# 第2話 霧の中で

――夜明け前の凛とした空気と静寂の中で、私はエンジンを温めている。


自宅ガレージ。

S2000は既にアイドリング状態。

心地よい振動に揺られながら、水温計が適温を示すまで、私はいつものように静かに時を過ごす。

手袋を嵌めた指先でハンドルを軽く叩く。規則正しいリズム。それ以外に音はない。


いつもの峠へと向かう。

毎日のように、この東京と山梨の境界線を刻む峠道を走っている。

理由はもう、自分でもよくわからない。ただ、走るしかなかった。



そして、二ヶ月ほど前から――

この時間帯、この展望台で、必ず私の前に現れる一台の赤いランサーエボリューション。


最初の頃は、コーナーを三つも抜ければミラーから消えていた。

技術も経験も足りない、ただのアマチュアドライバー。そう思っていた。


でも、今は違う。


毎日少しずつ、確実に速くなっている。

粗削りではあるけれど、この峠でスピンやクラッシュを一度も起こしていない。

それは単なる偶然ではない。センスがある。


そして何より――


私は軽くアクセルを踏み増し、ペースを上げた。

S2000のエンジンが静かに唸る。

無限のハードトップが風切り音を抑え、路面がタイヤを掻きむしる音が車内に響く。


最初の高速コーナー。

ランエボのブレーキングポイントが昨日より奥になり、コーナリング中の挙動も安定している。

学習速度が早い。


私はいつものラインを辿りながらも、ミラーの中の赤い影に意識を向けていた。

技術的な完成度では、私の方が上だ。

でも―― 何かが違う。何かが変わり始めている。


S字コーナーの連続――


教科書通りの、理論的に最適化されたライン。

無駄を排除した、完璧に近い走り。

タイヤのグリップが限界に達する寸前―― その一点を、ミリ単位で探りながら。


何千回と繰り返した動作。

プロの世界で磨き上げた技術。


それが、私の走りだった。


ランエボはまるで対極にある。

力任せで、本能的――

それでも確実に、私との差を縮めている。


なぜか、胸の奥が疼いている。久しく忘れていた感覚。

レースで勝つこと以外に、何か別の理由で車を運転したくなる感覚。


私の唇に、小さな笑みが浮かんだ。


気がついたら笑っていた、と言う方が正しいかもしれない。

車に乗っていてこんな気持ちになるのは―― いつ以来だろう。


────────────────────────────────


三年前、私は国内有数のレーシングアカデミーに所属していた。

学内では負け知らず。参戦したレースでも常に好成績を収めていた。


けれど、私の世界は “彼” の登場で変わった。


彼は私が三年生の時、新入生として入学してきた。

彼が入学してから私が卒業するまでの一年間――

私は結局、ただの一度も彼に勝つことができなかった。


どんな状況でも、私より先を行く。

タイムでも、シミュレーターでも、実戦でも。

一度も―― 本当の意味で、追いつけなかった


私は彼と最後まで競い合うことはできた。

だが、勝利を掴み取るその最後の一歩が、無限の距離に感じられた。

技術では負けていない。戦略でも劣っていない。

それでも―― 決定的な "何か" に、私は届いていなかった。


彼は感情を表に出すことはほとんどなく、私と同じように静かに走り、静かに勝つ。

それでも―― 私と彼の間には、決定的な何かが違った。


その正体に触れられないまま、勝利の味はどんどん薄れていった。

いつしか、私が優勝しても彼がいないレースでは心が動かなくなっていた。


そして一年が過ぎ、私は卒業することになった。

彼に対して以外の成績は悪くなかった。いや、彼さえいなければトップだった。

GTカーレースのチームから契約の話をもらい、私はルーキーのプロドライバーとしてデビューした。


しかし、そこでも現実は非情だった。


"きれいに速い" だけの私の走りは、プロの世界で戦うにはあまりにも上品すぎた。


「お前の走りは美しい。タイムも良い。

 だが…… レースは 泥臭くても勝った者が正義だ――」


チーム監督の言葉が今更 胸に刺さる。


ルーキーイヤーでも表彰台には何度か上がった。

だが、シーズンを通しての成績は、スポンサーの期待を超えるものではなかった。


「ルーキーとしては上々」


メカニックやファンには、そう言ってくれる人もいた。でも現実は違った。


二年目は契約更新できた。だが三年目は――


私が一度も勝てなかったあの "彼" が、私の代わりにシートに座る事が決まった。

チームは、私ではなく彼を選んだのだ。


残りのシーズンのことはよく覚えていない。

私は居場所を失い、サーキットを去った。



無気力な日々。

勝利も、走る意味も、全部霧の中に消えていった。


そんな時、父が昔乗っていたS2000を私に譲ってくれた。

AP2型、Type S――

父が大切にしてきた、唯一の“趣味の車”。


かつて名を馳せたレーサーだった父の目には、落ちぶれ無気力に過ごす娘が、どう映っていたのだろう。

私は、もう“レース”の話ができない自分が少し嫌いだった。


思えば父の影響で、カートから始めたレース人生だった。

はじめの頃は勝つことが純粋に嬉しかったし、もっと笑えていた気がする。


でも今の私にできることは、車で走ることしかない。

車に乗ると、まだ少しだけ自分が “自分” に戻れる気がした。


そして―― 諦め逃げ出した今の私に、サーキットを走る資格はない。


父も、私と同じように寡黙で、何も言ってはくれないが、ナンバー付きのS2000をくれたことにも、もしかしたら意味があるのかもしれない。


私はまた走り出した。霧の中でもがくように。

誰もいない夜明け前の峠を――


────────────────────────────────


認めよう。

誰かと競うことに、こんなにも胸が高鳴るなんて――


コーナーごとに、私は最小限の舵角でノーズを滑らせる。無駄なスリップは起こさない。

リアが静かに路面を撫でるたび、薄いタイヤ鳴きが朝の空気に溶けていく。


一方、ランエボのタイヤは甲高く鳴いている。

四輪でコーナーごとに重いボディをねじ伏せようとする音。

荒々しく、力強い。


道幅が狭まるテクニカルセクション。

ここは私の独壇場のはずだった。

でも今日は違う。ランエボが食らいついてくる。

少し前ならここで大きく引き離していた。


私は走りながら、自分の変化にも気づいていた。


いつもなら後続車のことなど、さほど気にはしない。

自分のペース、自分のライン、自分の世界。

それが私の走りだった。


でも今は―― ミラーを見る回数が明らかに増えている。

ランエボの動きを予測しようとしている。

まるで、レースをしているような感覚。


レース――


その言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、私は無意識にペースを上げていた。

いつもの冷静な走りに、わずかな熱が混じる。


技術で勝る私が、感情で負けている?

そんな矛盾した状況に、私自身が困惑していた。



コース終盤、タイトで深い右のヘアピン。


私は計算通りのブレーキングで進入する。

――ミラーの中でランエボが消えた。


まさか曲がり切れずに――?


私がそう思った次の瞬間、豪快なドリフトと共に、ランエボが再びミラーに現れた。

とんでもない走り方で、一気に距離を詰めてくる。


サイドブレーキ!? まるでラリーのような走法。

私には絶対にできない。いや、する必要性を感じたことがない。


でも―― 有効だった。


私の完璧な理論的ラインよりも、あの無謀にも見える走り方の方が、この場面では速かった。


私の中で、完璧だったはずの理論が、音を立てて崩れ始めた。


トンネルが見える。私が先に飛び込む。

S2000の排気音が反響し、何層にも重なって響く。

直後にランエボも続き、二つの音が複雑に絡み合う。


この音は―― 嫌いじゃない。


むしろ、一人で走っているときには決して聞けない、特別なハーモニー。


長い直線。私は全開でアクセルを踏む。

S2000の限界まで。

でも、後ろから迫ってくる気配は消えない。


速くなった。予想以上に。


このままでは――


不意に、

胸の奥から熱いものが膨れ上がってくる――


私は―― 負けたくない!


この感情は何だろう。勝負に対する執着?

それとも――



トンネルを抜けると、再び狭いワインディング。

ここで私は本気を出した。

今まで温存していた技術を、すべて解放する。


一つひとつのコーナーで、私は完璧を目指した。

理論的に可能な最速ラインを、ミリ単位で刻んでいく。

S2000の性能を120%引き出す走り。

プロのレースで培った技術。アカデミーで叩き込まれた基礎。すべてを投入した。


距離が開く。

私の技術が、ランエボの情熱を上回った――



その時――


『バァンッッッ!!』

後方から、乾いた破裂音が響いた。


タイヤのバーストだ。


ミラーの中で、ランエボが大きく揺れるのが見えた。

制御を失った車体が、路肩へ引っ張られていく。


そして、ミラーからその姿を消した――



私は走り続けた。

アクセルを踏んだまま、次のコーナーへ――


でも、胸の奥が騒いでいた。


普段なら、他人のトラブルなど気にしない。

プロの世界では、それが当然だった。

自分のレースに集中する。

それだけが正しいと、そう教わってきた。


でも――


ストレートの先、私はブレーキを踏んでいた。


なぜ戻るのか、自分でも分からない。

合理的な判断ではない。


サイドターンで向きを変える。


戻らずにはいられなかった。



エスケープゾーンに停まる赤い車と、タイヤを見ている小柄なドライバー。


その隣に車を停め、エンジンを切る。


外に出ると―― 空がこんなに明るくなっていることに、初めて気がついた。

いつの間に、こんなに時間が経っていたのだろう。


汗で張り付いた髪を解きながら、私は小さく微笑んだ。

汗をかいていることにも、自分が笑っていることにも、驚いた。


「……大丈夫?」


私の声は、思ったより優しく響いた。


振り返ったドライバーの顔を見て、私は言葉を失った。

若い。いや、私と同じくらい?

幼さすら残る彼女の瞳は純粋な悔しさで潤んでいた。


「……平気。ありがと」


返ってきた返事は、そっけない。でも、どこか強がりを含んだ響きがあった。


無事なら、それでいいはずだった。

でも、なぜかすぐにその場を立ち去れなかった。


チン、チン……と、二台のエンジンが冷えていく金属音だけが、静寂の間に響いた。


「そう……じゃあ――」


「待って!」


去ろうとする私を、彼女が呼び止めた。

振り返ると、彼女は少しだけ視線をそらしながら、


「あたし……アサヒ。あなたは……?」


アサヒ――


「私……リン。」


不思議と、考えるよりも早く答えていた。


朝の柔らかい光が、二台の車を照らしている。

白いS2000と、赤いランサーエボリューション。

そして―― 私たちを。


この瞬間から、何かが変わり始めるような気がした。


霧の中でもがいていた私に、小さな光が差し込んできたような。そんな予感がしていた。



ふと、助手席に放り出していた封筒が目に入った。

ずっと開封もせずに放置していた、一通の招待状。


『TDR -Touge Dual Raid-』


「……バディ、か」


もしかしたら――


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# あとがき

読んでいただきありがとうございます!


今回は、近況ノートにてS2000を駆るクールな天才少女・リンのイメージイラストを公開しました!

「霧の中で」迷いながらも走り続ける、彼女の凛とした姿をぜひ見ていってください。

ロングヘアー × オープンカー、最高です……(笑)


https://kakuyomu.jp/users/Bomi-Asu/news/822139839978096758


【次回、「タイヤもガソリンもタダ!?」 金欠エボ女子、魂の叫び!】


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## 用語解説

◆ S2000 Type S (AP2)

S2000の生産終了間際に設定された最終モデルの一つ。

専用の大型ウイングやフロントリップスポイラーを標準装備し、空力性能(空気の力で車を安定させる力)を極限まで高めた「純正チューンド」仕様。初期型(AP1)よりもトルク重視で扱いやすいと言われている。


◆ 無限ハードトップ

ホンダのワークスブランド「無限(MUGEN)」製の屋根パーツ。

S2000は本来オープンカー(幌)だが、軽くて硬いこの屋根を装着することで、車体の剛性と空力性能を引き上げることができる。


◆ レーシングアカデミー

プロレーサーを育成するための養成学校。

実技だけでなく、車両工学やスポンサーワークなども学ぶ。ここでの成績上位者が、メーカーの支援を受けてプロデビューへの切符を掴むことができる狭き門。


◆ シート(シートを奪う)

レーシングチームにおける「ドライバーの枠」のこと。

プロレースの世界では、実力やスポンサー資金を持つライバルに契約を奪われ、走る場所を失うことが日常茶飯事である。


◆ サイドターン

サイドブレーキを一瞬引いて後輪をロックさせ、小回りに車体の向きを変える技術。

ジムカーナやラリーで使われるが、通常のサーキット走行(グリップ走行)を主体とするドライバーには「邪道」あるいは「非常識」に見えることがある。


◆ ライン取り(レコードライン)

コースを最も速く走るための走行軌跡。

理論上最速のラインは一つだが、アサヒのように車を滑らせて無理やりねじ込む走り方は、リンの知るセオリー(常識)の外側にある。

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