# 第1話 色のない日々
灰色のサーキット。二台のレーシングバイク。
無音の世界。
その中で、大好きな親友の背中だけが鮮明に見えている。
完全にシンクロした走り。踊るような一体感。
「彼女なら、もっと攻められるはずだ」
そんな根拠のない信頼が、私をさらに近づけた。
コーナーへの進入。
私は距離を詰める――その時。
親友のマシンが、限界ギリギリで僅かにスライドした。
私は避けきれず――
彼女のリアタイヤと、私のフロントタイヤが――接触する。
弾かれた親友のマシンが凶器のように高く跳ね上がる。
宙を舞う彼女の身体。
『ガシャァッ!!』
視界の中で、無茶苦茶に混ざり合う二台のマシン。
無音の世界が、その破砕音で一瞬にして吹き飛ぶ。
私は何もできない。
私も地面に投げ出され、アスファルトを滑っていく。
スーツ越しに伝わる摩擦の熱さだけが鮮明で、他は何も感じられなかった。
肩から落ちていく親友。
でも――彼女の顔は見えなかった。
彼女の身体が地面に叩きつけられる、その瞬間――
「ッ――!」
息が詰まる衝撃とともに、私はベッドの上で目を覚ました。
心臓がうるさい。
呼吸も浅い。
寝汗でTシャツが張り付いている。
あの時―― 私が、距離を詰めなければ。
息を整えながら、しばらく天井を見上げていた。
何度目だろう―― この夢を見るのは。
もう三年も経つのに……
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、白い壁に細い線を描いている。
私は身を起こし、ゆっくりと息を吐いた。
「……もう、やめてよ……」
誰に言ったのか、自分でもよくわからない。
制服に着替えながら、鏡に映る自分を見つめる。
結んだ髪も、頬も、唇も、なんだか世界中の色が薄く遠く感じる。
母はキッチンで朝ご飯を作っていた。
私は「おはよう」とだけ言い、テーブルにつく。
母は私を心配そうに見つめるけど、私は視線を逸らす。
学校。友達との会話。
全部、薄い膜ごしに過ぎていく。
私は笑顔を作るのがうまくなった。
でも、それは誰にも触れさせたくない壁のため。
「昔は夢中になれたのに」
そう思うたび、胸の奥が冷える。
父とガレージやサーキットで過ごした時間は、私のすべてだった。
でも、あの事故で全部壊れた。
親友には直接謝ったけど、二人の距離はもう戻らなかった。
あれから彼女はサーキットを去り、私もバイクに乗ることをやめた。
以来、私の毎日は、まるで灰色のフィルム越しに見ているみたいだった。
夏の暑さが本確的になる頃、母の勧めで自動車免許を取った。わざわざマニュアルで。
変速の操作は、なんだか懐かしかった。
クラッチを踏んで、シフトレバーを操作して、エンジンの回転数を合わせる。
それが妙に落ち着いた。
でも家にあるのは母親のコンパクトカーだけ。オートマチックの。
「せっかくマニュアルで免許を取ったって、うちにはマニュアルの車がないじゃない――」
独り言のようにぼやいたとき、ふと思い出した。
そういえば、ガレージ――
私がバイクレースをやめて、しばらくして父親がいなくなった。
それ以来、ずっと閉ざされていた場所。
あの事故を思い出すのが怖くて、ずっと鍵をかけていた場所。
意を決して、久しぶりに自宅のガレージへ足を向けた。
ガレージのシャッターを開けると、空気が冷たかった。
中はきちんと整理されていて、埃っぽい匂いとオイルの香りが混ざっている。
昔と同じ場所に、カバーがかかったバイクが三台と車が一台。
私のバイクがいたはずの場所だけがぽっかり空いているのを見て、胸がきゅっとなった。
父と一緒に、私のバイクを整備をしていた日のことを思い出す。
『クラッチディスクを変えたら、休憩にしよう。アイスでも買いに行こうか。』
手はオイルで真っ黒だったけど、そんな時間が好きだった。
車のカバーをバッとめくると――
真っ赤なランサーエボリューション9MRが姿を現した。
フロントバンパーの両脇についた、黒く鋭い小さな
それが日差しを反射して、まるで獲物を狙う猛禽類のように見える。
深い青のホイールが、車体の赤とコントラストを描いている。
小さい頃、父親とよく一緒にドライブに出かけた。
峠道を気持ちよく駆け抜けて、展望台で景色を眺めて。
バイクレースに夢中になってからはすっかり忘れていた。
「……何やってるんだろう、私」
ふとエンジンをかけたくなって、ボンネットを開ける。
バッテリーに端子をしっかりと繋ぎ、深呼吸して運転席に乗り込んだ。
「ずっと放置してたバッテリー……さすがに、厳しいよね」
諦め半分、祈り半分。
フルバケットシートに換装された窮屈な座席に身を沈める。車内は懐かしい匂いがした。
昔はこのシートに座らせてもらうと、まるで戦闘機のコックピットにいるような気分になった。
手がハンドルに触れた瞬間、指先が少し震えた。
キーをONにすると、メーターが淡く光る。
静かな車内に、機械の生命が宿る音が響く。
「おねがい――ッ!」
祈るような気持ちでキーを回す。
キュ、キュ、……ウ……キュルッ!
セルモーターが重苦しく、今にも止まりそうな音で回り始める。
ダメか、と思ったその瞬間――
『ヴゥゥン、ボロロロ……ッ!』
エンジン音と共にタコメーターの針が跳ね上がり、ランエボは静かに息を吹き返した。
安定したアイドリングが、車体全体に小刻みな振動を伝えてくる。
そのときだった。
幼い日のミニバイクレース、父親とのドライブ、親友と切磋琢磨したバイク漬けの日々、そしてあの事故——
白黒だった世界に、すべてが一気に流れ込んできた。
膝に、熱い液体がこぼれ落ちた。
その感触に、私は少しだけ驚いた。
「あたし……泣いてるの……?」
静かに、音もなく流れ落ちる涙。嬉しいのか、悲しいのかもわからない。
自分でも驚くくらい、涙は静かに溢れて止まらなかった。
そのまましばらく、アイドリングのリズムと心臓の鼓動が重なるのを感じていた。
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それから私の生活は一変した。
学校が終わるとバイトに向かい、空いた時間はすべてエボの整備に費やした。
硬化した樹脂部品を交換し、古くなった油脂類を新しいものに替え、タンクに残っていた古いガソリンも全部抜いて入れ替えた。
一つずつ、丁寧に。
父親と一緒にやったように。
自分でできることは必ず自分でやった。
バイクレース時代に父親と培った知識と技術が、思った以上に役に立った。
工具を握るたび、父の手つきを思い出す。
オイルの匂いが鼻をつくたび、あの頃のガレージがよみがえる。
どうしても一人では難しい作業は、昔お世話になっていた整備工場に持ち込んだ。
工場のおじさんは、最初は驚いていたが、何も言わず親切に対応してくれた。
作業が終わるたび、エボの赤が少しずつ輝きを取り戻す気がした。
そして―― 私自身も、少しずつ、何かが変わり始めている気がした。
時間とお金はかかったけれど、高校の卒業を迎える頃には、エボは見違えるほどの状態になっていた。
エンジンの調子も完璧で、四連メーターの針も正確に動作する。
高校を卒業する日、私はエボのキーをポケットに入れていた。
空は晴れていて、風が気持ちよかった。
気が付くと、私は父とよくドライブした峠道に向かっていた。
「無意識にハンドルを切ってた」
その言葉が、今は妙にしっくりくる。
父親のお気に入りの場所。
星空がきれいで、天気が良いと富士山が一望できる展望台がある峠。
エンジンを止めて、夜空を見上げる。
久しぶりに見る星は、思った以上に鮮やかだった。
夜空の際が僅かに白み始める頃、遠くからエンジンの音が聞こえてきた。
甲高く、軽やかな音。明らかにスポーツカーの音だった。
ヘッドライトが峠道を駆け上がってくる。
白い車体。そのコーナリングは、まるで踊るように美しく、繊細で正確だった。
私は無意識にエボのエンジンをかけていた。
心の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちる音がした。同時に、新しい何かが芽吹き始める音も。
崩れて空いた部分が、その新しい何かに入れ替わるような―― そんな、不思議な感覚だった。
あの白いマシンを、追いかけてみたい。
そう思った瞬間、私の中で完全に止まっていた時計が、再び動き出した。
それが、私と彼女との、長い長い追いかけっこの始まりだった。
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# あとがき
お読みいただきありがとうございました。
第一話はプロローグと同時アップだったので、特にあとがきはないのですが、
イメージイラストについて、近況ノートに記載しましたので、そちらをご紹介いたします。
引き続き、よろしくお願いいたします。
https://kakuyomu.jp/users/Bomi-Asu/news/822139840069602054
【次回、天才S2000ドライバーの視点。彼女が抱える「敗北」の記憶とは?】
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## 用語解説
◆ ハイサイド(親友の転倒)
バイクレースにおける最も危険な転倒の一つ。
リアタイヤが滑って横を向いた状態で、急激にグリップが回復することで起きる。
サスペンションの反動でライダーが空高く放り出されるため、地面への叩きつけられ方が激しく、大怪我に繋がりやすい。
◆ スリップダウン(アサヒの転倒)
タイヤのグリップを失い、そのままズルズルと内側へ滑って転倒すること(ローサイドとも言う)。
ハイサイドに比べれば衝撃は少ないが、コース上にマシンとライダーが滑っていくため、後続車を巻き込む危険性がある。
◆ フロントカナード
フロントバンパーの両サイドに取り付ける、小さな翼のような空力パーツ。空気の力で車体を地面に押し付け、前輪のグリップ力を高める効果がある。(※お父さんのカスタムパーツと思われる)
◆ セルモーター
止まっているエンジンを最初に回して、始動させるための電動モーター。
◆ アイドリング
アクセルを踏んでいない状態で、エンジンが最低限の回転数で回っている状態。エボのようなスポーツカーは、この振動が心地よい鼓動として伝わってくる。
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