第4話:【実地検証A】剛田猛次との体力作りデート



日曜日の朝、地獄の幕開け


澄み渡る青空と河川敷の土手。

朝日が川面をキラキラと照らし、爽やかな風が吹いている。

ジャージ姿の美咲が、死んだ魚のような目で立っている。

その隣には、蛍光色の派手なトレーニングウェアを着て、無駄に輝く白い歯を見せる剛田猛次がいる。


日曜日の朝6時。

世間一般の女子高生なら、まだ夢の中か、あるいはオシャレをしてデートの準備をしている時間だ。


私は河川敷の土手で、絶望的な朝日を浴びていた。

原因は、昨夜のグループLIME(メッセージ)だ。


『協定第1条に基づき、明日は俺がもらう! 朝6時に河川敷集合な! 遅刻厳禁!』


剛田くんから送られてきた、問答無用の招集命令。

「朝早すぎない?」

「何するの?」

という私の抵抗は、理沙の『合掌』というスタンプ一つで流された。


そして現在。

目の前には、朝日よりも眩しい(暑苦しい)男が一人。


「オッス! いい天気だな美咲! 最高のデート日和だぜ!」


剛田猛次くんの声量は、早朝の静寂を切り裂くサイレンのようだ。

蛍光イエローのウェアが目に痛い。

筋肉が躍動している。


「お、おはよう……ございます……」


私は引きつった笑顔で返すのが精一杯だった。

協定を結んだ翌日にこれだ。

トップバッターが「武力担当」なのは、運が悪すぎる。


「よし、まずは軽く流すぞ! 往復5キロだ!」


「ご、5キロ……?」


「安心しろ、お前のペースに合わせてやる。……デートだからな! 俺についてこい!」


剛田くんはニカっと笑い、走り出した。

その背中は広くて頼もしいけれど、今の私には「獲物を誘導する捕食者」にしか見えない。


(これのどこがデートなの!? ただの部活じゃん! 死ぬ、マジで死ぬ!)


私は泣きそうな顔で、重たい足を動かした。


ランニング・デッド


遠くまで続く土手の一本道。

先を行く剛田が、心配そうに何度も振り返っている。

美咲の視界は少し揺れており(疲労)、呼吸が荒く、景色が滲んでいる。


「はぁ……はぁ……っ!」


肺が燃えている。

足が鉛みたいに動かない。

喉の奥から、鉄の味がする。


走り始めて15分。

私の体力(HP)は既に赤ゲージだ。

「軽く流す」って言ったよね? 詐欺だ。

アスリート基準の「軽く」は、一般人にとっての「全力」なんだよ!


その時、後ろから「右、通りまーす」と声がして、本格的なウェアを着たランナーが颯爽と私たちを追い抜いていった。

速い。

風のように去っていく。


「……チッ」


剛田くんが、あからさまに舌打ちをした。

彼の視線は、追い抜いていったランナーの背中を鋭く睨みつけている。


「……兄貴なら、あんな奴に背中見せねぇのにな」


「え……?」


「俺の兄貴、実業団の選手なんだよ。天才なんだ。俺がどれだけ努力しても、兄貴の背中はいつも遥か先にあって……追いつけねぇ」


剛田くんの足が少し乱れる。

彼は遠くの景色を睨みつけていた。

その横顔は、いつもの自信満々な「猛獣」ではなく、迷子になった子供のように見えた。


(そっか……。剛田くんも、誰かを追いかけてるんだ)


学年一のストライカーで、自信の塊に見える彼にも、コンプレックスがある。

「二番目」の焦り。

それは、万年「平均」の私には想像もできないほど、悔しいことなのかもしれない。


でも。


(……ごめん、剛田くん。今の私には、そんな高尚な悩みを聞いてあげる余裕がないの……!)


限界だ。

もう一歩も動けない。

私はガクンと膝をつきそうになった。


「っ、ご、剛田くん……!」


「ん? ああ、悪い。湿っぽい話しちまったな。……大丈夫か?」


剛田くんが慌てて立ち止まり、私の顔を覗き込んだ。


ベンチでの給水と「誤射」


河川敷のベンチ。二人が座ってスポーツドリンクを飲んでいる。

剛田はタオルで汗を拭きながら、少し気まずそうに美咲を見ている。

美咲は肩で息をしており、顔は真っ赤で髪も乱れている。

木漏れ日が二人を優しく包み込む。


私たちはベンチにへたり込み、スポーツドリンクを回し飲みしていた。

生き返る。

液体が乾いた細胞に染み渡っていく。


「……悪かったな。俺のペースに付き合わせちまって」


剛田くんが、ぽつりと謝った。

意外だった。

彼は「俺についてこれない奴が根性なしだ」と言うタイプだと思っていたから。


「お前は体力ねぇんだから、無理させちゃダメだったな。……俺、どうしても前ばっかり見ちまって、周りが見えなくなるんだよ。兄貴にもよく言われる。『お前は独りよがりだ』って」


彼は自嘲気味に笑い、ペットボトルを強く握りしめた。

その手は震えていた。


私は、息を整えながら、途切れ途切れに答えた。

励まそうとか、好かれようとか、そんな計算をする余裕なんてない。

ただ、事実として、彼が私に合わせてくれていたことへの感謝を伝えたかっただけだ。


「……はぁ、はぁ……でも、剛田くん……待ってて、くれました……よね?」


「あ?」


「走ってる時……何度も、振り返って……。私が、遅れてないか……スピード、落として……」


私は酸欠でクラクラする頭で、へらりと笑った。


「私……運動音痴だから……置いていかれるの、慣れてて……。でも今日は……剛田くんが、待っててくれたから……ここまで、来れまし、た……」


ぜぇ、はぁ、と荒い呼吸が混じる。

ああ、みっともない。

こんな顔、見せられたもんじゃない。


私は俯いて、呼吸を整えようとした。

だから、剛田くんの顔が見えなかった。


「……お前……」


「は、はいっ……?」


「俺の……背中、見ててくれたのか……?」


剛田くんの声が震えている。

彼はガバッと立ち上がり、空に向かって吠えた。


「うぉぉぉぉぉ!!」


「ひっ! なに!?」


「そうか! そうだよな! 俺は一人じゃねぇ! 俺が振り返れば、そこにお前がいる! 俺は独りよがりのストライカーじゃなくて、お前を導くキャプテンだったんだ!!」


(えっ、なんか話が飛躍してない!? キャプテン!?)


剛田くんは涙目で私に向き直り、ガシッと私の両肩を掴んだ。

痛い。

握力が強すぎる。


「美咲! お前はすげぇな! 兄貴ですら気づかなかった『俺の成長(気遣い)』を見抜くなんて……! しかも、息も絶え絶えになりながら、必死に俺に伝えてくれたんだな……!」


「い、いや、ただ息切れしてるだけで……」


「好きだ!!」


ド直球の豪速球が飛んできた。

鼓膜がビリビリする。


「ますます惚れた! 俺はもう迷わねぇ! お前をゴールまで連れて行くためなら、俺は何度だって振り返ってやる! だから覚悟しとけよ!!」


剛田くんはキラキラした笑顔でサムズアップをした。

その背景には、なぜか炎のエフェクトが見える気がした。


(……あれ? 穏便に済ませるつもりが、なんか特大の燃料を投下しちゃった……?)


私は引きつった笑顔のまま、「は、はい……」と頷くしかなかった。

彼の手の熱さと、勘違いの重さに、胃がキリキリと痛む。


羞恥のパレード


土手の上を歩く二人。剛田が美咲をおんぶしている。

剛田は誇らしげだが、美咲は恥ずかしさで顔を剛田の背中に埋めている。


帰り道。

剛田くんは「もう一歩も歩かせねぇ!」と宣言し、あろうことか私をおんぶして土手を歩き始めた。


「ちょ、剛田くん! 恥ずかしい! 降ろして!」


「気にするな! 疲れたレディを運ぶのは男の義務だ!」


声がでかい。

すれ違う犬の散歩中のおばちゃんが、目を丸くして私たちを見ている。

河川敷で練習中の野球少年たちが、「うお、すげー! あいつ女背負ってトレーニングしてるぞ!」「愛の筋トレだ!」と指を差して騒いでいる。


(あああああ……見ないで……私のことはただの荷物だと思って……)


私は顔から火が出るほど恥ずかしくて、剛田くんの汗臭い背中に顔をうずめた。


「私はリュックサック、私はリュックサック……」と呪文のように唱えて現実逃避するしかない。


「……重くないですか?」

「羽みてぇに軽い! 俺の愛の重さに比べればな!!」


剛田くんは無駄にいい声で笑った。


こうして、第一回・実地検証デートは終了した。

剛田猛次との親密度(という名の誤解)は、垂直上昇した。

私の生存確率は、別の意味で危機的状況を迎えている気がする。


(次は……氷室くんか……)


剛田くんの広い背中で揺られながら、私は来るべき「知力担当」との対決を思い、遠い目をした。

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