第8話:期末テスト対策における「アメとムチ」協定



赤点という名の死刑宣告


放課後の教室。

美咲が自分の席で、返却された小テストの答案用紙を両手で持ち、震えている。

点数は「28点」。

赤ペンで大きく「再試」と書かれている。

窓の外は土砂降りの雨で、美咲の心情を表すように暗く、雨音が激しく窓を叩いている。


「……終わった」


私の手の中にあるのは、ただの紙切れではない。

死刑宣告書だ。

数学小テスト、28点。

平均点以下、赤点ライン突破。

このまま期末テストに突入すれば、待っているのは「補習」という名の監獄生活だ。


(補習になったら……夏休みが学校に拘束される。せっかくの長期休暇なのに……いや、待てよ?)


私の脳内CPUが高速回転する。

補習で学校に拘束される=彼らとの「デート協定」を遂行する時間が物理的に減る=彼らに会わなくて済む?


(……あれ? もしかして、赤点取った方が平和なんじゃ?)


悪魔的な閃きが降りてきた。

私は震える手でスマホを取り出し、この仮説を理沙に送ってみた。


『美咲:ねえ理沙! もし私が赤点とって補習になれば、夏休みは学校に缶詰だから、みんなとデートしなくて済む裏技を思いついたんだけど!』


既読は一瞬でついた。


『理沙:却下。補習担当は生活指導の鬼塚先生だ。彼は「エアコンは甘え」という信条の持ち主だぞ。猛暑の密室で、汗だくの男子3人と密着して過ごす覚悟はあるのか?』


(……ヒッ)


想像してしまった。

蒸し風呂のような教室。


汗だくの剛田くんの熱気。

氷室くんの不快指数マックスの視線。

陽人のネチネチした小言。


地獄だ。

外でデートする方がまだマシだ。


『美咲:……勉強します(泣)』


私がスマホを落胆と共に置いた、その時だった。


「……嘆かわしい数値だ」


背後から、絶対零度の声が降ってきた。

氷室慧吾くんが、私の答案用紙を上から覗き込んでいる。


「ひぃっ! 見ないで! 汚物を見るような目で見ないで!」


「事実、汚物に近いスコアだ。……佐藤さん。このままでは君の学力偏差値は低下の一途をたどり、我々の『協定』に重大な遅延(ラグ)を生じさせることになる」


氷室くんがメガネを押し上げた。

そのレンズがカチャリと光る。


「緊急措置を発動する。……これより、強制アップデート(猛勉強会)を行う」


「え、アップデート? ……嫌な予感しかしないんですけど」


「拒否権はない。剛田と間宮にも招集をかけた。……行くぞ、第3会議室へ」


彼は私の襟首を掴み、引きずっていった。

私のささやかな「補習による逃亡計画」は、理沙の論理的脅迫と氷室の実力行使によって、秒で鎮圧された。


密室の管理者


第3会議室の前。陽人が鍵をチャラつかせながら、爽やかな笑顔で立っている。

廊下は静まり返っており、陽人の「表の顔(優等生)」と、美咲に対する「裏の顔(支配者)」のギャップが不気味。


「よう。遅かったな」


第3会議室の前で待っていたのは、間宮陽人だった。

彼は指先で鍵をクルクルと回している。


「え、陽人? ここ使うの? 先生に怒られない?」


放課後の会議室を生徒が勝手に使うなんて、見つかったら停学ものだ。

しかし、陽人は涼しい顔で鼻を鳴らした。


「許可なら取ってある。生活指導の鬼塚先生に言ってきたんだよ。『成績不振者の救済ボランティアをしたいんです。僕たちが責任を持って指導しますから』ってな」


「えっ……」


「そしたら先生、『間宮、お前はなんて生徒思いなんだ!』って感動して泣いてたぜ。鍵も『好きに使え』って渡された」


陽人はニヤリと笑った。

その笑顔は、私が知っている幼馴染のものでも、執着心の塊のような彼のものでもない。

完全に「大人を騙すための詐欺師」の顔だった。


(うわぁ……陽人、先生の前だと猫被るの上手すぎ……。外面が良すぎて逆に怖い……)


「ほら、入れよ。ボランティア(監視)の時間だぞ」


ガチャリと鍵が開く音が、牢獄の扉が開く音に聞こえた。


教育方針の衝突


第3会議室。

長机に教科書とノートが山積みにされている。

ホワイトボードの前には、指揮棒を持った氷室(鬼教師モード)。

席には、腕組みをしてふんぞり返る剛田と、小さくなっている美咲。

空気は険悪。


勉強会が始まって10分。 早くも暗雲が立ち込めていた。


「だーかーら! わかんねぇっつってんだろ!」


剛田くんが机をバンと叩いた。


「Xが移動すンだよ! なんでじっとしてねぇんだよ! 根性がねぇのかコイツは!」


「君の理解力が欠如しているだけだ。……いいかい、変数は常に変動する。その軌跡を追うのが数学だ」


氷室くんは冷淡に言い放つ。


「教え方が理屈っぽくてムカつくんだよ! もっとこう、ガッとやってバッと解く感じだろうが!」


「感覚で数学が解けるか。君の脳筋思考(マッスル・ロジック)を美咲に押し付けるな。彼女のCPUがショートする」


「あぁん!? やんのかコラ!」


二人が立ち上がり、睨み合う。

一触即発。

私はその間で、オロオロと教科書を盾にしていた。


(帰りたい……。やっぱり猛獣たちを同じ檻に入れたらダメなんだ……)


「……あー、もう。うるせぇな」


それまで黙って紅茶を淹れていた陽人が、低い声で割って入った。

彼はカップを机にコトンと置き、冷ややかな目で二人を見た。


「お前ら、目的を忘れてねぇか?」


「あ?」

「目的だと?」


「美咲が赤点を取って補習になったら、どうなると思う?」


陽人は私を指差した。


「夏休み前半、美咲は学校に缶詰だ。つまり、俺たちとのデート時間が大幅に削減されるってことだぞ」


「……っ!!」

「……む」


剛田くんと氷室くんの動きが止まる。

陽人は畳み掛けるように続けた。


「お前ら、美咲に会えなくていいのか? せっかくの夏イベント、プールや花火大会が『補習』で潰れてもいいのか?」


「……それは困る! 俺は美咲と海に行って『お前の方が綺麗だぜ』って言う練習をしてきたんだ!」(剛田)


「……損失だ。夏季休暇におけるデータ収集計画が破綻する」(氷室)


「だろ? なら喧嘩してる場合じゃねぇ。……手を組め。美咲を赤点から救うために」


陽人の言葉に、二人は顔を見合わせた。

そして、渋々ながら頷いた。


「……チッ。今回だけだぞ」

「……利益の一致(メリット)を確認した」


(ええぇ……。私のためじゃなくて、自分たちのデートのためなの……? しかも、すごい勢いで団結した……)


利害の一致。

それは、愛や友情よりも強固な絆だった。


キメラ教育法と1192問題


会議室のホワイトボード前。

氷室が数式を書き、剛田が身振り手振りで解説し、陽人が補足を入れている。

美咲はその圧に押され、椅子の上で縮こまっている。


そこからは、地獄のような連携プレーが始まった。


「美咲! よく聞け! この放物線は俺のループシュートだ!」


剛田くんがホワイトボードを叩く。


「物理法則的には、初速度と重力加速度の関係だ。頂点はここになる」


氷室くんが数式を書き加える。


「え、えっと……シュート? 重力?」


私が混乱していると、陽人が横から囁く。


「美咲、お前はおにぎりが好きだな? Xを梅干し、Yを鮭だと思え。……具材のバランスが崩れたらマズいだろ?」


「あ、うん。マズい」


「この頂点は、『一番美味しい具の比率』だ。そこを求めろ」


「……あ! わかった! ここに梅干しを入れすぎると酸っぱいから、マイナスになるんだ!」


「正解だ」


氷室くんが頷き、剛田くんが「ナイスシュート!」と叫び、陽人が「よくできました」と飴玉を口に放り込んでくる。


(……怖い。なんなのこれ?)


ライオンとサメと飼育員が、徒党を組んで私を囲んでいる。

彼らの目は真剣そのものだけど、その熱量が怖い。

今までいがみ合っていた三人が、私に勉強を教えるという一点においてのみ、完璧なチームワークを見せている。


「次は歴史だ。年号の暗記だな」


陽人が張り切って口を開いた。


「ここは語呂合わせが一番だぞ美咲! いいか、鎌倉幕府は『いい国(1192)作ろう』だ!」


「あ、それ聞いたことある!」


私がノートに書こうとすると、氷室くんが「待て」とストップをかけた。


「……間宮。君は化石時代の人間か?」


「はぁ?」


「現在の教科書では、実質的な成立は『1185(いい箱)』が定説だ。古いデータを美咲にインストールするな。バグるぞ」


「はぁ!? マジかよ! 嘘だろ!」


陽人が目を見開いて叫んだ。


「俺が昨日、駅前の古本屋の100円コーナーで買った『必勝!歴史の達人(2010年版)』にはそう書いてあったぞ!」


「……2010年版?」


氷室くんがゴミを見るような目で陽人を見た。


「それは知識ではない。歴史的遺産だ。今すぐ廃棄しろ」


「100円したんだぞ! 資源を大切にしろよ!」


「俺はどっちも知らねぇから、とりあえず『いいシュート』で覚えるわ!」


剛田くんが謎の結論を出す。


(……カオスだ。私の頭の中で、鎌倉幕府がシュートを決めながら100円で叩き売られていく……)


彼らの「協力」はありがたいけれど、やっぱりどこかズレている。

これ、あとで高額な壺とか買わされるやつじゃないよね……?

学習教材セット50万円とか請求されないよね……?


私は彼らの異常な熱意に、感謝よりも「裏があるんじゃないか」という疑心暗鬼で震えていた。


限界突破とスリープモード


夜の会議室。

窓の外は真っ暗。

蛍光灯の明かりだけが頼り。

三人の男子が激論を交わしながら黒板に向かっている。

手前の机では、美咲が参考書を開いたまま、完全に船を漕いでいる。

意識が遠のき、視界がブラックアウトしていく。


勉強会は19時を回っても終わらなかった。

私の脳みそは、とっくに限界を迎えていた。

二次関数、英単語、古文の活用、そして1192か1185か問題……。

情報量が多すぎて、脳内のヒューズが飛びそうだ。


「……おい氷室! ここは俺のシュート理論だとこうなる!」

「却下だ。物理法則を無視するな。だが、ベクトルとしては悪くない」

「まぁまぁ、二人とも休憩しようぜ。美咲も……あれ?」


彼らの声が、遠ざかっていく。

水の中にいるみたいに、音がぼやける。


(……眠い。もう、無理……)


まぶたが鉛のように重い。

剛田くんの大声すら、今は心地よいノイズに聞こえる。

視界が暗転する。

机のひんやりとした感触が頬に伝わる。


「……美咲?」


誰かが私の名前を呼んだ気がしたけど、私は「事なかれ主義」を発動して、意識のスイッチを切った。

ごめんなさい。赤点は取るかもしれないけど、睡眠不足はお肌の敵なんです……。


沈黙の観察者たち


静まり返った会議室。

美咲が机に突っ伏して熟睡している。

その寝顔(少し口が開いている)を、三人の男子が取り囲んで見下ろしている。

剛田は自分のジャージをかけ、氷室は眼鏡を外して揉み、陽人は困ったように笑っている。


「……寝ちまったな」


剛田が小声で呟いた。

彼は自分のジャージを脱ぎ、美咲の肩にそっと掛けた。


「まったく、緊張感のねぇ奴だ……」


「……効率が悪い。あと10ページ残っているのに」


氷室は呆れたように言ったが、ホワイトボードのマーカーを静かに置いた。

彼は美咲の顔にかかった髪を、指先で払った。


「……だが、これ以上の負荷は逆効果か」


「お前らが詰め込みすぎるからだろ」


陽人は苦笑いしながら、美咲の頬についたシャーペンの跡を指でなぞった。


「……昔から、寝顔だけは変わんねぇな。無防備すぎて、誰かに攫われそうだ」


三人の男たちは、顔を見合わせた。

普段ならライバル心むき出しで睨み合うところだが、今は不思議と敵意がなかった。

「美咲を守る(=補習を回避させる)」という共通の目的が、彼らを一時的な「戦友」にしていた。


「……なぁ。こいつ、このままだとマジで赤点だぞ」

剛田が聞いた。


「間違いない。彼女の演算能力は絶望的だ」

氷室が答えた。


「……じゃあ、俺たちが『最強のカンニングペーパー(合法)』を作るしかねぇか」

陽人が提案した。


「……フン。俺のシュート理論ノートなら、直感で覚えられるはずだ」

「僕の要点まとめ(サマリー)の方が効率的だ。出題傾向を分析してある」

「俺の語呂合わせが一番覚えやすいって! ……2010年版だけどな!」


小声での言い争い。

それは美咲を奪い合う争いではなく、誰が一番美咲を助けられるかという、不器用な献身の競争だった。


「……んぅ……」


美咲が寝言を漏らした。


「……半額……シール……貼ってぇ……」


「「「……プッ」」」


三人は同時に吹き出した。

張り詰めていた空気が緩み、教室に穏やかな笑いが満ちる。


私は夢の中で、身体中に半額シールを貼られて出荷される夢を見ていた。

現実世界で、三人の猛獣たちが、今までで一番優しい顔で私を見守り、徹夜で「美咲専用・最強ノート」を作ろうとしていることなど、知る由もなく。


私のパニック観察日記。

今日は「休戦協定」の日。

彼らの優しさが、アメのように甘くて、少しだけくすぐったい夜だった。

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