第13話

 その日、竹本は自宅で勉強していた。途中、救急車が通る音がしたり、子供の声が明瞭に入ってきたりした。

 自宅というのは居心地が悪い、敵のテリトリー内のような感覚で極力滞在時間を減らしたいとすら考えていた。

 とはいえ学校も塾も違うから、その間の音楽のある移動時間が本体だった。

 修学旅行で浮き足立つ空気感が漂う学校との距離は凄まじく感じれた。

 ぼーと壁を眺めて、考えるわけでもなく考える。広大なぼーとした空間の中をいくつものデータ的な事象が飛び交う感覚があった。それぞれが結びつけば一つのこととしてまとまりそうでまとまらない。具体的には何が飛び交ってるのかすらよくわからなかった。

 大雑把に形あるものは月岡のことだった。

 月岡とのラインを何度も反芻した。何度も読み直した。

 今だに全貌を理解できない気がした。

 それでも薬効としての月岡の効果は、竹本に精神的安定をもたらすには十分だった。

 勉強に大した身は入らないが、なんとなくミスったりしても気楽だった。

 もしかしたら、月岡以前に親と揉めたからかもしれない。


 それから一週間後の金曜日の放課後。来週の月曜日は修学旅行だった。

 楽しみのない修学旅行は苦行そのもの、出席日数を人質に取った誘拐に近い。

 竹本のスマホがなった。月岡だった。

「今日会えない?」

 月岡には要件が読めなかった。

「今日っていつ?」

「すぐ来れる?」

「今時間はあるけど、どこに?」

「駅前、夜ご飯奢ってくれない?」

「わかった、すぐ行くね」

 竹本は母親に夕食がいらないことを伝え、駅前へと向かった。今回も大したリアクションはなかった。

 竹本の心の底には求められる快感があった。

 月岡からの誘いはこれは初めてではない、一度赤浦に行ってるからだ。幸せについての宿題を解いたのか、ただ食生活が不安定なのか、両方かわからなかった。

 竹本が家の外に出た。涼しいくらいの気温だった。直感的は十八度ほどだ。

 空からポツポツと雨粒が落ちてきていた。傘を差すほどでもない雨だった。

 財布とスマホしか持たずに駅前へ足早に向かった。

 駅前の浦島太郎像前に着いた時には早足もあって少し息が乱れていた。

 月岡は像の近くのウニみたいな噴水の淵に座っていた。全身黒い服で固めていた。長ズボン、帽子も黒いし、少し大きくて黒いジャケットは威圧感があった。イヤホンのコードも黒かった。ポツポツ降る雨は気にしないらしかった。

「お待たせ」

「全然、急に呼び出してごめんね」

「いやいいよ、でもなんで呼び出したの?」

「うーん、なんとなく竹本さんのことが浮かんでさ」

 どちらが先導というわけもなく、ゆっくりと進んだ。目的地は歩きながらもわからなかった。

「夜ご飯って何が食べたいの?」

「マック」

 竹本は全身黒で若干威圧感のあるファッションの月岡と、服も大して気にせず自分が共に歩く姿は周りからどう見られてるのか不思議に思った。

 すれ違う男性の視線は月岡ベースに感じれた、それが結果な気がした。

 自分もイヤホンを持ってくれば良かったと思った。自然とビートルズの話を切り出しやすそうだし。

 6時ほぼジャスト、少し夕食には早かったが、竹本らはマックに入店した。竹本は今日も月岡と同じ商品を頼んだ。

 席は一番奥の席に自然となった。

 月岡は細い手でストローを握って上を切ると、ストローの包を下に下にとイモイモしながら剥いていた。

 小動物的可愛さがあった。

 竹本はコーラに口をつける月岡を観察した。正面から見ると、前に会った時よりも元気がなく見えた。若干口角が低く色彩も豊かに見えなかった。

「あのさ、月岡さんってなんで毎回私を誘ってくれるの?」

「いやだった?」

「そんなわけないけど、ほんと純粋になんで私なのかなって」

「なんとなくいい人そうってだけ」

 月岡はここになってやっとイヤホンを外した。

 沈黙が舞い降りた。竹本は初めて月岡との沈黙が気まずかった。

 ハンバーガーを食べ終わって、コーラとポテトの消化試合が残っていた。

「あのね、僕家出しようと思ってさ」

「え?」

 紡ごうと思った、これではただの木偶の坊みたいだ。しかし言葉は何も出てこなかった。

「でね、最後にちょっと顔みたいなって、ラインで話してた幸福とはって宿題やらなきゃだもんね」

「いやいや、その前になんで家出? ちょと理解が追いつかないんだけど」

 不意に竹本は声を抑えていた。

「ここ一週間は特に考えたんだけどね、幸せはね、僕は瞬間だと思う。瞬間っていうのは今ってことね。幸せな時間がすぐに過ぎ去るのは1時間の中の無限の瞬間が瞬間として成り立つから。で、退屈な1時間が長いのはそれが瞬間じゃないから、退屈は先に続くことを考えがちな状態。だから長い。今しか見てないってのは悪くなくて、寧ろいいこと、でもよりよく生きるために努力が必要ならするべきだね」

「じゃあ、なんで家出すんの?」

 竹本は言いたいわけではないかったし、明確な繋がりは理解できなかった、それでも言わないといけなかった。

「あんま深い理由はないよ、ただ僕にとって家出が難しい選択肢じゃないだけで」

 ポテトがしょっぱかった。

「家出って第一どこ行くの?」

「東京、しばらくは生きてけそうだし」

「高校とかさ、修学旅行とかあるらしいじゃん」

「もう、高校は辞めてるよ、もう修学旅行のことも回ってこなかったし」

 必死に頭を振るった、ビートルズの話がしたかった。最近、有名曲以外の良さもずっと聴いてるうちにわかってきたから。

「見送りだけ、見送りだけついて行っていい?」

 心の中で自分も家出をしてみるという気持ちがないわけではなかった。

「別にいいけど」

 

 マックからそのまま東京へ向かう電車の発着する駅のプラットフォームに向かった。

 電車はすぐ来るらしかった。月岡はイヤホンをつけて周りの音を遮断してるようだった。

 指先が冷たかった。もし東京まで着いて行ったら、行きで1時間半、着いて少し話したりして、帰りで1時間半。帰ったら塾の帰りと同じくらいの時間になると計算した。

「東京まで着いてっていい? これで最後になっちゃうかもだし」

 月岡は薄く笑うと、

「着いてくるだけならいいよ、でもあんま噂とか広めないでね」

「広めないよ、第一他に友達いないし」

 東京行きの電車は空いていた。隣り合わせで簡単に座ることができた。赤浦で写真を見せた時、その時以上の密着状態が続くことを予見した。近づくと柔らかな雰囲気を受け、軽くて優しい香りがした。

 ここにきて竹本の中で惰性的要素のある家出が現実味を帯び始めたが、深くは考えてなかった。

 月岡はスマホで何かやり取りをしてる風だった。

「最近さ、ビートルズ聴いてて、すごくいいよね、一人でいる時とかに暖かい」

「そうそう、レットイットビーとかハローグッドバイとかジワジワくるよね」

 月岡は笑った。少し外を向いた犬歯が見えた。行かないで欲しい。という言葉が出かかって潰えた。

 学校は辞めている、もう学校では絶対に会わない。でもラインは繋がってる。赤浦に行ったこと、月岡の祖母の家も覚えている。

 しかし、もう一度目を離したら一生出会わないような気がした、イヤホンコードより細い命綱を頼る気持ちだった。

 電車は人が入って出てを繰り返す。その度に寒い空気が流れ込んできた。

 竹本は月岡とのありとあらゆる会話を思い出していた。カッターナイフを持ち歩くだとか、結局みんな他人、幸せは瞬間。

 今は瞬間だろうか、瞬間かどうかを疑問に思う時点でそれは瞬間ではないのかもしれない。それでもこの一瞬は今にしかない。瞬間と意識できることが瞬間であることの証明かもわからない。

 

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