誕生日の君へ。
田崎慧
第1話
平日の朝7時半。インターホンの軽やかな音が会話のないリビングに響き渡った。
「いつものね……」
母親が苦笑しつつ玄関へと向かう。颯馬はその後に続いた。
いつものことだった。この一年ほど、我が家は毎朝のピンポンダッシュに悩まされている。あるいは、心霊現象の類ともいえた。
母親からしたら、今日も扉の先には誰もいないのだ。
横からするりと通り抜けるようにして、開かれた扉を出た。
「あ、おばさん。おはようございます」
門扉の奥、夏の青空がよく似合う快活な笑顔を向けるのは、一年前に死んだはずの、幼なじみだった。
幼なじみの少女――千秋は、ちょうど一年前の今日、歩道橋からの転落事故で死んだ。
学校からの帰宅途中、颯馬が追いついた直後だった。ほとんど即死だったそうだ。
しかしその幼なじみは、今でも毎朝颯馬の前に姿を見せている。
幻覚だと思った。あの日、口にできなかった言葉を伝えるために、自分が見せた幻覚なのだと。
だから、実際に伝えたこともある。それでも千秋は消えないどころか、その言葉は届いていないみたいだった。
それからは一度も話していない。
「……はあ、もういいから。行ってきます、母さん」
母親に手を振る千秋を横目に、家を出る。
気をつけるのよ、と母の言葉に、背を向けたまま右手を振って返事をした。
こつ、こつ、と一人分の足音が通行人の少ない住宅街を抜けていく。
以前までの朝は、今日の授業の話やら、気になっている服があるやら、友人とこんなことがあったやら、千秋の絶えない話を聞く時間だった。
聞いてほしいと語る瞳と、ころころ変わる表情が、朝の憂鬱を吹き飛ばしてくれていた時間。
いつしか、憂鬱が増すだけになった。
母親と分かれて以降、千秋は口を開かない。
俯きがちに隣を歩く彼女を見やる。
白いセーラー服。少し前まで長袖だったそれは、気候に合わせて涼し気な半袖へと変わっていた。
幻覚にも衣替えがあるんだな、となんだかおかしく思う。
ふと、視線を下ろした先、手首に細いシルバーが巻かれているのが見えた。
千秋の誕生日に贈ったものだ。
これがいいと強請られ、揃いで買ったバングル。
颯馬がついぞ、千秋の前では付けなかったそれ。
花が開くように笑う千秋の前で、照れ隠しで引き出しに仕舞った、唯一のお揃い。
ああ、これは。自分に都合のいい幻覚だ。
アクセサリーは校則で禁止されている。規律を守る千秋が、それも袖で隠れないこの季節に付けてくるはずがない。
嫌でも意識してしまう事実から逃げるように、手首から視線を逸らした。
大通りに出ると、同じ制服の学生が途端に増える。
遠くで蝉の鳴く声が聞こえる。賑やかな空気に、ほっと胸を撫で下ろした。
「おはよ、いい天気だな」
後ろから声をかけてきたのは、友人の明だった。
小学生からの友人で千秋との交流も深く、付き合いの長い男だ。
「ああ、明。おはよう」
「明くん、おはよう。今日は快晴だねえ」
口を開いたのは同時だった。
どうしてこいつは、交流を図ろうとするのか。
颯馬の母親に対してもだが、千秋は度々人と会話をしようとする。
もしや、ここにいる千秋は幻覚ではなく幽霊で、自分が死んだことに気づいていないのだろうか。
なんにせよ、言葉が被ると話しづらい。幽霊なら幽霊で大人しくしていてほしかった。
「颯馬の誕生日も、今日だったよな。晴れてよかった」
「ああ……」
誕生日。言われてみれば、そうだったかもしれない。
しかし、今日は千秋の命日だ。自分の生を祝う気にはなれない。千秋の姿をした少女が隣にいる状況では尚更だ。
学生たちの談笑で賑わう通学路から一時、三人の声がなくなる。居心地の悪い静寂だ。
今日は、それぞれ思うことの多い日だった。
「なんで、こんな日に死んじゃったんだろうな……」
ぽつりと、隣から声が聞こえた。
誰に宛てるでもない、やるせなさの滲んだ独り言。
颯馬は返す言葉もなく、自身のつま先を見つめる。
「……ほんと、なんでだろうね」
返したのは、明の反対に立つ千秋だった。
俯いたままの彼女が零した一言は、朝の喧騒に呑まれて消えていった。
学校に着く頃には重い空気もいささか和らぎ、普段通りの他愛のない話で盛り上がった。
階段を上った先で明と分かれて、自身の教室へと足を踏み入れる。
昇降口の騒がしさとは対照的に、教室内は人がまばらで静かだった。
薄暗い教室の、夏の鋭い朝日が差し込む窓辺。
先に入室していた千秋が、花瓶に活けられた百合の花を撫でている。
この教室には空席が一席ある。一番後ろの窓際、千秋の席だ。
進級の際に人数を減らさないよう、クラスメイトたちが学校側に働きかけたのだ。
朗らかで人当たりのいい千秋は友人も多い。
クラスメイトは、みんなで卒業したいと語った彼女を覚えていたのだろう。
一限目の古典の授業。
文系科目が苦手な颯馬にとっては群を抜いて退屈な時間で、頬杖をついて聞き流す。
ふと、真反対に座る千秋の姿が目に入った。
絹のような長い黒髪が、窓から吹き抜ける風に煽られ、柔らかく揺れていた。
白い肌が夏の日差しを反射している。
一番後ろの窓際の席は、世間一般的には特等席だが、日焼けを嫌う千秋にとってはそうではないと、颯馬は知っていた。
廊下側に座る颯馬に羨ましいと文句を垂れる千秋の姿が浮かぶ。
千秋にとっての特等席は、颯馬が座るここだった。
懐かしいな。
もう訪れることのない日常を瞼の裏に思い浮かべ、そのまま意識を手放した。
昼休みは大抵、明と千秋が颯馬の机を囲む。
今日の昼食は購買のチョコチップメロンパンだ。
「好きだよな、メロンパン」
斜め前で弁当をつつきながら明が言う。よく飽きないな、とあきれた様子で。
「……いいだろ、好きなんだから」
「うん、二人のお気に入りだもん」
反対で満足気に応える千秋も、なぜか同じメロンパンを頬張っていた。
よく、二人で食べたそれ。購買で手に取ると、いつも決まって『また同じのだ』と揶揄ってきた千秋の声が蘇る。
「それは知ってる」
千秋の奥、窓の外の快晴を見上げて切なげに笑う明の声が聞こえた。
友人の少ない颯馬にとって、学校とは授業を受けて昼食を食べ、そして再び授業を受けるだけの場所だ。
明は部活があるから、帰り道は颯馬と千秋の二人だけ。それも今となっては、一人になってしまったが。
視線の少し先を歩く千秋の後ろ姿を追う。
――誕生日、か。
本当は、今日、伝えたい言葉があった。
一年前に伝えられなかった、死んだ彼女に一度、届かなかった言葉。
なぜ彼女はここにいるのか、どうして死んだあとも自分の前に現れるのか、考えたことがある。
千秋は、待っているのではないだろうか。
颯馬が伝えたかった、千秋が受け取るはずだった言葉を、一年後の今日に。
目先には歩道橋。この一年間、夕方は迂回して使わなかったそれがすぐ目の前にあった。
歩道橋の階段下、脇に寄せて置かれているのは、よく二人で食べたチョコレート菓子と数本のペットボトル。
しゃがみこんで見つめる千秋に近寄る。逆光に隠れて、表情はよく見えなかった。
「……甘いもの、好きだったからなあ」
ぐっと絞り出したか細い声。チョコレート菓子のパッケージを、まるで愛しい相手に触れるように、優しく撫ぜる。
「……また、食べたいな。一緒に」
泣いているのかと思って咄嗟に伸ばした手が、届かないまま宙に浮いた。
最初から周りの目を気にしていなければ、声のひとつでもかけられたのだろうか。
泣いている大切な人を、慰めることができたのだろうか。
動けずにいると、目元を拭った千秋が立ち上がった。
歩道橋の階段に、足をかける。
――あ、階段……。
追って顔を上げた先、蘇るのは一年前の記憶。
階段の上で手を振る千秋、爆発しそうな心臓、続く焦りと衝撃、赤黒く染まるコンクリートと、ぼんやりした光景。
夕暮れの歩道橋は、一年経った今でも慣れない。
今日こそは、ここで、伝えないといけないのに。
震える足を殴りつけ、千秋を追いかけ一歩ずつ階段を上る。
かん、かん。甲高い音が警鐘のように頭に響く。
千秋と、自分と、靴の音。
まるで、世界に二人しかいないみたいだ。
見上げた先には、夕陽を反射して輝くリング。
見覚えのある、光景だった。
どうにか登りきった先、歩道橋の中央で夕暮れを見つめる背中を、大声で呼んだ。
気にする視線は、もうひとつもなかった。
「――千秋!」
ゆっくりと彼女が振り返る。見開かれた瞳が寂しそうに歪んでいく。
見たことのない表情だった。口元は笑っているのに、今にも泣き出しそうな――。
「……やっぱり」
「……え?」
やがて彼女が口を開く。俯かれて、表情はまた見えなくなった。
「わたし、今日はまだ、帰りたくないな……」
「は、どういう意味……」
ばっと背を向けた千秋が走り出す。
かんかんかんかんと、早くなった靴音が駆け抜けていった。
見知った住宅街の一角の、懐かしい公園の入口。
立ち止まったまま動かない彼女の横に並ぶ。
一本の黒い影がコンクリートに長く伸びた。
「おい千秋、さっきの……」
覗き込んだ先、千秋は唇を引き結んでスマートフォンを握りしめていた。
話したいことがあるときの癖だった。
話したいことが、話せない時の。
颯馬がよく、させてしまっていた表情。
「……なにしてんの、こんなとこで」
千秋は黙ったまま、ゆっくりと歩きだした。
ふらふらと力なく、目指す先は公園のベンチだ。
ここは自宅とは反対の位置にある。
話したいことが尽きなかった時、話したいことがあった時、寄り道に使った公園。
馴染みのベンチに腰をかける千秋を見て、そういうことか、と納得した。
スマートフォンを見つめるばかりで、口を開かない千秋の横に並ぶ。
時間だけが過ぎていく中、ぼんやりと思った。
多分、今、伝えないといけないのに。
伝えないといけない言葉が、あるはずなのに。
影が伸びる。夕暮れが幕を閉じようとしている。
意を決して、千秋の名を呼ぼうとした。そのときだった。
「もう、1時間も経ったよ。遅いよ、颯馬……」
微かな涙声が風に乗って耳へ届く。
気づけば、千秋のスマートフォンはなにかの画面を映し出していた。
――一体なにを……。
悪いと思いつつ身を乗り出した先、見えたのはチャットアプリのトークルームだった。
千秋のおめでとうから始まる、一年前の、今日の日付。
――千秋
――なに?
――好きだ。言っておいたほうがいいと思って
――遅いよ笑 それ、直接聞きたいなあ
――すぐ行く、待ってて
事故の直前、千秋に送ったメッセージ。
そうだった。好きだと告げて、すぐに行くと伝えて、それから……。
あの日の光景が再生される。
『誕生日会、楽しみにしててね』
笑う背中を見送った。一年前も、夕陽がきれいだった。
ほんの少しの勇気が足りなかった教室で、時間をかけて送ったメッセージ。鳴り止まない心臓が痛かった。
すぐに返ってきたメッセージを見て、飛び出すように校舎を出た。
行き先は迷わなかった。携帯は鞄に突っ込んで、がむしゃらに走った。
歩道橋、階段の上で、銀の腕輪が揺れていた。
逆光に隠れた彼女は、きっと笑っていた。
それで、それから……。
はっと、意識が現実に戻る。
聞こえたのは嗚咽だ。隣にいた千秋が小さくうずくまっていた。
「ごめんね、誕生日だったのに……わたしが、迎えに行ってたら……」
しゃくりあげながら、とぎれとぎれに発される。
簡単にかき消されてしまいそうな細く弱々しい声が、颯馬の胸を締め付けた。
どうして、千秋が謝るのだろう。
謝らないといけないのは、俺の方なのに。
寂れた公園だ。夜も近い時間に、他に人はいなかった。
「千秋……」
触れられなくとも、少しでも慰めになればと、空いていた距離を詰める。
「会いたいよ、颯馬」
「もっと……もっとはやく、伝えてたら」
拭いたくて伸ばした右の手のひらを、大きな水の雫がすり抜ける。
ぼろぼろと、次から次へと流れる涙を、颯馬の手は受け止められなかった。
瞬間、浮かぶ記憶。
――ああ、本当は、俺が。
夢中で階段を駆け上がった。
近づく度に鮮明になる彼女の表情に、自然と笑みがこぼれた。
差し伸べられた手を取ろうとして、右腕を伸ばしたとき、見えたのは階段のコンクリートだった。
もつれた脚が機能しなくて、バランスの崩れた身体が転倒した。
急いでいた。千秋の顔しか見えなくて、右足が上がりきっていないことに気がつかなかった。
転がり落ちた階段下、赤く染まった視界で最期に見たのは、泣き顔だった。
全て理解した現実で、颯馬は項垂れる。
なんだか、合点がいったような、この一年の違和感が解消されたような、それでいてやるせない気分だった。
「あー……そっか」
泣きじゃくる千秋を見る。
触れられないとわかっていながら、その震える肩に頭を預けた。
「……直接、言えなくてごめん。あの日、先に、死んでごめん」
届かない謝罪が二人きりの公園に溶ける。
今の颯馬には、千秋の止まらない涙を拭うすべがない。
大切な人を慰めることもできない事実が酷く苦しかった。
身体を寄せようとして、目に入ったトーク画面。
あの日の最後のチャットの後、既読のついていないメッセージがあった。
――待ってる
――わたしも好きだよ
文字を追い、頭が理解するよりも先に視界が歪んだ。
温度のない雫が頬を伝う。とめどなく流れるそれは、自分ではもう止められなかった。
息が詰まって、言葉が出ない。
あの日、少しでも冷静になれていたら。あるいは、二人で教室を出ていたなら。
目の前にいる千秋は笑っていたのだろうか。
「好きだよ、颯馬……言えなくて、ごめんね」
丸い瞳を歪めて、後悔の滲んだ顔で千秋は言う。
祈るように銀色を握りしめる千秋を見て、一回くらい付けたらよかったな、と思った。
「……今伝わったよ」
一年越しの返事は、聞きたかった言葉は今聞いた。
ふっと安堵の笑みがこぼれる。
「誕生日なんだからさ、笑っててくれよ」
目元を真っ赤に染めた二人が寄り添う。
この気持ちが少しでも伝わればいいと願った。
「俺も、好きだよ」
一年前に伝えたかった言葉は、もう空気を震わせない。
ベンチに寄り添う影が、夜の暗闇に消えていった。
誕生日の君へ。 田崎慧 @Tasaki_i
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