第四部 水平線の先へ ― 未来への舵取り
第10章 報告
長い航海を終え、東京の本社に戻った隼人は、別人のように変わっていた。日に焼け、少し痩せたその姿には、以前の学生のような頼りなさはなく、現場を知る者だけが持つ自信と落ち着きが備わっていた。
役員会議室で行われた報告会で、隼人は自らの経験を基に、NOLフェニックスのオペレーションについて詳細な報告を行った。彼の言葉には、単なるデータ分析を超えた、生きた実感が込められていた。彼は、最新のARナビゲーションシステムが、悪天候時に航海士の心理的負担をどれほど軽減するかを語り、M0運転下での機関士たちの予防保全の重要性を力説した。そして何よりも、地政学的リスクが乗組員に与えるストレスと、彼らの士気を維持するための通信環境の重要性を訴えた。
彼の報告は、経営陣に深い感銘を与えた。陸にいながら、まるで自分たちも航海を共にしたかのような臨場感があった。
「田中君、君の報告は素晴らしかった」佐藤部長は言った。「君は、我々陸上スタッフが忘れがちな、最も重要な視点を持って帰ってきてくれた。それは、船を動かしているのが、技術やシステムだけでなく、生身の人間だという視点だ」
この報告が評価され、隼人は新たに発足した「未来船隊戦略室」への配属を命じられた。それは、海運業界が直面する二つの大きな変革の波、すなわち環境問題への対応である「GX(グリーン・トランスフォーメーション)」と、デジタル化の推進である「DX(デジタル・トランスフォーメーション)」を統合的に推進する、会社の未来を左右する部署だった 。隼人の新たな航海が、今度は会社の戦略という大海原で始まろうとしていた。
第11章 未来の燃料
未来船隊戦略室での最初の仕事は、NOLの次世代燃料戦略を策定することだった。国際海事機関(IMO)は、2050年までに国際海運からの温室効果ガス(GHG)排出量を実質ゼロにするという、極めて野心的な目標を掲げている 。NOLも、この規制をクリアするための具体的な道筋を示さなければならなかった。
会議室の空気は、かつてないほど張り詰めていた。議題は、重油に代わる未来のゼロエミッション燃料の選択。それは、会社の未来に数十億ドル規模の投資を伴う、重大な経営判断だった。
まず口火を切ったのは、技術開発部のアンモニア推進派だった。 「アンモニア(NH3)こそが、本命です。燃焼時にCO2を排出しない、完全なカーボンフリー燃料です」
しかし、すぐに運航管理部から厳しい反論が上がった。 「安全性の問題をどうクリアするのか。アンモニアは猛毒だ。万が一、船内で漏洩すれば、乗組員の命に関わる大惨事になる 。タンクや配管の設計、船員の訓練、保護具の配備など、安全対策にかかるコストとリスクは計り知れない 。それに、燃焼方法を誤れば、CO2の約265倍の温室効果を持つ亜酸化窒素(N2O)が発生する問題もある 」
次に、水素推進派がプレゼンテーションを始めた。 「液体水素(LH2)は、究極のクリーンエネルギーです。燃焼しても水しか生まれません」
これに対しては、船隊整備部が現実的な問題を突きつけた。 「体積効率が悪すぎる。液体水素を燃料として搭載するには、現在の重油タンクの4.5倍もの容積が必要になる 。つまり、その分、貨物を積むスペースが減り、船の収益性が大幅に悪化する。また、マイナス253度という極低温を維持するための断熱技術や、金属を脆くする水素脆化、漏洩のリスクなど、技術的なハードルも極めて高い 。現状では、航続距離の短い小型船にしか適用できないのが現実だ 」
議論は、LNGやメタノールといった、より現実的な「移行燃料」にも及んだが、これらも炭素を含む以上、根本的な解決策にはならない。さらに、どの代替燃料も、従来の重油に比べて3倍から4倍という高コストが最大のネックだった 。
議論が白熱する中、隼人は静かに手を挙げた。 「どの燃料を選択するにせよ、忘れてはならないのは、それを取り扱う船員の安全と訓練です。NOLフェニックスの乗組員たちの顔を思い浮かべると、彼らが安心して乗れる船でなければ、どんなに環境性能が高くても意味がないと思います。新しい燃料の導入には、新しい船員の教育・確保体制の構築が不可欠です 」
隼人の言葉に、会議室は静まり返った。彼の言葉は、技術論や経済合理性だけでは語れない、この問題の本質を突いていた。GXへの道は、単一の完璧な解決策があるわけではない。安全性、コスト、技術的実現可能性という、三つの要素の難しいバランスを取る「トリレンマ」なのだ。NOLが下す決断は、会社の未来だけでなく、そこで働く船員たちの未来をも左右する、重いものだった。
第12章 幽霊船
GXと並ぶもう一つの柱、DX戦略に関する会議で、隼人は再び未来の海運の姿を目
の当たりにした。技術部門の担当者がスクリーンに映し出したのは、NOLが極秘に進める自律運航船プロジェクトのシミュレーション映像だった。
「日本政府は、『MEGURI 2040』プロジェクトの下、2025年までの無人運航船の実用化を目指しています 。我々の目標も、そこにあります」
映像の中では、船員が一人も乗っていないコンテナ船が、AIの判断だけで他の船や障害物を巧みに避けながら、東京湾を航行していた 。さらに、陸上に設けられた「遠隔操船センター」から、オペレーターが複数の船を同時に監視し、必要に応じて遠隔で操船する未来像も示された 。その目的は、ヒューマンエラーによる海難事故を根絶し、運航効率を最大化することにある 。
しかし、質疑応答の時間になると、このバラ色の未来像に、次々と現実的な疑問が投げかけられた。
「自律運航船の法的な責任者は誰になるんだ? 事故が起きた時、船長の代わりに誰が責任を取るのか? AIか? 」 「陸上との通信が、サイバー攻撃や太陽フレアで途絶した場合のフェイルセーフはどうなっている? 制御不能になった巨大な船が、海の上を漂流することになるんじゃないか? 」 「AIは、過去のデータから学習することはできても、前例のない複合的な危機に対応できるのか? 荒天の中でエンジンが停止し、同時に積み荷が崩れ始めるような、船長が経験と勘の全てを総動員して乗り切るような事態を、アルゴリズムで本当に代替できるのか? 」
隼人は、NOLフェニックスの鈴木船長の、荒波の中で的確な指示を出す冷静な姿を思い出していた。あの究極の状況判断は、果たしてAIに可能なのだろうか。
プレゼンターは、これらの課題が、技術だけでなく、法整備、国際的なルール作り、そして新たなスキルを持つ人材育成といった、業界全体の取り組みが必要な、壮大な挑戦であることを認めた。
「したがって、我々の当面の目標は、船員の『代替』ではなく、『支援』です」と彼は結論づけた。「ARナビゲーションのように、AIが航海士に最適な回避ルートを提案し、最終的な判断は人間が行う。当面は、船上の人間が最終意思決定者であり続けるでしょう 。機械と人間の協調、それが我々が目指すDXの第一歩です」
隼人は、未来の船の姿を垣間見た。それは、船員が不要になる「無人船」ではなく、高度な知能を持つ機械と、経験豊かな人間が、互いの長所を活かして協力し合う「賢人船」とでも言うべきものかもしれなかった。その新しい関係性をどう築いていくか。それこそが、DX時代の海運業に課せられた、最も重要な問いなのだと彼は感じた。
エピローグ 見えざる運び手
数ヶ月後、隼人は再び、あの最終面接を受けた会議室の窓際に立っていた。眼下に広がる東京湾の風景は、あの日と何も変わらない。しかし、彼の目に映るものは、全く違って見えた。
かつては単なる景色の一部だった、水平線をゆっくりと進む船の姿。今、彼はその一隻一隻の向こうに、壮大な物語を見る。明治の夜明けから戦後の復興、そしてコンテナ革命を経て、今日のグローバル経済を築き上げてきた、海運業の重い歴史。
彼は、あの鋼鉄の塊の中に広がる、一つの社会を知っている。ブリッジで24時間、世界の安全を見つめる航海士たちの真剣な眼差し。エンジンルームの轟音の中で、機械と対話する機関士たちの頼もしい背中。家族を想い、長い孤独に耐える船員たちの人間的な温かさ。
彼は、その船が直面する、見えない脅威も知っている。地政学的な紛争の嵐、海賊という古くて新しい暴力、そして気候変動と技術革新という、未来からの巨大なうねり。
窓の外の船は、もはや単なる鉄の箱ではなかった。それは、歴史と技術、金融と地政学、そして何よりも無数の人々の営みが複雑に絡み合った、巨大な生命体のように見えた。世界中の何十億という人々の生活を、その積荷で繋ぎながら、今日も静かに、しかし確実に世界を動かしている「見えざる運び手」。
隼人は、この広大で、不可欠で、そして人間味あふれる業界に、自分の居場所を見つけたことを確信していた。彼の航海はまだ始まったばかりだ。この見えざる運び手たちが進む未来への航路を、仲間たちと共に切り拓いていく。その決意を胸に、隼人は水平線の先を、まっすぐに見据えていた。
見えざる運び手 NiHey @jantyran
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ことば/彩霞
★48 エッセイ・ノンフィクション 完結済 105話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます