9 生暖かい黒い塊を拾う

 ご飯を飯櫃いいびつに移している時、文机に顔を伏せて寝ていた丹弥たんやがようやく目を覚ました。丹弥の腕に寄り掛かって眠っていた山囃子やまばやしも、つられて起きたようだ。


「飯が炊けた匂いがする。あぁ主膳しゅぜんが炊いてくれたのか。ありがとな」


 丹弥が座ったまま大きく背伸びをする。主膳と違って寝起きは良いらしい。すぐに活動を始めた丹弥のために、香の物と納豆汁を装って箱膳に並べる。


「丹弥さん、ご飯は、どのくらい食べますか」


「もっと食う。こんもりと山みてえに装ってくれ」


 お茶碗の八分目ほどに装ったご飯に、さらにご飯を追加する。

 ご飯を装っている間に、丹弥が箱膳の前に腰を下ろした。


「主膳は、もう食ったのか」


「お先にいただきました。やはり炊き立ては格別に美味しいですね」


 塩だけの握り飯一つでも十分に美味しかった。家主より先に食べるのは躊躇したが、一緒に食べると丹弥は量の少なさを気にしそうだ。

 厄介になっている身で不相応なご飯を勧められないためには、先に食べるしかなかった。


 ふと、文机から飛び降りようとしている山囃子に気付く。

 妖だから、高い所から落ちてもきっと問題ないのだろう。そう思ったが、山囃子にとっては、そこそこの高さがあるから不安になる。


「山囃子、待って。今、行くから」


 文机の端で飛び降りようとしていた山囃子の前に両手を差し出す。


 山囃子は文机の端に立ったまま、背後を見た。山囃子が顔を向けた先には、十九匹の山囃子の絵がある。


 山囃子が主膳を見上げた。


「主膳、あの絵を持ってきて。丹弥の前に連れて行って」


 ご飯を食べている丹弥の前にまずは山囃子を降ろした。それから十九匹の山囃子の絵を持ってきて、丹弥の前で広げた。


「丹弥さん、山囃子の絵、誠にありがとうございました。山囃子も、とても気に入っています」


「それなら良かった。山囃子の絵は、やるから、好きに使え」


 何か丹弥に言いたいらしい山囃子が飛び跳ねた。


「丹弥、みんなを描いてくれて、ありがとう。見えないのに、信じてくれて、ありがとう。存在を認められなかったら、すぐにでも消えるような妖のために、ありがとう」


 山囃子が思いつくままに伝える感謝の言葉を、そのまま丹弥に届ける。言い終わった山囃子が、びんざさらを鳴らし始めた。


「もしかして、今、びんざさらを鳴らしているか」


 ご飯茶碗を置いて、目を閉じた丹弥が問う。


「丹弥さんも聞こえるようになったのですか」


「いや、聞こえはしねえが、何だろうな、風みてえなものを僅かに感じる」


 再びご飯を食べ始めた丹弥の周りで、山囃子が跳ね、踊り始める。しゃざん、しゃざん、と鳴るびんざさらの音を聞きながら、再び丹弥の絵を見た。


 絵の中で合奏している山囃子たちの顔付きは、どれも違う。溢れんばかりの笑みを浮かべる山囃子もいれば、何かに驚いている顔をしつつ笑っている山囃子もいる。穏やかな笑みで演奏している山囃子もいる。


 それぞれ違う山囃子なんだなとわかる絵だ。絵を眺めながら、合奏を聞いてみたかったなと、どうにもならないことを思った。


 ご飯を食べ終えた丹弥が片付けを始める。絵を描き終わったのに、これ以上、長居をしては迷惑になるだろう。すぐにでも発とうと荷物を纏める。


「丹弥さん、山囃子共々、親切にしてくださり、ありがとうございました」


 深く深く頭を下げる。


「気にするな。頭も上げてくれ」

 

 山囃子を肩に乗せてから、主膳は立ち上がった。


「丹弥さん、今から京に戻ろうと思います」


「急いで出て行かなくてもいいんだぞ。俺はまだ何も掴めていねえから」


「これ以上、厄介になるのは申し訳ないですよ」


 忘れ物はないかと室内を見回す。如川じょせんから貰った風呂敷を片手に持って、主膳は外に出た。見送るためか、丹弥も付いて来る。


「京に戻って、居所は、あるのか」


 将監しょうげんの目としての役目は、ただ妖が見えれば務まる。きっともう代わりがいるだろう。


 代わりがいれば、主膳はもう用済みだ。使い捨ての存在だから、戻れば殺されるのは明らかだった。


 気遣わし気な色を浮かべる丹弥の目から逃れるように、主膳は目を伏せた。


 丹弥は優しい人だ。帰る場所がないと正直に言えば、しばらく住まわせてくれるだろう。容易く想像できたから、口にできなかった。


「主の元に戻ります。実は、無理を言って休みをいただいたので、早く帰らねばならないのです」


 返せないほどの恩を受けた身だ。これ以上、丹弥の優しさに付け込むのは、義理に背く。だから丹弥に引き留められないように嘘を吐いた。


「それなら早く行かねえとな。ただ、居所がなければ、いつでも戻ってこい」


「ありがとうございます。誠に丹弥さんに拾っていただいて、幸せでした」


 主膳は猩々緋色の玉が連なったくしろを手首から抜いた。


 釧に連なっている玉は、半分以上が失われている。旅の間に路銀を得るために売ったり、親切にしてくれた人に渡したりと少しずつ玉を抜いたからだ。


 一つ一つの玉は美しいが、釧として見ると、みすぼらしい見た目をしている。だが、これくらいしかお礼として渡せるものがなかった。


「お礼に、こんなものしか渡せませんが、どうぞ。無病息災の祈りが込められた釧です。売れば、昨日今日の宿代くらいにはなるかと思います。よければ受け取ってください」


 元は幼い頃に将監から貰った釧だ。将監は渡す時に「一人ではぐれた時など路銀が必要になったら売れ」と言っていた。この釧のおかげで江戸まで来られた。


「大事な物じゃねえのか」


 大事な物だと伝えたら、丹弥は後生大事に持っていてくれそうだ。だから、軽はずみに言えなかった。だが、大事ではないと嘘を吐こうとしても、言葉がつっかえて音にならない。

 

 みすぼらしい見た目になっても、主膳にとっては変わらず大事な物だった。


 何か答えなければ、大事な物だと言っているようなものだ。何か答えねばと焦れば焦るほど、何も浮かばず、ただ曖昧に微笑むしかできなかった。


「そういや、言い忘れていたが、師匠からの着物、多いだろ。実は売って路銀にしてくれとも言われていたんだ。僅かだが足しにしてくれ」


「それは助かります。如川様も優しい方ですよね」


「師匠は情に厚いからな」


「丹弥さんにも、如川様にも、何から何まで誠にお世話になりました」


 如川に直接お礼を伝えられなかったのは残念だ。だが、これ以上、丹弥に迷惑を掛けるのは憚られて、屋敷の場所は聞けなかった。


 最後にもう一度、深々と礼をする。


 土御門家つちみかどけには、もう帰れない。妖を見るしか能がないのに、これから、どうやって生きて行こうか。


 不安が心臓を握り潰そうとしている。苦しいほどの不安を押し隠して、笑顔を作って見せた。うまく笑えていると良いのだけれど。


 憂色を浮かべている丹弥に背を向けて歩き出した。だが、すぐに主膳は転んだ。何かに足を引っ張られた感じがした。


 即座に風呂敷を地面と体の間に入れたから大きな痛みはない。

 山囃子も咄嗟に地面に飛び移ってくれたから、潰さずに済んだ。


 いったい、何に躓いたのか。足元を見れば、黒い塊が足に纏わり付いていた。恐らく妖だろう。両手に乗るほどの大きさで、山囃子より一回り小さい。


 殺さねばと将監の目としての判断が頭に浮かぶ。打ち消すように殺したくないと心が叫んでいる。


「何か、いるんだな。俺には見えねえが」


 丹弥がしゃがんで主膳の足首の辺りを見た。


「おりますが、何の妖か、まったくわかりません。黒い塊なんです」


 目鼻も手足も見当たらないから、ただの大きな黒い卵に見える。


「消えかかっているよ。このまま忘れられたら、死ぬ」


 黒い塊に近付いた山囃子が言い切った。


 忘れられた妖は皆、こうなるのだろうか。形を失って、自分が何者かもわかってもらえないまま死んでいくなんて。主膳は恐ろしさに身震いした。


 この黒い塊を助けたい。叫ぶ心を一旦、静める。


 一時いちじの感情に任せて、また救ってもいいのだろうか。


 山囃子は救われて幸せだったのかと答えの出ていない問いが再び頭に浮かぶ。


「とりあえず家に入れ。黒い塊にはさわれるか。さわれるなら持ってこい」


 立ち上がった丹弥が風呂敷を持って先に家に入った。


 ここでぼんやり座っていても何も変わらない。とりあえず丹弥の指示に従おう。主膳は山囃子にするように、手の平を上にして両手を差し出した。


 先に山囃子が手の平から駆け上がって主膳の肩に座った。


 続いて黒い塊が、うぞうぞとゆっくり動いて手の平に乗った。大きな黒い卵みたいな形だが、柔らかく生暖かい。生き物の手触りなのに、目鼻も手足もないから、どこが頭かわからない。


 正しく持てているのか不安になりながら、再び丹弥の家に入った。


 すでに板の間に腰を下ろしている丹弥と向かい合うように端座する。


 丹弥と主膳の間に黒い塊を置くと、山囃子も板の間に下りた。


「あなたは何という妖ですか」


 黒い塊に話しかけてみたが、左右に揺れるだけで返答はない。口がないから話せないのかもしれない。


 山囃子が黒い塊に近付いて、まじまじと見ている。


「人に忘れられたら、こうなるの。たぶん、もう自分の名前もわからなくなっているよ。こいつ、自分で名前を思い出さないと、そろそろ消えるよ」


 山囃子は縋るような目で主膳を見上げている。救ってほしいと願っているのが言外に伝わってくる。


「山囃子は何か言っているのか」


「この黒い塊の妖は、名前を忘れているそうです。このまま名前を思い出せなかったら、消えるらしいですよ」


「妖でも何でも噂話なら五兵衛ごへえさんが詳しいから聞きに行くか。何か手掛かりくれえは掴めるだろう」


 妖を救うつもりなのか、さっと丹弥が立ち上がった。


「あの、救っても良いのでしょうか」


「俺は、救っても救わなくても後悔するなら、救って後悔するほうが、ましだと考える人間だ。お前はどうする」


 どうすると問い掛けておいて、丹弥はもう外に出ようとしていた。主膳を待つ気のない丹弥に続いて、主膳も慌てて外に出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る