第35話 帝と宰相

「琴はどうだった」


 帝が政を執る、聖真殿。

 執務を執り行う部屋に入ってきた和之へ、朝陽は顔を上げずに問いかけた。


「明日の宴に備えて曲を作っているようです」

「そうか」


 さらさらと筆を紙に走らせる。

 和之は、流麗な字が並んだ紙をのぞき込んだ。


「何を書いていらっしゃるのですか?」

「文だ」


 朝陽はことん、と筆を置く。

 置かれた硯からは、墨の香りが漂う。書いていた文の紙は、帝だからこそ使うことのできる良質な物だった。


「また天弓座のやつらからだ。本当にしつこい。いっそ、真珠を持った琴の姿を見せてやろうか」


 帝が代筆をせずに文を国民に書くのは、特別なときだけだ。

 おそらく天弓座からの文はこの1通以外にもあったようだ。朝陽は、もうこれ以上文を 送らないと言う意味を込めて書いたのだろう。

 その証拠に、端麗な顔には「面倒くさい」と書かれていた。


「琴の姿を見せるのは、披露目ノ儀でよろしいのでは?」

「それもそうだ」


 くすっと笑った朝陽は、文を綺麗に折りたたんでいく。

 きっちりとたたまれたそれを、傍に控えていた文使いに渡した。


「これを、天弓座に」


 文使いは「はい」と頭を下げ、静かに去っていった。

 朝陽と和之、ふたりきりになる。


「琴は」


 和之は思わず口を開いた。

 朝陽は、硯と筆を片付け始めている。それを眺めながら、和之はぼんやりと呟いた。


「琴は、大丈夫なんでしょうか……?」

「珍しいな。宰相が弱音を吐くなんて」


 片付け終えた朝陽は、じっと和之を見つめた。

 透明だけれども威厳のある瞳が、宰相に向けられる。その瞳を、和之は静かに見返した。

 朝陽は、頬杖をついて口を開く。


「琴は、先生にとってどんな存在なのだ?」

「孫ですが」

「違う。そう言う意味ではない」


 朝陽の知的な瞳が煌めく。夜空に浮かぶ月のように、何もかも見通していそうな瞳だった。

 和之の方が何年も先に生きている。しかし、この若い帝は何をさせても完璧に熟す。非の打ち所がないように。ただ、穏やかな性格上、『天然』であることは間違いないけれど。


「琴は特別なのだろう? 琴以外の孫よりも大切に接していた」

「それは……」

「別に言わなくても良い。言った方がすっきりするのではないかと思っただけだ。言ったところで、誰かに告げ口をしようなんてことは考えていない」


 いつの間にか、愛くるしい顔立ちの無邪気な東宮は、こんなにも成長していた。

 人の気持ちを察し、接することができる帝は朝陽だけだ。

 歴代の帝に、そのような力は持ち合わせていない。

 朝陽と触れ合うと、なぜか心に溜まったものを出してしまいたくなる。和之は、自分も知らぬ間に声を発していた。


「……私には、たくさんの孫がいます。しかし、私は琴としか血が繋がっておりません」

「なんと」

「娘婿の不祥事です。私は縁を切りたいのですが、娘婿はそれを許しません。この国の宰相との繋がりを断ちたくないのでしょう。私は琴のためにも切りたかった。しかし、私ではもう琴は守れないと、最近そう思うのです」

「……そうか」


 琴には何かあると感じていたが、和之まで関係しているとはあまり考えていなかった。

 和之は異様なほど、琴を心配していた。

 聖職者となる前も、体が弱くないのになぜ寝込むのだと嘆いていたことを、ふと思い出す。

 己の師がここまで落ち込む姿を見たことがなかった。

 そこまでするほど、琴は大切で守らなければいけない存在なのだろう。


「わかった」


 宰相が言いたいことを痛烈に理解した。大切な存在を、己の人生をかけて守りたいのだろう。それを知ってしまったら、後は行動するしかない。

 朝陽は、頬杖をやめて力強く言った。


「主上?」

「俺が琴を守る」

「えっ」

「帝には誰も手を出せない。自分の地位をそんな風に言うのは嫌だが、俺が守ってみせる。琴は聖職者がゆえ」


 朝陽が、期待せよと言う目で和之を見てくる。意思が強く、それでいて誓っているような。その力強さに安心する。仕える主が、こんなも頼もしいのは嬉しい限りだ。


「ありがとうございます」


 思い切り頭を下げた。

 目の前に広がる畳が、なぜだか揺らいでいるように見える。きっと、気のせいだろう。和之は、こみ上げてくる熱い何かをぐっと噛みしめた。

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