第33話 香炉

 箱を抱えて部屋を出る。まだ少しひんやりとしている廊下を歩いて、自分の部屋へ向かっていた。明子から貰ったこの簪を、きちんとしまうために。


(さぁ、頑張らなきゃ)


 心地良い風が琴の黒髪をすり抜け、さらりとなびかせる。それが自分を後押ししてくれているようで、自然とやる気が漲ってくるようだった。


「よしっ」


 大きく息を吸って気合を入れたとき、からりと音を立ててひとつの戸が開いた。

 良い香りが廊下に充満する。


「あ、琴」


 部屋から出てきたのは、将大だった。彼は、にっこりとして琴を見る。


「誰か来てたの?」

「えっと、おじい……じゃなくて宰相さまです」

「あ、そう言えば琴は宰相の孫なんだよね」

「恐れ多いですが」


 遠慮がちに微笑む。宰相の孫という権力は、あまりひけらかしたくなかった。そんな後光のようなもので得た輝きより、奏者としての輝きの方が欲しかったのだ。

 そんな琴の心情を読んだのだろう。将大は、優しげな笑みを浮かべる。そして、琴に手招きをした。


「ねぇ、ちょっと来て」

「はい?」


 言われるがまま、将大の部屋へ足を踏み入れる。

 部屋の中は、たくさんの香炉でいっぱいだった。青い香炉、黄色い香炉。その他さまざまな色合いの香炉が、あちこちに並んでいる。どの香炉からも、良い香りが立ち昇っていた。


「うわぁ、すごいですね」

「明日の宴に合う香を作っているんだけど、納得するものがないんだ。よかったら、良いなって思うもの選んでくれない?」

「そんな重要な役目、私で大丈夫なんですか?」

「うん。涼人はどれでも良いって言うし、凛太郎は香の良さがたぶんわかってないし。 夕海はちょっとうるさいからね」

「お姉さま、香にも優れているんですか?」


 夕海は、香にまで精通しているとは。

 香炉を眺めていた琴は、驚いて将大を見上げた。


「まぁ、香は衣に焚きしめるからね。そこに繋がってくるんじゃないかな」

「奥が深いですね」

「そうだね」


 将大は笑うと、「さぁどうぞ」と部屋を見た。

 琴はひとつひとつ丁寧に香を嗅いでいく。柑橘系の香りもあれば、花の香りがするものも。それに、二つの香りが混ざっているようなものまであった。

 初めて嗅ぐ香もあり、うきうき気分だ。だんだんと楽しくなってきて、琴はどんどん香を嗅いでいく。

 そんなことを後ろで見ていた将大は、ぷっと吹き出した。


「あはは。そんな風に楽しく嗅がれると、調合した甲斐があるね」

「本当に楽しいです! あ、将大さま。私、この香が好きです」


 琴が手にしたのは、柑橘系の香りのする香炉だ。

 すっきりとした香りが鼻を通り抜けていく。

 初めて嗅いだ香りで、少し新鮮な気分になったのだ。


「へぇ、これかぁ。やっぱり、皆が知らない香の方が良いかな」

「初めて嗅ぐと本当に楽しいです。柑橘系の香はあまり見たことありませんし」

「そうだよね、ありがとう!」

「いえ、お役に立てれば嬉しいです」

「よし、これに決めた! 後で凛太郎を冷やかしに行ってやろっと」


 どうやら、凛太郎はまだ準備に追われているらしい。将大が香炉を手にし、にやにやと何かを考えている。

 大事そうに持たれている香炉を見て感激する。自分が選んだ香が聖香師に採用されるなんて、嬉しいものだった。

 思わず頬が緩む。にこにことしていると、ふと将大が琴の腕の中を見た。


「あれ、それ何?」

「あ、これですか?」


 そう言えば、明子から貰った箱をずっと持っていたんだ。

 琴は、将大に見えやすいように箱を開ける。

 彼は箱をのぞき込み、「わぁ」と目を丸くした。


「すごい。綺麗な簪だね」

「幼い頃から仕えてくれていた侍女が、聖職者祝いにと贈ってくれたんです」


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