第30話 練習

 今日の聖麗殿は、いつもより静かだった。祝宴を明日に控え、聖職者たちは大忙しなのである。

 凛太郎は、いつもとは違う真剣な表情で厨にこもっている。

 将大の部屋からは嗅いだことのない香りが漂い、涼人の部屋はいるのかわからないくらい静かだ。そして夕海の部屋は布の海で足場がないらしい。

 琴もまた、今日は忙しい。祝宴のために、一番奥の空き部屋を利用して箏の練習をしていた。

 空き部屋は皆の部屋から遠く、音が邪魔することはない。侍女がこの部屋を使って良いと許可を出してくれたのだ。そのため、ありがたく使わせてもらっている。


「うーん。ここは違うなぁ」


 琴は作曲の真っ最中だった。

 どうやら、宮廷にも専属の雅楽団がいるらしい。朝陽には、彼らを超えて圧倒させろと言われてしまった。圧倒させることができるのだろうか。琴は、焦りを感じていた。


「やっぱりここは下げた方が良いかな。でもそうしたら暗く感じちゃうし……」

「あまり根をお詰めにならないでくださいね」


 ふと、からりと戸が開いた。

 見れば、そこには侍女の姿。お茶と茶菓子を盆に乗せ、優しく微笑んでいる。


「休憩しませんか?」

「ありがとうございます」


 侍女は、すっと琴の近くに座る。そして、湯呑みを琴に差し出してきた。

 琴は、手渡されたお茶をこくりと一口飲む。おいしい。ほろ苦いお茶が喉を伝っていった。


「琴さまは作曲もなされるんですね」

「私、本来ある曲を弾くより、自分で作った曲を弾くのが好きなんです」

「才能ですね。私は作曲なんてできません」

「あれ、小夜さんも箏を?」


 侍女──小夜は「はい」とうなずいた。

 小夜は聖琴師直属の侍女で、主に聖琴師の身の回りを手伝ってくれている。従者の中でも最年少と、琴と類似しているところがある侍女だ。


「嗜みとして習いましたが、そんなに上達しませんでした」

「そうなんですね」


 明子ともう会えない寂しさを抱えていた琴にとって、小夜の存在は心強い。

 そんな小夜が、盆に乗っていた皿をそっと差し出した。


「このお菓子、凛太郎さまの新作お菓子らしいです。皆さまの意見が聞きたいそうで」

「へぇ、美味しそう!」


 皿のそばに置いてある黒文字を手にし、月の形をした和菓子をそっと切る。ほわんとした柔らかさのある和菓子は、切るその感覚が楽しい。琴は、心を躍らせながら和菓子を口に運んだ。

 頬張ると、口いっぱいに広がる甘い餡。その甘さが、幸せな気分へと誘ってくれる。


「すごく美味しいです!」

「お作りになっているところを見せていただきましたが、それはもう手際が良くて。見ているだけでも美味しく感じました」


 いつも将大や涼人にいじられている凛太郎。そんな彼からは想像できない繊細な味。

 普段はずっと騒いでいるためあまり感じないが、彼も巫女から認められた『聖職者』なのだ。


「さすが聖食師ですね」

「聖食師直々にお作りになったお菓子の作り方を見せていただけるなんて幸せです。それに大好きな箏の音を間近で、しかも聖琴師の弾く箏を聴けるなんて本当に幸せですわ」

「そんなことないですよ。今度一緒に箏を演奏しませんか?」

「良いのですか!? 嬉しいです!」


 友達みたい。

 小夜の方が歳上だが、気兼ねなく話せる人が増えて嬉しい。それに、この宮殿に来てからは毎日が本当に楽しかった。

 小夜とは、既に友達のように話せる仲である。そのため、お茶を飲みながら談笑していると。


「琴さま」


 戸の外で声がした。

 訪問者を告げに来る従者の声だ。外廊下に続く戸の前で、こちらに話しかけてきていた。


「宰相さまがおいでです。お会いになられますか?」


 小夜と目を合わせる。

 小夜は小さくうなずくと、空になった盆を持ち上げた。そして、聖の間に続く廊下側の襖に立つ。

 その姿を見て察すると、琴は戸の方へ返事をした。


「わかりました。ここで会います。よろしくお願いします」

「かしこまりました」


 礼儀正しい返事が聞こえたあと、気配が去っていく。

 小夜は襖に手をかけ、「お茶を淹れ直してきます」と出て行った。

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