吉香と幼馴染と入学式
入学式といえば学生が経験するイベントでも特別なものの一つだ。
それが新入生の立場ならなおのこと。新しい環境、新しい人間関係に胸はときめく。教室にいる肩肘ついて斜に構えた男子だって、内心では女の子から声をかけてくれることに期待しているに違いない。
「はぁ」
そんな浮ついた空気の中、私の口から漏れ出た息は随分と辛気臭い。
理由はとても単純で、最悪な朝を経て今に至るからである。
「高校では彼氏作る。絶対に」
晴れの日の前日にワクワクして目が覚めてしまい、いつもよりもずっと遅い時間になったため当然のごとく寝坊。
「ごめん。お母さん。私、すぐ出るから!」
「えっ、ちょ、ちょっと」
ろくに髪も整えずに朝食抜きで家を飛び出し、靴下どころか靴まで左右バラバラ。
「ちょ、あっ」
そのせいで転んで水たまりに片足を突っ込んで。
「ぐぬ。戻っている時間はない。このまま。大丈夫。足元なんて見えないって」
自分に言い聞かせるが、水を吸った片足だけでなく心も重くなった。
「バウ。バウ。グルゥゥゥ。ガウ。ガウ」
「あ。す、すみません。ジョン。ジョン。いつもはおとなしいんですけど」
無様な私は不審者にしか見えなかったのか、主人に忠実な犬に吠えられる。
「もう。ここ長いのに」
信号は狙いすましたかのように赤。
「多分、ここを突っ切れば」
近道をしようとして道を間違えて知らない路地に迷い込む。
「若いのになぁ」
公園のベンチで寝ていた小汚いおっさんにまで同情の目を向けられた。
「間に合え、間に合え、間に合え」
自分を奮い立たせながら私は懸命に走った。こんな逆境でも涙を流さなかった自分を褒めてあげたい。
人気の少ない学校の雰囲気。完全な遅刻を覚悟する。校舎に掲げられている大きな時計へ目を向ける。
「あ、あれ?」
始業の時間よりも随分と早く、まだ部活の朝練くらいの時間帯。
そうして私は思い出す。遅刻しないように時計の針を少し早めていた自分の賢明な行為に。賢人たりえた自分によって、とても愚かな自分が生まれてしまったという喜劇である。
もしもタイムマシンがあるのなら、起床したばかりで慌てる自分をぶん殴ってもう少し眠らせてやりたい。
輝きに満ちた入学式と新入生たち。みすぼらしい私に声を掛ける初顔な爽やかイケメンなんてもちろんいないのである。
せめてもの抵抗としてトイレで制服の汚れを落として髪の毛を整えた。だが、数十分前まで新品だった花の女子高生の制服はすっかりくたびれた古着のようで、それに包まれた私は浪人や留年を経た同級生のようで。
中学からの知人が少ない高校でこのスタートは致命的だった。
自分の席で頭を抱え、後悔と反省で絶望している私に、聞き慣れた声が飛んでくる。
「おう。はよっ」
ガタンと無骨な音を立てながら私の前の席に人が座り、体を半身にして振り返る。
「ん」
クラス分けと座席掲示の段階で前の席が幼馴染であることは知っていた。だからこの挨拶は想定の範囲内。私の返事も簡素。そうは言いつつ、内心では見知らぬ男子の声掛けを期待して一瞬だけ浮かれた自分が恨めしい。
「あぁ、四年連続?」
「そうだっけ?」
クラスが同じことに感動するほどの子供の多い地域ではない。中学のクラスは学年で二つだったから、三年連続同じクラスは八分の一。そこそこだ。
「てか、なんでびしょ濡れなの?」
私は自分の見た目を棚上げして、幼馴染へ問いかけた。
運動部の十代男子らしく短髪の幼馴染であるが、そのピンピンに尖っている髪の先からポタポタと水が滴っていた。私だって水たまりで足が汚れているが、幼馴染はにわか雨にやられたみたいな濡れ方だ。私の机にはかかっていないから別に構わないし、タオルやハンカチで世話焼きする関係でもない。見ていると少し寒々しいくらい。それと天気予報のお姉さんが、ここ一週間は快晴で絶好の入学式日和、なんて言ってた事実を思い出して少しムカついた。
「あ、汗?」
「なんで疑問文? 意味わかんない」
学区の問題で別々の小学校に通っていたけれど、この幼馴染とは家がそこそこ近く小学生の頃から交流がある。顔はそこそこ、運動はまあまあ、学力は中の下。年頃の男の子らしく、時々おかしな行動をする。それも少しズレていて、漫画やアニメの真似事をする子が大半のところ、この幼馴染は歴史とか古典とか引用元がちょっと変わっているが、思春期の男の子なんてそんなものだと思う。
別に異性としてドキドキしたりはしないけれど、落ち着いてバカな会話ができる。そんな関係。
幼馴染は目線を中空に漂わせながら少し言いづらそうに言葉を発する。
「あー。んっと。なんかあった?」
情報に不足があった。特別な身体的特徴や運動能力や学力はないが、この幼馴染はとても優しい。今の言葉が含む雰囲気にも、興味本位の好奇心ではなく心配の感情が濃い。とても気遣いのできる人物なのだ。
派手に遊び回ったり、周囲からの脚光を浴びたりってのには向かないだろうけど、結婚した相手や家庭を大事にするだろうなって。そんな人。
「気になる?」
別に小悪魔的ムーブをしたいわけじゃないが、私は今朝からの出来事で卑屈になっていて、少し意地が悪い返答をした。
「言いたくないなら別に。愚痴りたいなら聞いてやる」
思ったより大人な返事に私は少し驚いた。小学校から知っているクソガキの印象が少し薄れ、そこにいるのが今日から義務教育を抜けて高校生になった男の子なんだと思い知らされた。
「ま、聞いてよ」
私はそんな幼馴染に甘えることにした。
私の今朝のドタバタコメディを話し終えると、幼馴染はリアクションに困っていた。
「笑った方がいい? 同情した方がいい?」
「笑って笑って。んで、この話、流して」
幼馴染は軽い感じでニヤニヤ笑い始めて。
「いや、バカすぎるでしょ。ぷふ。遠足前の小学生かよ。てか、時間はしゃーないけど、靴は気づくだろ? 足までバカかよ。吠えた犬とか公園のおっさんの方が賢いんじゃねぇの?」
「言い過ぎだ。バカ」
「ご、ごめん」
幼馴染は優しいけど、まだまだバカだったし、素直なやつだった。
そんな他愛もないやり取りをしていると、そろそろ担任の先生が来るくらいの時間になった。私のどんより曇り顔は、陽光が差し込むほどではないが、いくらか軽くなった。
「んじゃ」
「ん」
どうでもいい会話はそんな雑な締め方で切り上げられた。幼馴染は席に座り直して正面を向く。そんな幼馴染の背中をなんとなく見ていると、白いシャツに透けて、肌着の柄が見えた。文字だった。
☆吉香 好き 付き合って☆
目に飛び込んで来た文字が上手く飲み込めず、目を凝らして見た。
☆吉香 好き 付き合って☆
念のため、目をこすってからもう一度見た。
☆吉香 好き 付き合って☆
三度の確認の後、私は声を上げずにはいられなかった。
「はぁぁぁ?」
私の奇声に幼馴染は振り返った。
「えっと、見えた?」
幼馴染の顔はりんごのような赤みを帯びている。
「見えた? じゃないって。何それ?」
そんな顔色の変化を汲み取れるほど、私は落ち着いてはいなかった。
「いや、告白」
幼馴染は気恥ずかしそうに、だけど、はっきりとそう口にした。
「はっ?」
「だから、男は背中で語るんだって」
私は理解した。この「水も滴るいい男」と最大の演出を決めた幼馴染が、本気で私への愛を「背中で語る」現実を。
「いや、あんた、それって。ぷっ」
「わ、笑うなって。今までできなかったんだから」
「ごめんごめん」
思わず吹き出してしまった私に、幼馴染は唇を尖らせて文句を返した。
四年連続この幼馴染と同じクラスになったが、これまでの三年間で席が前後になったことはなかった。ひょっとしたら今までもずっとタイミングを狙っていたのかもしれない。
「で、どう?」
私は認識を改めた。この「彼」となら、派手に遊ぶのも、脚光を浴びるのも、落ち着いたおしゃべりも、なんだって楽しそうだ。
最悪な朝だったけれど、最悪な高校生活のスタートにはならずに済みそうだ。
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