第34話 替わり

 朗らかな笑みを浮かべている将大は、簪を見て驚いた声を上げる。


「これをくれたの?」

「はい。母親替わりの侍女だったので。別れるのが惜しかったんです」

「母親替わり、か」


 ふいに将大の顔から感情が消えた。

 いつもの明るい笑顔が何かに隠れる。いつも光り輝いている太陽が、分厚い雲に隠れたように。見えなかった影の部分が、少しだけ顔を覗かせた。

 そんな彼の姿に、背筋がぞわりとする。なぜだか恐怖を感じて、おそるおそる声をかける。


「将大さま?」

「知ってる? 琴」


 将大は、琴に問いかけてきた。手にしている香炉に、静かにそっと目を落としながら。

 その瞳には、何かが映っている。

 消えない何かの影。それが、ずっと将大にまとわりついているようにぐるぐると渦巻いていた。

 いつもは穏やかに笑っていて見えないからだろうか、初めて見る表情だった。


「聖職者ってね、巫女の救済とも言われているんだよ」

「巫女の救済?」

「うん。聖職者はどんなにお金持ちでも、どんなに権力を持っててもなれないんだ。聖職者として選ばれるのは、人生の影を知る人のみだからね」

「えっと……?」


 よくわからない。

 首を傾げて将大を見上げると、彼は悲しそうに微笑んだ。


「つまり、人に勝る才を持っていて、かつ今まで恵まれてこなかった人がなれるんだよ。ほら、どんなにすごい才を持ってても、人に色々と恨まれるでしょ。それが嫌だから、才をあえて隠して人生を送る人々がいる。琴もそうなんじゃない?」


 その通りだ。

 箏を弾くと、いつも義姉や義兄、父に怒られた。


 ──お前は弾くな。お前の箏を聴くと不快な気分になる。


 何度、言われただろう。

 和之も明子も信頼できる知人も上手と言ってくれるのに、父たちには伝わらないのだ。

 これ以上不快にさせたくないと言う気持ちから、箏を封印したときもあった。虐げてくる家族だが、琴にとっては唯一の家族。自分の好きなものを捨てて家族になれるのなら、喜んで自分を捨てる。そんな考え方だった。


「巫女は平和な世を望んでいる。皆平等で、帝も国民も人としては何も格差はないと考えているんだ。人生の陰を知って欲しくないってね。そんな彼らを救うために、巫女は『聖職者』と言う神職を設けたんだよ」

「じゃあ、将大さまや皆さまも……」

「……」


 将大は何も答えず、艶やかに微笑んだ。

 いつもは見られない大人っぽい笑み。思わず見とれてしまうくらい、彼の笑みには不思議な魅力があった。


「それはいつかね。……ここは僕が住める初めての家だと思ってる。皆もそうだよ。だから気持ち良いんじゃないかな。巫女と朝陽の帝がくれた贈り物だからね」

「私だけじゃないんだ……」


 それなのに、自分は聖職者の皆に慰められた。皆もまた、苦しい経験をしてから聖職者となったのだろう。にも関わらず、自分のことよりも琴を優先してくれている。その矛盾を知り、琴は疑問を覚えた。

 なぜだろう。

 それを問うと、将大は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。


「今日はここら辺にしよう。一気に詰め込むと、頭が痛くなっちゃうよ」


 またいつかお話ししてあげる、と将大は琴の額をぴんとつついた。


「選んでくれてありがとう。箏、がんばってね。琴の箏、皆を笑顔にする力があるから。楽しみにしてるよ」


 いつもの明るい笑顔に戻った将大に送られ、琴は将大の部屋を後にした。

 退室するとき、ちらりと後ろを向いて将大を見る。

 彼は、いつも通りの笑顔に戻っていた。あの消えそうな微笑みではなく、穏やかな兄のような微笑み。ひらひらと手を振ってくれる彼に向かって、琴はためらいがちに手を振り返すのだった。

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