第3話
月曜日。理仁は三限目の授業を終え、職員室へ向かう廊下を歩いていた。
窓の外は秋晴れの空が広がり、校庭の木々が紅葉し始めている。肌寒さは感じるものの、まだ暖房が必要なほどではない。
今日の授業は、正直あまり手応えがなかった。新しい単元の基礎を説明したのだが、生徒たちの反応が鈍い。理仁としてはわかりやすく説明したつもりなのに、なぜか伝わっていない気がする。
まあ、復習すれば理解できるだろう。そう思いながら、理仁は廊下を歩いていた。
廊下を曲がったところで、教室から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「――So, what do you think about this passage?」
匠の声だ。
理仁は足を止め、少しだけ教室の中を覗いた。
二年生の英語の授業。匠は教壇に立ち、生徒たちに問いかけている。その姿は、いつも理仁の部屋で料理を作っている時とは違い、どこか凛としていた。
「Tanaka, please answer.」
指名された生徒が立ち上がり、英語で答え始める。少したどたどしい発音だが、匠は辛抱強く聞いている。
「Good try. でも、ここの部分はどう解釈する? この主人公の気持ちを考えてみよう」
匠の問いかけに、生徒は少し考え込む。すると、匠は優しく微笑んで、ヒントを与えた。
「君が同じ立場だったら、どう感じるかな?」
その言葉に、生徒の表情がパッと明るくなった。
「あ、そうか! じゃあ、ここは……」
生徒が自分の言葉で答え始めると、匠は満足そうに頷いた。
「そうそう、その通り。よく気づいたね」
「匠先生の教え方がいいおかげです!」
生徒の調子のいい返答に、教室の中から笑い声が漏れてくる。
理仁は、その様子を見て思わず見入ってしまった。
匠は生徒が間違えても決して否定せず、むしろそこから正解へと導いている。生徒たちも、間違いを恐れずに発言できる雰囲気だ。
自分も教えたことがある生徒たちなのに、まるで反応が違うことにも驚いてしまう。
まあ、英語と数学では教え方も違うだろう。数学は論理的に理解すればいいのだから、そこまで手取り足取り教える必要はないはずだ。
理仁はそう自分に言い聞かせてその場を離れようとすると、後ろから声をかけられた。
「宗家先生、どうかされましたか?」
あまりにも長く足を止めていただろうか。理仁は勝手に教室を覗いていたことを少し恥ずかしく思いながらも振り返る。
声をかけてきたのは、音楽教師の宮本だった。
「いえ。授業の様子を少し見ていただけです」
「ああ、九重先生の英語の授業ですか。あの先生、本当に上手ですよね。生徒たちも楽しそうだし」
宮本もチラリとクラスを一瞥すると、納得したようにうなずいた。
理仁はそれには素直に同意する。
「私も一度見学させてもらったことがあるんですけど、引き込まれました。ああいう授業ができるといいですよね」
少しの尊敬と、憧れのようなまなざしの宮本を見ていると、理仁は自分の授業が間違っていると言われているような気がして、思わずそっけない態度になってしまう。
「まあ、教科によって違いますから」
「そうですね。では、また」
理仁の気持ちが伝わったのか、宮本はそれ以上話し込むことはせず、職員室の方へ歩いて行った。
少し感じが悪かったかもしれない。
そう思うものの、あれ以上の発言が思いつけなかった。
理仁はもう一度、教室の中を覗いた。
匠は黒板に何かを書きながら、生徒たちに説明している。その横顔は真剣で、でもどこか楽しそうだった。
「――このシーン、君たちも経験あるんじゃないかな? 友達との別れとか、家族との時間とか」
匠の言葉に、生徒たちが頷いている。
自分の経験と結びつけて考えさせているのか。理仁はそう思った。
数学でもそれが可能か考えてみるが、一瞬でそれは打ち消される。
数学にそんなことは必要ないだろう。公式を覚えて、問題を解く。それだけだ。
余計なことを考えず、シンプルなやり方の方が効率がいい。
そんなことを考えているうちに、匠の授業は終わり、教室から出てくるところに鉢合わせてしまう。
「――あ」
なぜこんなところにいるのか、授業を見ていたのか、そんなことを尋ねられたらどうこたえるべきか。そんなことが即座に頭をよぎるが、匠はいつもの様子と変わらず微笑んでくれる。
「どうしたんだい、こんなところで」
「あ、いえ。ちょっと通りかかっただけです」
平静を装い、理仁は答えた。
授業を見ていたなんて言うのは恥ずかしい。もしも感想なんて聞かれたら、どう答えていいかもわからない。
理仁は焦る気持ちを隠すように、職員室に向かおうとする。
「君も戻るのかい? もし次の授業まで少し時間があるなら、職員室でお茶でもしようか」
「……いいですね」
部屋に行き来するだけではなく、時間が合う時には、職員室で話すことも増えていた二人は、並んで廊下を歩き始める。
「今週末も、部屋に来る?」
ごく自然に匠が尋ねると、理仁は即答してしまう。
「はい、もちろん」
週末の料理教室、もとい匠の料理を楽しむ会は、理仁にとって楽しみな時間になっていた。
「じゃあ、今度は何を作ろうか。リクエストはある?」
「えっと……じゃあ、イタリアンがいいです」
「イタリアンね。いいよ」
匠はすでにその献立を考えだしたのか、冷蔵庫の中身などを思い出しているようだった。
職員室に着くと、二人はそれぞれの席に座った。
窓の外では、紅葉した葉が風に舞っている。
理仁は自分の机で教材を置きながら、ふと匠の方を見た。
匠はデスクの引き出しから、買い置きをしている紅茶を選んでいる。その様子は週末に一緒にいる時の匠と変わらない。
授業では、あんなにも生徒たちを引き込んでいた。自分との違いは何だろう。
ふと浮かんだ疑問を、理仁は頭を振ってかき消していく。
まずは休憩をとろう。
理仁は、まだ気づいていない。
匠の授業から学べることが、たくさんあるということに。
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