第5話:【実地検証B】氷室慧吾との並列思考演習
図書室という名の実験室
放課後の図書室。窓際の席。西日が差し込み、本棚の影が長く伸びている。机の上には、参考書、辞書、ノートパソコン、タブレットが要塞のように積み上げられている。その隙間に埋もれるように、制服姿の美咲が死んだ目でペンを握っている。対面には、涼しい顔で高速タイピングをする氷室慧吾がいる。静寂の中にキーボードの打鍵音だけが響く。
「……遅い」
キーボードを叩く手が止まり、氷室慧吾くんの冷たい声が降ってきた。 彼はメガネの奥から、私――実験動物を見下ろしている。
「佐藤さん。君の脳内メモリはフロッピーディスクなのか? この程度の英単語データのインストールに、なぜ20分も要する?」
「うぅ……ごめんなさい……私の脳みそ、USB端子とかついてないので……」
私は涙目で英単語帳にしがみついた。 剛田くんとの「体力作りデート(地獄のランニング)」から数日。 今日は協定に基づき、氷室くんとのデート――という名の「強制学習会」が行われていた。
「いいかい。僕が求めているのは、君の学力向上ではない。君という『特異点』が、学習という負荷(ストレス)に対してどのような処理落ち(エラー)を起こすか、そのデータを収集することだ」
氷室くんは早口でまくし立てながら、タブレットに数値を入力している。 どうやら私の「わからなさ」加減をグラフ化しているらしい。最悪だ。
(帰りたい。剛田くんの時は体が死んだけど、氷室くんの時は脳が死ぬ……)
「休憩は認めない。次は数学だ。この微積分の問題を5分で解け。スタート」
「ご、5分!? 無理です! 問題の意味すらわかりません!」
「思考を止めるな。並列処理(マルチタスク)だ。右手で計算しつつ、左脳で論理を構築し、口では答えをアウトプットしろ」
無理ゲーすぎる。 私はホワイトノイズが走る頭を抱え、シャーペンを握りしめた。
天才のバグ
ノートに複雑な数式がびっしりと書かれているが、ある一点でペンが止まり、イライラしたように黒く塗りつぶされている。氷室の額には脂汗が滲み、貧乏ゆすりをしている。美咲は、そんな彼の「余裕のなさ」を不安そうに見つめている。
開始から1時間が経過した頃。 異変が起きたのは、私ではなく氷室くんの方だった。
「……違う。ここも矛盾する……」
カツ、カツ、カツ。 彼がシャーペンの先で机を叩くリズムが、次第に速く、荒くなっていく。
彼は自分の勉強(大学レベルの数学?)をしていたのだが、どうやら難問にぶち当たったらしい。 鬼気迫る表情でノートを睨みつけ、消しゴムで強く擦っては、また書き殴る。
「……なぜだ。九条理沙なら、この解を瞬時に導き出すはずだ。僕のアルゴリズムのどこに欠陥がある……?」
ボソリと漏れた独り言。 そこには、学年5位の秀才が抱える、どす黒い焦りが滲んでいた。
(……そっか。氷室くんも、追い詰められてるんだ)
常に冷静沈着に見える彼だけど、その内面は「1位になれない」という劣等感と、自分への怒りで煮えたぎっている。 剛田くんが「兄」を追っていたように、彼は「九条理沙」という怪物を追っている。
カツカツカツカツ! ペンの音が耳障りなほど響く。彼の呼吸が浅くなっている。 見ているこっちが苦しくなるほど、彼は自分自身を追い込んでいた。
(まずい……このままだと爆発して、私に飛び火する!)
私の「生存本能」が警報を鳴らす。 イライラした人は、近くにいる弱者を攻撃する傾向がある。巻き添えを食う前に、彼のクールダウンを促さないと、私が死ぬ。
私はシャーペンを置き、ふぅーっと大きな息を吐いた。
「……あーあ」
わざとらしく声を出し、窓の外を見るふりをして、勉強からの逃避を試みる。
強制シャットダウン
図書室の窓際。夕焼けがさらに濃くなり、空は紫とオレンジのグラデーションになっている。美咲は頬杖をつき、窓の外をボケーっと眺めている。氷室は血走った目で美咲を睨むが、その視線はどこか焦点が合っていない。
「……何をしている?」
氷室くんが手を止め、私を睨んだ。 「サボるな」という無言の圧力。 私はビクッとしたが、ここで視線を戻せばまた数式地獄だ。 私は必死に「それっぽい言い訳」を脳内検索した。
「……いやぁ、なんか、氷室くん、すっごく急いでるなって思って」
「急いでいる? 当然だ。時間は有限だ。一分一秒でも早く解に到達しなければ、トップには追いつけない」
「でもぉ……」
私は窓の外を指差した。 そこには、ゆっくりと流れる雲と、沈みかけの夕陽があった。 ただ綺麗だな、と思って、口から出た言葉はこれだった。
「……急いでも、空は逃げないですよぉ」
「……は?」
「だって、昨日もあそこにあったし、明日もたぶんあるし。……数式とかよくわかんないですけど、そんなにカリカリしなくても、答えも逃げないんじゃないですかねぇ? ……あ、カラスが飛んでる。カー」
完全に、ただのサボり発言だ。 「疲れたから休もうよ」という提案ですらない、思考停止の極み。
しかし。 氷室くんの動きが、ピタリと止まった。
「……『空は……逃げない』……?」
彼は私の言葉を反芻した。 その瞬間、張り詰めていた彼の糸が、プツンと切れる音が聞こえた気がした。
「……馬鹿な。僕は……時間を……無駄にするわけには……」
彼は頭を振り、シャーペンを握り直そうとした。 しかし、指に力が入らない。 数日間、不眠不休で酷使してきた脳と体が、私の「どうでもいい一言」をトリガーにして、一斉にストライキを起こしたのだ。
「……システム……エラー……強制……終了……」
ガクンッ。
氷室くんの上半身が揺れ、そのまま机に突っ伏した。 糸の切れた操り人形のような倒れ方だった。
「ひいっ! ……え、死んだ!?」
私は慌てて彼の顔を覗き込んだ。 ……寝てる。 死んだように深い眠りに落ちている。
(よ、よかった……! 爆発する前にスリープモードに入ってくれた……!)
私は胸を撫で下ろした。 これで数式地獄から解放される。
無自覚なバグ
閉館間近の図書室。室内はかなり暗くなっている。机の上で、氷室が腕を枕にして眠っている。その隣で、美咲も突っ伏して眠っている。二人の間には、読みかけの本やノートが散らばり、バリケードのようになっている。静寂。
キーンコーン、カーンコーン……。
遠くで鳴る下校時刻のチャイムが、静寂を破った。 氷室慧吾は、泥沼のような眠りから意識を浮上させた。
「……ん……?」
目を開けると、視界がぼやけている。メガネがズレている。 時計を見る。1時間以上が経過していた。
「……僕は、寝ていたのか……?」
信じられない。 貴重な放課後を、一時間も浪費したなんて。 自己嫌悪に陥りかけた彼の視界に、隣で突っ伏している「物体」が入った。
佐藤美咲だ。 彼女もまた、口を半開きにして、幸せそうな顔で眠りこけている。 その手元には、ブラインドの紐が握られていた。 西日が僕の顔に当たらないように、ブラインドを調整したまま、寝落ちしたらしい。
「……非効率な奴だ」
氷室は呆れたように呟いた。 だが、不思議だった。 いつもなら他人の寝顔など「不快なノイズ」でしかないはずなのに、今の彼は、彼女の間の抜けた寝顔を見ても不快感を抱いていなかった。
それどころか。 胸の奥が、温かいお湯に浸かったように落ち着いている。 焦燥感が消え、クリアになった脳裏に、彼女の「空は逃げないですよぉ」という間の抜けた声がリフレインする。
(……なぜだ。彼女の顔の造形は黄金比率から程遠い。よだれも垂れそうだ。なのに……)
氷室は無意識に手を伸ばしていた。 彼女の頬にかかった髪を、払ってやりたいという衝動。 指先が彼女の髪に触れる直前、ハッとして手を引っ込めた。
「……何をしようとした、僕は」
自分の心拍数が上昇しているのを確認し、彼は困惑したように眉を寄せた。 これはバグだ。 だが、修正したくないバグだ。
「……おい、起きろ。特異点」
彼はいつもの冷徹な声を作って、美咲の肩を揺すった。
「ふあぁ!? ……あ、氷室くん! ごめんなさい、私また気絶してて……!」
美咲が飛び起きる。 その慌てふためく様子を見て、氷室は口元を緩めた。
「……よく寝た。君のおかげで、脳のキャッシュがクリアされたようだ」
「え? あ、はい……(怒られない?)」
「佐藤さん。君は僕にとっての『ヒートシンク(冷却装置)』として、極めて優秀だと証明された。……今後も、僕のそばでその『無駄』を提供してくれ」
「え、あ、はい……(無駄って言われた)」
彼は満足げにメガネをかけ直した。 その瞳の奥には、私への「観察意欲」とは違う、どこか依存めいた、そして本人すら認めたくない「愛おしさ」が宿っていることに、私はまだ気づいていなかった。
(次は……陽人か。一番話しやすそうだけど、一番怒ってたしなぁ……)
図書室を出る私の背中に、また一つ、重たい「誤解」のフラグが立っていた。
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