセサリー屋?」
イチカは頷き、店のドアを開けると、チリンチリンとドアに取り付けられたベルの音が響く。
「ちょっと待っててね」
そう言い残すと、ゆっくりと店の奥へと入っていった。店主さんだろうか、長い髪の男性と何かを話してから、小さな白い木箱を受け取り、また戻ってきた。
「これ、零にあげる」
木箱を零に手渡し、イチカは端的に告げた。零がその木箱を開けると、中には――
「ブローチ?」
真っ赤に光り輝く、小さなブローチが入っていた。
どうして急に――と零がイチカを見ると、店の奥から、先程の店主さんが歩み寄ってきた。
「イチカさん、ずっと前からこれを零様にお渡ししたいと話していたんですよ」
「ずっと前から……」
「そのブローチは、お守りなんだ。危険から零を守ってくれる。こんなご時世じゃ、いつ零の身に危険が起きるか分からないし、僕はきっと役に立てない。だから」
この島国では、アンドロイドができるはるか昔から、人智を超えた不可思議な力を扱える【能力者】と呼ばれる人々と、その力を持たない【非能力者】と呼ばれる人々が存在している。
能力者たちが持つその力は、強力な危険性や加害性を持っているが故に、非能力者は彼等を恐れ、避け続けていた。それでも能力者たちは、非能力者との共存を目指し、力を人の役に立つため使ってきていたのだが、大きな問題が発生した。
それが、近年の急速な科学技術の発達による、イチカたちアンドロイドの登場。人の役に立つため働き、人間社会に受け入れられやすい彼等の登場により、能力者たちの肩身は狭くなる一方だった。
最早、非能力者やアンドロイドに着いていくことはできない――。不満が溜まった一部の能力者は、その能力を悪用して、各地でテロ行為を起こすようになった。
平和な日常を壊す者であること、イチカたちアンドロイドは能力を持つことができず、為す術なく破壊されてしまうことに因み、人々はその能力者たちを【バグ】と呼んだ。
イチカが零にブローチをくれたのは、自分だけでは【バグ】の脅威から零を守ることができないと知ったからだろう。
「最近では、都市だけではなく、田舎でのテロ行為も確認されています。昨日は…もう【能力研究協会】によって鎮圧されましたが、近くの山を越えた先の町で【バグ】が目撃されたそうで」
各地でテロ行為を起こす【バグ】を、国が放っておく訳がない。そこで結成されたのが、【能力研究協会】という組織だ。【バグ】と同じように、能力者だけで構成された組織ではあるが、【バグ】を止め、平和な日常をまた取り戻すため活動しているため、人々からの厚い支持を受けている。
「協会の人たちも、全てを守ることができる訳ではないし、持ってないよりはいいかなって」
「そうなんだ…」
零は、ブローチを太陽にかざしてみた。陽光を受けるたび炎のように揺らめく。綺麗だ、と零は思う。この綺麗なブローチの中にはイチカの優しさが詰まっているような気がして、胸の中が暖かくなる。
「ありがとう。大切に使うね」
「いや、使わないに越したことはないんだけどね」
イチカが苦笑する。そのやり取りを見届けてから、ご来店ありがとうございました、と店主さんが微笑んだ。
「帰ろっか、零」
「うん」
薄暗い通りを抜け、大通りに戻り、人混みの中にブローチを落とさないよう、零はブローチを大切に握りしめた。
その時だった。
「……何、今の」
どん、と心臓に直接響くような大きな音。何が起こっているのか理解できず、ただ立ちすくむばかりだった。けれど、「火事だ」「爆弾だ」という誰かの大声で、今置かれている状況を理解できてしまった。
「まさか……」
それと同時に、先程よりも大きな轟音が、鼓膜にピリピリと触れる。大量の火薬と、肉の焼ける匂い。悲鳴、呻き声。
「零、ここを離れよう。ここは危ない」
イチカにとても強い力で腕を引かれながら、零は駆け出した。後ろ、前から立て続けに爆発音と誰かの悲鳴が上がり、焼いてはいけないものを焼いた時のような、酷い匂いがする。
「ごめん、零。僕はアンドロイドだし、プログラムのせいで、零のことは多分守れない。でも協会の人が来ているかもしれないし、ブローチもあるから、もしもの時はそれを持って逃げて」
アンドロイドは能力を持つことができず、【バグ】に為す術なく破壊されてしまうことから、自分の身体を守ることを最優先にプログラミングされていた。
「うん…。私は大丈夫だよ。でも、イチカ」
「……どうした?」
「あのね……脚が、痛いの」
イチカは立ち止まり、零の脚を見る。
「え……?」
零の脚には、浅い、刃のようなものでさっくりと切られたような痕があり、その痕から下は血で赤く染まっていた。
パチン、と指を鳴らした音がして、二人が振り返ると、そこには刀を持ち武装していて、下卑た笑みを浮かべる三人の若者たちの姿があった。
「お前たち……【バグ】か」
今まで聞いたことがないような怖い声で、今まで見たことがないような怖い顔で、イチカは【バグ】に言い、睨み付ける。
若者たちは笑った。この大きな爆発を起こし、沢山の怪我人を出したのにも関わらず、彼等の笑顔には屈託がなく、それが零には吐き気を催すほど不快だった。
「ああ。ボクの言う通り、俺たちは【バグ】と呼ばれる者だ。なんだか平和ボケした幸せそうな顔の奴らがいて、無性に腹が立ったもんで、ここ一帯の人間を殺して回ってる」
「おっと、叫び声をあげても無駄だ。こんな田舎には協会の奴らなんて来ねぇし、叫び声を上げた瞬間、お前らも殺すからな」
「馬鹿。叫び声を上げても上げなくても殺すことに変わりはねぇだろ?」
言い合うと、【バグ】は下品な笑い声を上げる。ぎり、とイチカが歯を強く食い縛る音が聞こえた。
「本当に……意味が分からない。お前たちのことはどうしても解せない」
「お前ら二人に理解されようなんざ思っちゃいないさ。どうせ、お前らは五分後には死んでるんだから」
また、笑い声が上がる。イチカが彼等を鋭く睨み付けた。
その表情を見た途端、彼等の表情が変わった。へらへらと下品な笑みを浮かべていた彼等の表情は冷たいものになり、怒号が飛ぶ。
「おい。何だよ、その目」
怒鳴られても、イチカは表情を変えなかった。それが彼等の癪に触ったのか、【バグ】の一人の男が、苛立ったようにパチン、と指を鳴らした。
「……!イチカ!」
その次の瞬間、イチカの右腕と左足が飛んだ。血飛沫が上がることはなく、落ちた右腕と左足がカラン、と音を立て、身体を支えられなくなったイチカが倒れ込むだけだった。
「はっ、こいつアンドロイドかよ。つまんねえな、悲鳴の一つくらい出せって」
「ってことは、一緒にいるお嬢ちゃんもアンドロイドなのかな?」
ゆっくり、【バグ】が零の方に近付いてくる。零は怯えながら、ブローチを握りしめた。危険から、零を守ってくれるというブローチ。しかし、何かが起きる気配もなく、静かに輝くばかりだった。
「嫌だ…やめて…」
零の抵抗も虚しく、男はパチン、と指を鳴らす。次の瞬間、胸に激しい痛みが走った。
「う…ああああああぁっ!」
零の胸から血飛沫が上がった。かなり深いところまで切られたのか、血の酸っぱい匂いがして、立つことも呼吸も困難になる。零がその場に倒れ込むと、男は愉快そうに零の頭を強引に掴む。
「ははは!これはいいや。どうやら、お嬢ちゃんは人間みたいだな」
「よく見ると可愛い顔してるし、どうするよお前ら。このまま放っておけばまず死ぬけど」
「決まってるだろ。さっさとアンドロイドだけ処分して、このお嬢ちゃんを全員で順番にいただいて、切って終わりだ」
嫌悪と恐怖と痛みで、零は頭がおかしくなりそうだった。お願い、助けて――。目を瞑り、ブローチを握りしめ、零は願った。
そう、願ったら。
零の手の中のブローチが強く輝き、頭が割れそうになるような大きな爆発音がして、零の周りを取り囲んでいた【バグ】の身体が、一斉に吹き飛ばされた。その瞬間に、断末魔のような大きな悲鳴が聞こえる。
「嘘……」
恐る恐る零が目を開くと、そこには下卑た笑みを浮かべた【バグ】の姿はなく、まるでトマトみたいにペチャンコに潰れた死体が二つ、転がっていた。
「助、かった…?」
ブローチが助けてくれた――。そう安堵したのもつかの間、嫌な気配がぞわりと零の背筋をなぞる。転がっていた死体は二つ。一つ、足りなかった。
「――よくもやってくれたな、クソガキ」
後ろから、怨念のような、恨めしそうな声がした。
「非能力者だと思ってたんだが、お前も能力者だったとはな」
声が、近付いてくる。胸をさっくり切られたのと、声に対する恐怖で、息ができない。
「まさかとは思うが…協会の人間か?」
刀を鞘から抜く音がする。逃げたい。動けない。
「ちょっとは可愛がってやろうとしてたが…俺も命が惜しいんでね。じゃあな」
男は刀を振りかぶり、倒れたままの零の首めがけて一気に振り下ろした。ガキン、と身体に刀の当たる音が聞こえ、へぇ、首に刀が当たったら、こんな音が鳴るんだ――と零はぼんやりと感じるはずもない自分の死を感じていた。
「なんだ、お前…。まだ動けたのか」
「残念ながら、僕に痛覚はないんでね」
知っている声がした。ゆっくりと零が後ろを見ると――。
「イチ、カ…?」
腹部、胸部、首まで斜めにざっくりと切られてもなお笑う、イチカの姿があった。
イチカは零を見て安心したように微笑むと、残っている左腕で、男を思い切り殴った。
「がっ……」
ブローチが起こした爆発を受け、もう既に限界だったのだろう、男はよろよろと倒れ込み、そして二度と動かなくなった。
そして、イチカも、ふらりと零の隣に崩れ落ちた。
「イチカ…。なんで、私を庇って……」
「ふふ、なんでだろうね……?こんなプログラムはないはずなのに……体が勝手に動いちゃったみたいだ」
「ねぇ、その傷、直せる、よね?私、失敗ばっかりだけど頑張るから…いつかまた元通りに、なるよね…?」
「ありがとう。でも、もう、無理かな……とっくに許容量超えてたみたい」
零の視界が、ぐにゃぐにゃと滲み始める。喉の奥がぎゅうぎゅうと苦しくなって、目が熱くなる。
「ごめんなさい。私……」
「零。もう喋らない方がいい。お前も重傷なんだ。喋れるうちに……最期に、言いたいことがあるから、聞いてくれる?」
ぽろぽろと涙を流しながら、零は頷いた。
「ねぇ、零。めげずに、負けないでね。どんなことがあっても、失敗しても……何度だって立ち上がるんだ」
イチカに頭を撫でられる。終わりが近付いてきているような気がして、零は涙が止まらなかった。
「そして僕は…俺は、幸せだったよ。守れたのが、零で良かったな……」
「……イチカ?」
それを最後に、イチカは二度と話さなくなった。
「……ねぇ、嫌だよ、イチカ。置いていかないで。起きて……起きてよ」
けろっと何もなかったように起きて、おはよう、零。とまた言ってほしかった。何でもなかったねとまた笑ってほしかった。薄れていく意識の中、零はひたすらにそれを願ったが、それが、叶うことはなかった。
・ ・ ・
「流石だよ、この前の【バグ】のテロでも、民間人の死者は一人も出なかったんだって?」
テーブルに置かれた一つだけのライトが店内を照らす、ほの暗い酒場で、酒場のオーナーが客の女性に話していた。
「いや…命に別状はないとはいえ、怪我人は多数だよ。それに…死者は出た」
客の女性が、煙草をふかしながら、悲しそうに深紅の瞳を伏せる。
「ほう?俺が聞いた情報は間違っていたのかな?」
「うん。アンドロイドの男の子が一人。ボロボロだったよ。もう修復はできないと思う」
「なんだ、アンドロイドか……。やっぱり俺が聞いた情報は間違っていないじゃないか」
「ねぇ、お兄さん。私は思うんだけどさ、何が人間を人間たらしめるんだろうね?」
女性が、首をかしげる。彼女の、少し深緑がかった黒髪が揺れた。
「アンドロイドといえど、あの子にとっては大切な家族だったと思うよ」
「あの子?」
「アンドロイドの側に、重傷の女の子がいた。家族に連絡を取ろうとしたんだけど、それらしい連絡先は見つからなかった。多分、あの子には両親がいない。そこをアンドロイドの男の子が育ててきたってところかな」
吸い終わった煙草を、女性は灰皿に投げ入れた。オーナーは灰皿を受け取り、新しい灰皿を彼女に渡す。
「私は、あの子の痛みを少しは理解できると思うんだ。自分語りをしちゃって申し訳ないけど、私も両親の顔を見たことはない。それに……」
「それに?」
「家族同然の人が、私の目の前で死んだ」
オーナーが、ピクリと肩を震わせる。あ、暗い話になっちゃったね、と女性は新しく煙草を吸い始める。
「じゃあ、その子も君のとこで?」
「そう。今、夏呼ちゃんが頑張って治療をしてる。夏呼ちゃんならどんな傷も治せるだろうけど……心の傷は、夏呼ちゃん含め、私の支部の人たちみんなでないと治しきれない」
「流石、能力研究協会様、ニケレルン支部様、千代田入恵様だな」
「馬鹿にしてない?それ」
入恵と呼ばれたは溜め息を吐き、煙草を灰皿に置いた。
「もういいのかい?」
「うん。あの子の状態が心配だし、いつ【バグ】の襲撃があるか分からない」
「協会の人は、こんな酒場のオーナーとは違って、お忙しいもんな」
オーナーが、からかうように言う。女性は椅子から立ち上がり、上着を羽織った。
「じゃあ、また来るね。お酒美味しかった。お兄さんも、【バグ】には気をつけて」
そう言い残し、店のドアを開け、女性は帰っていく。
「私が守らなくちゃ、いけない……。イチカ君の、分も」
決意を固めたように、女性はその深紅の瞳を輝かせた。
蠢動を封じて 東海林 @bosyoku
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