第2話
「包丁はこう持つんだ。ほら、猫の手にして」
週末の夕方。匠の部屋は教員の独身寮の中でも広い方で、キッチンも使いやすく整っていた。理仁の部屋と広さ以外の基本的なスペックは変わらないはずなのに、ずいぶんと印象が違う。けれど、それを今ゆっくり見ている余裕は理仁にはなかった。
「なんで玉ねぎってこんなに目にしみるんですか」
「慣れだよ。ほら、もっと細かくね」
理仁は不器用に玉ねぎを切りながら、涙目になる。
一番簡単な料理を教えてほしいと頼んだら、カレーを作ることになった。本格的なカレーとなればスパイスからこだわるようだが、ほとんど料理を作ったことのない理仁には難しいだろうと市販のカレールウが用意されている。
しかし、理仁は野菜を切るだけでもおっかなびっくり。さぞかし匠は呆れる事だろうと思ったのに、面倒見よく教えてくれた。
「うんうん、いい感じになってきたね。その調子だよ」
隣でかるく付け合わせのサラダを作る匠の手は、理仁に指示を出しながらもよどみなく動いている。キッチンは普段からよく使われているのだろう。道具も整理されていて、必要なものがすぐに出てくる。
理仁は野菜を刻み終え、ようやく煮込む段階に来て、ゆっくりと部屋を見回す余裕ができる。
匠は、料理だけでなく、生活全般において理仁よりはるかに洗練されていた。
部屋には重厚な家具が配置され、本棚にはさまざまな言語の本が整然と並んでいる。やや古い内装とあいまって、どこかヨーロッパの一室のような雰囲気があった。自分の片づけきれていない部屋とは大違いだと思う。
「九重先生は、この環境に不満はないんですか?」
カレーの鍋を混ぜながら、理仁は尋ねた。鍋からは良い香りが立ち上ってくる。
「特にないかな。静かだし、生徒も真面目だし、給料も悪くない」
「でも、都会に出るのに車で一時間ですよ。娯楽なんて何もない」
ネットはつながるので大抵の買い物や、映画やゲームも問題なくできる。家族で暮らす職員たちや、週末に学生たちが過ごせるように、学園のすぐ近くには最低限の商店や飲食店もあるが、物足りない。やっぱり場所の刺激というのは大事だと思うのだ。
理仁は納得いかない顔でそう言うと、匠は優しく笑う。
「君は不満なのかい?」
「僕は……まあ、こうなるつもりじゃなかったので」
理仁は少し拗ねたように答えた。本当はもっと適当に働きたかった。仕事が終わったらおしゃれなバーやカフェにでも行き、そのまま夜まで遊んで帰る。そんな想像をしていたのに、気づけばこんな娯楽のない母校の教壇に立っている。
「じゃ、気分転換に付き合うよ」
「それは……」
「料理を作るんじゃなくて、飲むだけでもいいよ」
理仁の心配をわかっているかのように、匠が微笑む。
「でも……」
「君の言う通り、ここの生活はいささか暇だからね。付き合ってくれるなら俺も助かる」
「……そういうことなら」
匠は出来上がったカレーを皿に盛り、ペールエールを二つのグラスに注いだ。少しホップの苦みと香りがあるものが、カレーのスパイス感と調和し合うのだという。
「ま、これは俺のおすすめだけど。ワインが良ければそれでもいいよ」
キッチンの片隅には、小さなワインセラーも置いてあった。きっとこの様子なら中にはそれなりに知られたワインも入っているのだろう。ほんの少し興味は惹かれたが、すでに冷えたエールがグラスには注がれている。
「ワインも好きですけど、せっかくだからまずはエールをいただきます」
いくら多少目立つ生徒だったとはいえ、育ちというものは立ち居振る舞いに自然と滲み出るものだ。理仁は優雅な手つきでグラスを持ち上げた。
「それじゃ、いただきます」
「ああ、乾杯」
向かい側に座る匠のグラスに軽く当て、よく冷えたエールを一口飲む。本来なら、ここでつまみでも食べるところなのだろうが、今日は料理を作ることがメインだ。
「冷めないうちに食べようか」
匠のその一言に、理仁はうなずいた。
市販のルウを使ったカレーだ、おかしな味になることはないだろう。
そうは思いつつも、理仁は何とも言えない気持ちでスプーンを口に運ぶ。
「あ、おいしい……」
初めて自分で作ったカレーは驚くほど美味しかった。
そして、この夜から、二人の距離は少しずつ変わろうとしていた。
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