第32話 一抹の不安


「そうだ、琴」


 頭を撫でていた和之は、ふとその手を止めた。

 周囲を見回し、誰もいないことを確認する。突然の行動がよく分からず、琴は首を傾げて祖父を見る。

 辺りを確認し終えた和之は、琴を見る。そして、先ほどとは違ったひっそりとした声で話し始めた。


「今後、そいつらに気を付けろ。それと、お前の兄弟たちも気を付けてほしい」

「え、お姉さま方をですか?」


 義姉や義兄は、琴を煩わしく思っている。しかし、宮中に上がってしまえば関係ないと思っていた。琴はぐっと身を引き締めて、和之の話に耳を傾けた。


「選定会のときに来た『あれ』が、琴に聖琴師の座を奪われたと話したらしい。そのせいで、兄弟たちは何かの間違いではないかと疑っていると聞いたのだ」

「やっぱり……」

「天弓座と兄弟たちが手を組むと余計に厄介だ。気を付けるように」

「はい」


 天弓座と兄弟たちの思惑は、そっくり同じもの。両方とも、琴を聖琴師として認めていないのだ。

 琴の心の中は、黒い何かが渦巻いていく。

 宮廷に来てから少しずつ抑えられて来ていたはずの何かが、どろりとあふれ出すようだった。

 古傷に流れ込み、ちくっとした痛みが広がる。唇を噛みしめてそれを塞ぎ込んだ。


「私も、もし聖琴師にやつらが絡んできたら許さない。孫でもな。孫だろうと、私は構わず罰する。なぜなら……」


 琴の頭に手を置き、ふっと微笑んだ。


「私の孫はお前ひとりだからな」

「はい!」


 黒いものの中に光が一筋差し込んだ。光が傷に入ったそれを癒していくかのように溶け込ませていく。

 祖父は決して贔屓している訳ではない。

 和之と血が繋がっているのは、兄弟の中で琴だけなのだ。


「お前だけだ」


 そう言ってもらうと、いつも嬉しくなる。

 自分だけ。

 それが、琴を義姉や義兄から守る言葉だった。


「がんばれよ。ずっと応援しているからな」

「がんばります!」


 よし、と和之はうなずくと立ち上がった。


「私はそろそろ行く。くれぐれも気を付けてな」

「また会えますか?」


 不安げに祖父を見上げる。

 和之はふっと笑った。家の中で見る、優しい祖父の顔。宰相のときに見せる表情よりも、ずいぶんと柔らかいものだった。


「同じ宮廷の敷地にいるのだ。いつでも会える。それに今では、私よりお前の方が立場的には上だ。聖職者だと言えば誰でも通してくれる。殿上人の中にお前を反対している人はいないからな」

「あまりそんな感じはしません。わたしが、おじいさまより上だなんて」

「慣れれば良い。誰もいないときだけ、私はお前の祖父になるからな」


 そう言う祖父の瞳は優しい。

 思わず抱きつくと、祖父は仕方がないと言うように抱きしめ返してくれた。

 鼻をくすぐる懐かしい香りが、幸せと感じさせる。


(やっぱりおじいさまは大好き)


 幼い頃から変わらないその優しさが好きだ。

 どんなに虐げられても、和之はずっと琴の味方だった。巫女に仕える宰相は、一族内に口出しできない。それでも、和之は祖父として琴を守り続けてくれたのだ。


「お前だけを、私は孫として愛している」


 耳元でそうささやかれる。

 その言葉が嬉しくて。

 誰かにそう言ってもらえるのが本当に嬉しくて。


「はい!」


 腕の中で祖父を見上げ、ふんわりと微笑んだ


「ではまたな」


 もう一度琴の頭を撫でると、和之は部屋から出て行った。

 琴は、簪の入った箱を、大好きな祖父のぬくもりと共にぎゅっと抱きしめた。

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