第4話
週末の夜は、理仁が匠の部屋を訪ねるのが少しずつ習慣化していく。この学校には、同年代の教師や、職員はそれなりにいて、独身で、暇を持て余しているであろう同僚も何人か思い浮かんだ。
けれど、彼らを誘おうとは思わなかった。なんとなく気が合わないような気もしたし、この二人の時間が悪くないように思えたから。
「今日の三年、ひどかったですよ」
理仁はワイングラスを傾けながら愚痴った。
匠が作ったペッカリーノ・ロマーノをたっぷり使ったサラダや、新鮮な白身魚のカルパッチョ等が、テーブルに並んでいる。
「どうしたんだい?」
「微分の応用問題、誰も解けないんです。先週教えたばかりなのに」
「それは君の教え方に問題があるんじゃないかな」
匠は穏やかだが、自分の意見はしっかりと口にした。
「そんなことないです! ちゃんと説明しましたよ。それに基礎をしっかり理解していれば、応用だってすぐできるはずです」
「じゃあ基礎の知識が伝わってないってことじゃないか。それは教え方の問題だよ」
理仁はむっとした。だが、匠の言葉には一理あることもわかっている。
前回の授業で、生徒たちの反応が悪かった自覚はあったのだ。だが、自分のやり方は間違っていない、むしろ理解できないなら聞きに来るなり、復習をすればいいと思っていた。
「君は、学生時代どんなふうに教えられたんだい?」
否定するわけでもなく、ただ一緒に解決策を探ろうかというように、匠が優しく聞いてくる。理仁は学生時代を思い出すが、授業の風景は浮かんでこなかった。
「記憶に……ないですね」
「それは、数学だけ?」
「いや、座学全般……」
理仁はそもそも頭が悪いわけではなく、むしろ賢い部類だった。要領がよく、ある程度学べば大体のことが理解できてしまった。
なので、授業に必死になった記憶も、何かを頑張ったという実感もなかった。
「君の恩師は数学の先生ではなかったっけ?」
ここに就職する理由となった恩師は、確かに数学の教師ではあった。
だが、自分を数学の教職に導いてくれたから恩師と呼んでいるわけではない。ある時のことが理由でそう呼んでいるだけだ。
「それはそうですけど……」
理仁が口ごもると、匠はそれ以上踏み込まない。
少しほっとしつつも、理仁はちょっとした意趣返しをした。
「九重先生はどうなんですか。英語、ちゃんと教えられてるんですか」
自分ばかりが責められるのはごめんだとも思って軽く口にした言葉だった。
「ああ、もちろんさ。僕の授業は生徒たちにも好評だよ」
余裕のある回答に、少しムッとしてしまう。
「自信満々ですね」
「事実だからね」
理仁の子供っぽい態度にも気づいているのに、それを受け入れてくれる匠。
こんなやり取りが、理仁には心地よかった。遠慮なく愚痴を言って、それを受け入れてくれる人がいる。こういった関係は、理仁にとっては初めてで――。
つまらない過去のことを思い出しそうになり、理仁はワインを一口飲んだ。先ほどまでとは違い、苦く感じるのはなぜだろうか。
やるせない顔をしていたのか、匠がふと思いついたかのように口を開いた。
「ところで、君はいつまで俺のことを九重先生って呼ぶの?」
突然の匠の問いに、理仁は戸惑う。職場では「九重先生」「宗家先生」と呼ぶのが常だった。
「いつまでっていうのは……?」
「なんというか、向こうの生活が長かったからかな。名字で呼ばれるのが慣れないんだよ。距離も感じる気がするし」
少し困ったような顔で言われて、ああ、と理仁は納得した。外国では割と気軽にファーストネームで呼び合ったりもするので、匠もその方が気楽なのだろう。そういえば、生徒にも匠先生と呼ばれていたのを思い出す。
「わかりましたよ。匠先生」
生徒と同様に口にしてみると、匠は噴き出した。理仁は何か間違っただろうかと不思議に思う。
「君に言われるとは思わなかった」
「あれ? 生徒にそう呼ばれてましたよね」
素直にそう問うと、ワインをつぎ足しながら匠は頷いた。
「まあそうなんだけど。君は生徒じゃないから」
「生徒ですよ。だって、匠先生は料理の先生じゃないですか」
最初ほどしっかりメニューを決めて教えてもらっているわけではないが、それでも一緒にキッチン立って手伝ったりはする。その時、的確な指示や指導をくれるのは匠だ。そう説明しても、匠は納得いかなそうな顔をする。
「じゃあ、俺も理仁先生って呼ぶかな」
「え、それはやめてください。何も教えてないですし!」
「じゃあ何て呼べば? 宗家くん?」
「理仁、理仁でいいですよ」
慌ててそう言うと、君だけ先生がつかないのはずるいと匠に笑われながら言われてしまう。それでも、どうしても年上の彼から先生とプライベートの場で呼ばれるのはこそばゆい。
結局、何度かの攻防戦の末、お互いを「匠先生」「理仁」と呼ぶことで落ち着いた。
とはいえ、匠は理仁のことを「君」と呼ぶことが多く、この部屋の中で話す分には名前を呼ばれることはほぼないだろう。職場では、変わらず名字で呼び合うことも念のため確認はした。
「じゃ、匠先生、これからもよろしくお願いします」
「わかったよ、理仁」
再びワインとついで、軽くグラスを合わせる。そうして口にしたワインは先ほどとは違い、またほのかに甘い芳醇な香りがした。
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