第7話:昼食時における領土問題とローテーション



正午のサイレンと三方向同時侵攻


昼休みのチャイムが鳴り響く教室。

生徒たちが一斉に立ち上がり、賑やかになる。

美咲の席(窓際後ろから二番目)に対し、教室の三方向(前・右・後)から、それぞれ異なるオーラを纏った三人の男子生徒が同時に接近してくる。

クラスメイトたちはその異様な光景に息を呑み、ザザッと波が引くように道を開けている。


「キーンコーン、カーンコーン……」


4時間目の終了を告げるチャイムは、私にとって「休息の合図」ではない。 「開戦のゴング」だ。


先生が「起立、礼」と言うや否や、教室の空気が変わった。

ザッ、ザッ、ザッ。

規則正しい足音が、三方向から私の席を目指して近づいてくる。


「美咲! 飯行くぞ!」 正面から現れたのは、剛田猛次。

手に持っているのは、コンビニの袋からはみ出した巨大な唐揚げ弁当(特盛)。


「佐藤さん。君の午後の血糖値スパイクを抑制するための流動食を持参した」 右から現れたのは、氷室慧吾。

手には温度表示モニターがついた、極めて高価そうなステンレス製のプロテインシェイカーが握られている。


「おい美咲。まさか今日も購買のパンで済ませる気じゃないだろうな」 背後から現れたのは、間宮陽人。

家庭的な弁当箱を包んだ風呂敷を手に、姑のような目つきで私を見下ろしている。


三人の巨体が、私の机を完全包囲した。


「え、なに? あのメンツ……」

「サッカー部の剛田と、学年5位の氷室? なんで地味な佐藤さんのとこに?」

「修羅場? あれ修羅場なの?」

「おい写真撮るな、殺されるぞ」


クラスメイトたちがざわめき立ち、恐怖と困惑でザザッと波が引くように道を開けている。

何が起きているのか理解できない、という純粋な恐怖が教室を支配していた。


(ひぃぃ……助けて! 注目しないで! 私はただの背景(モブ)なの!)


私は机にへばりつき、カバンから財布を取り出す手も震えていた。


「あ、あの……みなさん、お揃いで……」


「美咲! 今日は学食の『メガ盛りスタミナ丼』に挑戦するぞ! 俺が半分食ってやるから安心しろ!」


剛田くんが私の右腕を引く。


「却下だ。そんな脂質の塊を摂取すれば、彼女の思考能力は著しく低下する。……佐藤さん、僕と理科準備室へ行こう。完全栄養食の摂取と並行して、午前の授業の復習を行う」


氷室くんが私の左腕を掴む。


「どっちもダメだ! お前らみたいな偏ったもん食わせられるか! ……ほら美咲、俺が弁当作ってきてやったから。卵焼きは甘めだぞ、お前好きだろ?」


陽人が私の前に弁当箱を突き出す。


三者三様の主張。 筋肉か、データか、過保護か。

どれを選んでも地獄。選ばなくても地獄。


(おかしい。協定書には「接触は一日一人15分」って書いてあったのに……あれは放課後だけの話!?)


私は隙を見てスマホを取り出し、この状況の元凶である理沙にSOSを送った。


理科準備室の黒幕


理科準備室。

薄暗い部屋で、理沙がスマホの画面を見つめている。

画面には美咲からのメッセージが表示されている。

理沙はそれを読み、口元だけでニヤリと笑う。


『SOS:理沙! 昼休みのルールがないよ! 鉢合わせしちゃってるよ! 助けて!』


通知音と共に表示された美咲の悲痛な叫び。

九条理沙はそれを一瞥し、既読をつけたままスマホを伏せた。


「……ふむ。気づいたか」


彼女は手元のビーカーに入ったコーヒーを啜った。


「協定書の『昼食時の規定』は、意図的に空欄にしておいた。過密状態における個体間の競争原理(バトルロイヤル)が、どのように作用するか……。さあ、見せてもらおうか、凡人の生存戦略を」


理沙は楽しそうに目を細めた。

彼女にとって、美咲のパニックは極上のエンターテインメントであり、貴重な実験データでしかなかった。


廊下での領土紛争


教室を出た廊下の踊り場。

三人の男子が美咲を囲んで口論している。

剛田は熱く拳を振り上げ、氷室は冷静にシェイカーを振り、陽人は腕を組んで威嚇している。

美咲はその中心で、オロオロと右往左往している。


「だーかーら! 飯ってのは楽しく食うもんだろうが! シェイカー振って飲むメシの何が楽しいんだよ!」


「食事とはエネルギー補給の儀式だ。君のように快楽物質(ドーパミン)の放出のみを目的とした摂食行動は、家畜と変わらない」


「あぁん!? やんのかコラ!」


「お前らどっちもうるせぇ! 美咲が怯えてるだろ! ……ほら美咲、こいつら無視して屋上行こうぜ。俺が一口ずつ咀嚼してやるから」


「それは一番嫌だよ陽人!?」


廊下の踊り場で、醜い争いが繰り広げられていた。

通りがかる下級生たちが、恐怖のあまり壁沿いに逃げていく。

理沙からの返信はない。

あの悪魔、わざと放置してるな!?


もうお昼休みが15分も経過している。

このままじゃ、何も食べられずに午後の授業(体育)が始まってしまう。

空腹で倒れたら、剛田くんに「お姫様抱っこ」で保健室に運ばれる未来しか見えない。

それだけは回避したい。


「……もう、なんでもいいよぉ……」


私の小さな呟きは、彼らの怒号にかき消される。


「美咲は肉を求めてるんだ!」

「いいや、ビタミンだ!」

「愛情(俺)だ!」


「ちーがーう!!」


私は限界に達し、叫んだ。

三人の動きがピタリと止まる。

全員の視線が、私に集中した。


「……美咲?」


「佐藤さん、心拍数が上昇しているが……」


私は肩で息をしながら、彼らを睨み(というより、上目遣いで怯え)返した。

もう、彼らの提案なんてどうでもいい。

私の望みは一つ。 「安くて」「早くて」「少しでも得をする」場所で食べたい。

それだけだ。


「わ、私は……あそこに行きたいの!」


私は震える指で、中庭の奥にある古びた建物を指差した。


庶民の聖域と価値観の衝突


中庭の奥にある、プレハブ小屋のような古びた「旧購買部」。

看板は錆びて傾いているが、「焼きたてパン」「無料お茶サービス」の手書きの旗がパタパタと揺れている。

昭和の雰囲気が残るレトロな場所。

美咲がそこを指差し、男子三人はそのボロさにドン引きしている。


「……あそこは、旧購買部?」


氷室くんが汚いものを見るような目で眉をひそめた。

そう、そこはメインの食堂や購買から外れた、知る人ぞ知る過疎エリア。

お洒落なメニューもないし、席もパイプ椅子だ。

でも、そこには私にとって譲れない「聖域」がある。


「あそこのパン屋さんは……お昼を過ぎると、パンが全品『半額』になるんです!」


「は、半額ぅ……?」


剛田くんが呆気にとられた顔をする。


「おいおい美咲、半額ってことは……売れ残りだろ? 腐りかけじゃねぇのか? そんなもん食って腹壊したらどうすんだ!」


「そうだ。時間の経過した炭水化物は酸化が進んでいる可能性がある」


氷室くんもシェイカーを抱きしめて首を横に振る。


「栄養価も欠けているだろう。そんな『廃棄物寸前』の物質を体に入れるメリットが計算できない」


「俺も反対だ」


陽人が決定打を放つ。


「お前なぁ……俺が栄養バランス考えて早起きして作った弁当より、そんなパサパサのパンがいいのかよ! 栄養失調になるぞ! 却下だ却下!」


全員一致で「NO」。

当然だ。

彼らはハイスペックな人間たち。

「安さ」のために「質」を落とすなんて発想、あるわけがない。


でも。


「……だってぇ」


私は涙目で訴えた。


「あそこのイートインコーナーだけは、給茶機の『ほうじ茶』が無料なんです! しかも『濃いめ』ボタンがあるんです!」


私は拳を握りしめて熱弁した。


「スタミナ丼は500円もするし、完全栄養食は高そうだし、陽人のお弁当は……その、お返し(タッパー洗いとか感想とか)がプレッシャーだし! 私は! 半額の焼きそばパンと! 無料のほうじ茶で! ささやかに生きたいんです!!」


静寂。

彼らは「こいつは何を言ってるんだ」という顔で私を見ている。

終わった。幻滅された。

「貧乏くさい女だ」って見捨てられる。


(……まあ、それならそれで、平和に戻れるからいいか。嫌われて解散、それが一番のハッピーエンドかも)


私は諦めの境地で、彼らの罵倒を待った。


誤解された「清貧」


旧購買部のイートインスペース。

長机にパイプ椅子。

美咲が安っぽい焼きそばパンを頬張り、紙コップのほうじ茶を飲んでいる。

その周りを三人が囲んでいる。

彼らは自分の豪華な食事には手を付けず、美咲がパンを食べる様子を、まるで奇跡を見るような目で見つめている。


「……んぐ、んぐ」


私は彼らの反対を押し切り(というか呆れられながら)、半額シールが貼られた焼きそばパンを買った。

パイプ椅子に座り、かじりつく。

パサパサのコッペパン。味の濃いソース。

そして、熱々の無料ほうじ茶。

これだ。

このチープな味こそが、私のソウルフードだ。


「……ぷはぁ。おいしい」


ほうじ茶を飲み干し、思わず息が漏れる。

すると。


「……くっ」


剛田くんが口元を押さえて震え出した。


(ひっ、怒られる!? やっぱり貧乏くさいって笑われる!?)


私は身構えた。

しかし。


「な、なんだよお前……。たかが半額のパンで、そんな世界一幸せそうな顔しやがって……! 高級フレンチ食わせるより、よっぽどいい顔するじゃねぇか……!」


「へ?」


「合理的だ……」


氷室くんが、なぜか感心したように頷いている。


「コストパフォーマンスを最大化し、最低限の投資で最大限の幸福感(ユーフォリア)を得る。……現代人は物質的な豊かさに溺れているが、君のその『足るを知る』精神構造(清貧)こそ、本来目指すべき境地なのかもしれない……」


「いや、ただケチなだけ……」


「はぁ……本当にお前は安上がりな女だな」


陽人が呆れたように、でも口元を緩めて私の頭をポンポンした。


「俺の弁当を断ってまで選んだのがこれかよ。……まあ、お前がおいしいなら、今日は許してやるか」


(……え? なんで?)


誰も怒っていない。

むしろ、なんか「ほっこり」している。

さっきまで「腐りかけ」「廃棄物」と罵っていたパンを、彼らはまるで「聖なる食べ物」かのように見ている。


剛田くんは自分のスタミナ丼の唐揚げを一つ、私のパンの皿に乗せた。


「ほら、タンパク質も食え。サービスだ」


氷室くんは、私の空になった紙コップを見て、無言で給茶機へ向かい、新しいほうじ茶(濃いめ)を注いできてくれた。


「水分補給だ。……無料なら、僕も飲んでみよう」


陽人は、持っていたウェットティッシュで、私の口元についたソースを拭った。


「口の周りベタベタだぞ。子どもか」


私は、唐揚げと、新しいお茶と、陽人の手に囲まれて、震えた。


(……怖い。逆に怖い!)


なんで?

なんで半額のパンを食べただけで、こんなに優しくされるの?

これは何かの罠?

「最後の晩餐」的なやつ?

これを食べ終わったら、三方向から一斉射撃を受けて処刑されるの?


「……あの、みなさんは食べないんですか?」


「お前を見てるだけで腹一杯だ!」(剛田)

「君の咀嚼回数をカウントしている」(氷室)

「変な虫がつかないか監視中だ」(陽人)


やっぱり地獄だ。

視線が重い。

愛(?)が重い。

でも、無料のほうじ茶は温かくて、少しだけ美味しかった。


黒幕の言い訳とポップコーン


放課後の理科準備室。理沙が机に向かい、何かを片付けている。美咲が入室し、抗議のために詰め寄る。理沙の表情は平然としており、むしろ慈愛に満ちた表情を作っている。机の端には、片付け忘れた「双眼鏡」と「キャラメルポップコーンの空き袋」がある。


「理沙ーーっ!!」


私は放課後、理科準備室に怒鳴り込んだ。


「なんで既読スルーしたのよ! 死ぬかと思ったんだから! 殴り合いが始まる寸前だったんだよ!?」


私は理沙の机に両手をついて抗議した。

しかし、理沙は動じない。

ゆっくりと眼鏡の位置を直し、静かな声で言った。


「……すまない、美咲」


「えっ」


「私が助け舟を出すのは簡単だった。だが、それでは君の成長にならないと判断したんだ。……君自身が、彼ら猛獣を御するための『聖域(サンクチュアリ)』を見つけなければ、この均衡は維持できない」


理沙は立ち上がり、私の肩に手を置いた。


「心を鬼にして、君の生存本能を信じたんだ。……結果、君は『旧購買部』という中立地帯を勝ち取ったじゃないか。素晴らしいよ」


「理沙……」


(そっか……私のために、あえて……)


私は感動で胸が熱くなった。

この人は悪魔だと思っていたけれど、本当は私のことを考えてくれる、厳しい先生みたいな人だったんだ。


「疑ってごめん……。ありがとう、私、頑張るよ」


「ああ、期待しているよ」


私は涙を拭い、一礼して部屋を出た。


……その時、私の視界の端に、机の上の「ある物」が映った気がした。


高性能そうな双眼鏡。

そして、食べ終わったばかりのキャラメルポップコーンの空き袋。


(……あれ? 今日の理沙のおやつ、ポップコーンだったの? 双眼鏡なんて、何に使ったんだろ?)


パタン、と扉が閉まる。

部屋の中で、理沙が「最高のショーだった」と呟いて笑ったことを、私はまだ知らない。

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