第36話 陰

「人生の陰……か」


 自室に入り、簪を眺めながらつぶやく。

 確かに自分は人の陰で育った。

 母の愛はすぐに天より引き離され、親の愛をほぼ知らずに生きてきた。その中で自分に愛をくれたのは、明子と和之のみだった。


 ふと琴は立ち上がると、奥の寝所へ入った。

 納戸を開けると、中には愛用の箏。埃が被らないよう、薄い布をかけてが保管してある。この箏は母の形見だった。

 箏を愛していた母は、琴に熱心に教えてくれた。指の使い方、音色に響かせ方。筝に関することをすべて、母の言葉で教わった。

 あのときの時間に戻りたいと、何度願っただろうか。


「お母さま。私、もう居場所を失いたくないです……」


 我慢していた涙がぽたりと落ちる。

 無意識のうちに、己の身体を抱きしめていた。

 力を入れるとつきりとした痛みが襲う。


(まだ痛い。ずっとこれからこの痛みはわたしと一緒にあり続けるんだ)


 身体に刻まれた、世間では『虐待』とも言われる赤黒い傷。

 居場所がない、生きる意味がわからない。そんなときに、この傷は己を縛りつける。まるで、その場から逃がさないと縄で縛り上げてくるように。


「やっと居場所を見つけたのに……。聖職者として認められなかったら、またひとりぼっちです……」


 声に出すと、余計に悲しくなる。

 あふれる涙を拭いながら、将大が言っていたことを思い出した。良い香りがする部屋の中で、彼が寂しそうに言ったこと。


 ──聖職者は皆同じ立場でここだけが居場所なのだ、と。


 聖職者たちをもっと知りたいと、そんな考えが思い浮かんだ。

 どんなときでも笑っている凛太郎でさえ、何か暗い闇を持っているのだ。姉として傍にいてくれる夕海も、咄嗟に自分を守ってくれた涼人も。それぞれ、抱える闇がある。

 しかし。


(聞きたいけど、それは失礼だよね)


 自分だってあまり過去について聞かれたくない。父親からの傷を見せたくない。それと同じようなことを思うのは、どの聖職者だって同じだろう。

 皆と話していて自然と聞けたら、そのときは自分も話そうと決める。それが、おそらく1番良い。

 誰かがぽろりと本音が出て語り出したら、最後まで聞いてあげようと思う。

 そして何かの役に立てたら良い。

 自分と同じ境遇の立場だったら、共感することだってできる。

 そう決めて、傷をそっと撫でた。

 そのとき。


「あれ、琴? お部屋にいるんじゃないの?」


 向こうの部屋の入り口から声がした。不意のことに、心臓が飛び跳ねるくらい驚く。

 あわてて涙を拭うと、寝所から出た。

 部屋の戸が開けられ、そこから差し込む陽を背後に誰かが立っていた。綺麗で整えられている衣を着ている人。それは、夕海がいない。

 夕海は、琴を見た途端、ほっとしたような笑みを浮かべた。


「あ、ごめんね、寝てた?」

「いえ、少し整理をしてたんで」

「それなら良かった。あのね、ちょっと来て!」


 夕海に部屋から引っ張り出される。突然のことで、頭が追いつかない。琴は、半ば引きずられるようにして、自室を後にした。




「うわぁ!」


 隣の夕海の部屋は、戸が開いていた。琴は、その中に連れ込まれるように部屋に入る。。

 夕海は戸を閉め、ばっと両手を広げた。


「見て見て!」


 夕海が部屋の中を示す。

 そこには六つの衣桁があり、それぞれ衣が掛けられていた。

 右から緋色、金茶、桃花、菜の花、空色、萌黄と並んでいる。


「さっき全部作り終わったの! 琴に見てもらいたくて」

「すごいですね! うわぁ、これを皆で着るんだ……!」

「やっぱり6人分は疲れたよ。でもこうしてみると、やった甲斐があるね」

「お疲れさまです!」

「ありがとう」


 さすが、聖衣師である。この数日で、6人分の衣を完成させた。糸のほつれなど見当たらず、柄も綺麗に出るように計算されている。そんな衣たちは、なんだか嬉しそうに煌めいていた。

 そんな夕海はにっこり笑うと、ふわぁと背伸びをした。


「皆、準備終わったかなぁ。渡したいものがあるんだよね」

「渡したいものですか?」

「うん。これ」


 夕海が取り出したのは、小さな袋だった。

 両端に紐が付いていて、巾着袋のようなもの。それぞれの衣と同じ布で作られた、小さな工芸品のようだった。


「これね、以外と布が余っちゃったから作ってみたの。これが琴のだよ」


 差し出してくれたのは、桃花の袋。

 小さくて可愛らしい。布と似ている色の紐がついており、きゅっと口を閉じられるようになっていた。

 そんな巾着袋を渡され、琴はぱぁっと顔を輝かせる。自分への贈り物がなんだか嬉しかった。


「わぁ、可愛いですね!」

「これに真珠を入れたらどうかなって。持ち歩くとき大変でしょ、箱だと」

「そうですね。これだと持ち運びが簡単そうです」

「ね、今から皆に渡しに行こうよ。ついでにからかいにさ」

「いいですね、楽しそう!」

「よし、始めは一番おもしろそうな凛太郎のところへ行こう!」


 そのために、夕海は琴を誘いに来たのだろう。同じ聖職者とは言え、その座に就いた月日はまったく違う。琴はまだ日が浅いからこそ、こうやって話しかけに行くことは大事だろう。琴は、「観に行きたいです!」と声を張り上げた。

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