第8話 接触

第八章 接触


セディック・クロウは、古びた文書の山に身を沈めていた。彼の隠れ家──廃教会の地下室──には、数百冊にも及ぶ書物が所狭しと積み上げられている。聖書、異端書、古代の魔術書、そして失われた民間伝承を記した手記まで、あらゆる紙片が雑然と詰まっていた。


ゆらめく蝋燭の灯が、埃の舞う空気の中でぼんやりと揺れる。セディックは羊皮紙の束を一枚手に取り、細めた目で文字を追った。褪せた文字はところどころ破れ、読みにくい。だが、その内容は彼の興味を強く引きつけて離さなかった。


「……願いを叶える仕立て屋、か」


その噂話は百年以上前から記録されていた。ロンドンのどこかに、魔術を扱う仕立て屋がいる。そこが作る服には精霊の息吹が宿り、着た者の願いを叶える──。だが、その店へ辿り着く道筋は厳重に隠され、選ばれし者にしか見えないという。


セディックは羊皮紙を脇に置き、別の文書を手に取った。五十年前の古びた日記。ある貴族が記したものだ。


「私はついに結界の道順を知った。しかし、それは恐るべきものだった。願いは叶うが、それがどのような形を取るかは分からない。魔女は言った──『真の願いが叶う』と。真の願い……それは、自分でも気づかぬほど深く沈んだ、心の奥底にある想いだという」


セディックは低く笑った。魔女の戯言だ。しかし──利用価値はある。


彼の目的はただ一つ。

**女王を殺すこと。**


異端を庇う、この国最大の“異端者”──アウレリア三世を。


だが直接的な暗殺は難しい。ローザリン・アシュフォードという、厄介極まりない女騎士が常に女王を守っている。これまで何度も暗殺を試みたが、ことごとく阻まれてきた。


ならば、別の手段を使うしかない。


──魔術だ。


皮肉な話だった。異端を滅ぼすために、異端の力を借りることになるとは。しかしセディックに迷いはない。目的のためなら手段は問わない。そして事が済めば、仕立て屋ごと葬ればいい。


セディックは三日三晩、ほとんど眠らずに文献を漁り続けた。食事も最低限。すべては情報のため。


そしてついに──見つけた。


古い民間伝承の本。その一節に、結界に入るための道順が暗号めいて記されていた。犯罪組織で培った解読技術を総動員して、セディックはそれを読み解いてみせた。


「時計台の見える場所から北に五十歩、南に三歩。鉄の杖を三度鳴らし、最初に見える路地へ入る。突き当たりの張り紙には『ポプリの好みは』と書かれている。答えは──『ぶどうの種とローズマリー。不機嫌には温めたミルクの香り』」


セディックの口元が、薄く、満足げに持ち上がった。

これで仕立て屋に辿り着ける。


その夜、彼はひとり街へ出た。黒いマントを纏い、フードで顔を覆い隠す。誰にも気づかれぬように。


時計台の前へ来たとき、ちょうど鐘が十時を打った。霧に満ちた夜に、重く低い音が響き渡る。


セディックは北へ向き、歩き始めた。


一歩、二歩、三歩──

その足取りには迷いがない。

十歩、二十歩、三十歩──

通りは静まり返り、遠くで酔っ払いの笑い声がかすかに揺れる。

四十歩──そして五十歩。


セディックはぴたりと止まった。踵を返し、南へ三歩戻る。


懐から鉄の杖──実際には短剣だが、鉄には違いない──を取り出し、地面に打ちつけた。


カン。

カン。

カン。


澄んだ音が霧の中へ吸いこまれていく。


静寂。


しかし次の瞬間──視界の端に何かが揺らめいた。


そこに、路地があった。


先ほどまでは存在しなかったはずの、暗く細い路地が。


セディックは一切動じることなく、路地へ足を踏み入れた。幼い頃から暗闇は彼の友だった。犯罪組織で生きてきた日々、暗闇は常に隣にあった。


路地は狭く、湿った壁が両脇に迫る。セディックは指先で壁をなぞりながら進む。冷たく粗い石の感触が、現実を確かめるように伝わってくる。


やがて路地は突き当たり、そこには一枚の張り紙が貼られていた。


「ポプリの好みは」


セディックは微動だにせず、答えを口にした。


「ぶどうの種と、ローズマリー。不機嫌には温めたミルクの香り」


──瞬間、世界がゆらりと歪んだ。

世界が歪んだようなめまいが、セディックを包み込んだ。視界が揺らぎ、足元がふっと沈むような感覚。しかし、彼は怯まなかった。幼少期から、もっと壮絶な痛みも混乱も経験してきた。これしきの幻術に心を乱される男ではない。


歪みはすぐおさまり、まるで霧が晴れるように視界が正された。


目の前には、まっすぐ伸びる小道が現れていた。


セディックは一歩踏み出す。歩みを進めるごとに、周囲の景色が徐々に変わっていく。古い石造りだったはずの壁は滑らかな煉瓦へと変わり、足元のごつごつした石畳も、磨かれた敷石へと変わっていった。


──結界の内側。


そう理解した瞬間、小道の先にその扉は現れた。


こぢんまりとしているが、手入れの行き届いた木製の扉。濃い茶色の木目は美しく、真鍮のノブには精巧な装飾が施されている。


扉の上に掲げられた小さな看板には、ただ一言。


「仕立て屋」


セディックはゆっくりとノブに手を添えた。そして、力をこめずに回す。

カラン……という柔らかな音とともに、扉は開いた。


温かな光が彼を迎えた。蝋燭の明かりがやさしく揺れ、空気には木材と染料、そして言葉にできない神秘的な香りが漂っていた。


工房の中は驚くほど広く、天井も高い。壁際には色とりどりの布地が整然と積まれている。作業台には、針や糸、裁縫道具が規則正しく並び、すべてが清潔で無駄がない。


その美しさのなかで、セディックの視線をさらったものがあった。


──窓辺に立つひとりの影。


月光を背に、その人物はゆっくりとこちらに振り向いた。


セディックは、思わず息を呑んだ。


柔らかな栗色の髪。白い肌。繊細な指。

そして、静かな湖面を思わせる深い瞳。


若い男だった。


だが、その美しさは人を惑わせる種類のものではない。

派手でも、艶めかしくもなく、ただ静謐──その一語に尽きた。


「いらっしゃいませ」


男は柔らかく微笑んだ。


「お待ちしておりました」


「……待っていた、だと?」


セディックは警戒を隠さず冷ややかに問う。


男は頷き、静かに答えた。


「ええ。あなたの願いは、精霊たちが教えてくれました」


「精霊、ね……魔女の戯言か」


セディックは鼻で笑う。


しかし男は気にした様子もなく、落ち着いた声で言った。


「信じる必要はありません。ただ──あなたの願いを、お聞かせください」


セディックは工房の中を一瞥する。罠の気配はない。ただ美しく整えられた工房。精霊とやらの気配も見えない。


「お前が噂の仕立て屋か?」


男は作業台の前へ歩み出て、穏やかな声で名乗った。


「はい。私はアーサー・グレイと申します」


「アーサー・グレイ……」

セディックはその名を噛みしめるように繰り返した。


「願いを叶える服を作ると聞いた」


「その通りです」


「どんな願いでもか?」


「ええ。ただし、叶うのは──真の願いです」


アーサーの言葉に、セディックは冷笑を漏らす。


「曖昧な言い回しだな」


「人は時に、自分の本当の願いを知りません。口では一つのことを言いながら、心の奥では全く違う願いを抱えているものです。私の作る服は、その心の底に沈んだ願いを叶えます」


「なるほど……ならば、言おう」


セディックは一歩、前へ。

その声音は冷たく、揺るぎない。


「女王を殺す服を作れ」


工房に、しんとした静寂が落ちた。


アーサーは驚きも怒りも見せず、ただ静かにセディックを見つめ続ける。

やがて、淡々と確認するように口を開いた。


「女王陛下……アウレリア三世を、ですか」


「ああ。異端を庇う女王だ。あの女をこの世から消す」


「……承知しました」


その返答は、あまりにもあっさりしていた。


セディックは眉をひそめる。


「いいのか? 女王の暗殺に加担するんだぞ」


「私は仕立て屋です」

アーサーは静かに答えた。

「依頼を受け、服を作り、対価をいただく。それだけです」


「倫理はどうした?」


「願いに善悪はありません。ただ──それが依頼者の真実であるだけです」


セディックはこの男の冷静さに奇妙な親近感を覚えた。感情を排し、ただ目的だけを見る姿。どこか、自分と似ている。


「で、どんな服を作るつもりだ?」


アーサーは深緑の布地を手に取った。


「これは森の精霊を宿した布です。この布で、特別な服を作ります」


「どんな服だ?」


「──子ども用の服です」


セディックは思わず眉を寄せた。


「子ども用だと?」


「ええ。緑の小人の服を作ります。それを着た子どもが女王の前に現れれば、願いは叶います」


「子どもに女王を殺させるのか」


「いいえ」

アーサーは首を横に振った。

「子どもは何もしません。ただ、その服を着たまま女王の前に立つだけです」


「それだけで女王が死ぬというのか?」


「はい」

アーサーの声音には確信があった。

「この服には“死を呼ぶ力”があります。ただし──着た者の真の願いが『解放されたい』ならば」


その言葉に、セディックはすぐ理解した。


子どもを洗脳し、死を望むよう仕向ける。

その子に服を着せ、女王の前に立たせる。

子どもが“死”を望むなら、女王もその願いに引きずり込まれる。


「……巧妙だ」


セディックは皮肉げに笑った。


「で、いつできる」


「一週間ほどいただければ」


アーサーは落ち着いた声で答えた。


「精霊たちと対話し、布を選び、慎重に縫い上げる必要があります」


「分かった」


セディックは懐から革袋を取り出した。


「対価は金貨でいいか」


「金貨百枚です」


セディックは躊躇なく袋を渡す。

アーサーは数えることなく、引き出しに滑り込ませた。


「一週間後にまた来る」


「お待ちしております」


セディックが扉に手をかけたその時、背後からアーサーの静かな声が響いた。


「──セディック・クロウ様」


セディックはゆっくりと振り返る。


「……何だ」


アーサーは、どこまでも澄んだ瞳で彼を見つめた。


「あなたの“真の願い”は……女王を殺すことではありませんね」


空気が、一瞬、凍りついた。


「……何を言っている」


セディックの声は低く、怒りとも困惑ともつかない震えを帯びていた。


アーサーは微笑んだまま、決して揺れない声で続けた。


「あなたの心は、救済を求めています」


セディックの喉がかすかに震えた。

すぐに冷笑でその揺らぎを押しつぶす。


「救済だと? 笑わせるな。俺はただ──神の御心を実行しているだけだ」


アーサーは否定しなかった。ただ柔らかく頷いた。


「……そうですか。では、一週間後に」


セディックは何も返さず、扉を開けて外へ出た。


扉が閉まる。

彼は霧の中に佇み、深く息をつく。


救済──。


その言葉が胸の奥に刺さって離れない。


「……馬鹿な」


彼は自分に言い聞かせるように呟いた。


「俺が……救済など求めているはずがない」


だが、心のどこか深いところで、声が囁いた。


──嘘だ。


──お前はずっと救いを求めている。


──この苦しみから、解放されたいと。


「黙れ……!」


セディックは首を振り、その声ごと闇を振り払おうとするように、夜の街へ消えていった。


***


工房の中では、アーサーが窓辺に立ち、遠ざかるセディックの背中を静かに見送っていた。


その背後で、裏口の扉が軋む。

現れたのは、アーサーの師であり、友でもある女性──エルドラだった。


「……聞いていたのか」


アーサーは視線を外さずに訊ねる。


エルドラは軽く頷いた。


「ああ。で、お前……本当にあの男のために服を作るつもりか?」


アーサーは振り返り、穏やかな表情で答える。


「ええ」


エルドラは、深いため息をついた。


「女王が死ぬぞ」


「それは──セディックの願いです。そして……おそらく女王にも、別の願いがあります」


エルドラは眉を寄せた。


「お前には、すべてが見えているのか?」


アーサーはゆっくりと首を振る。


「いいえ。未来は見えません。ただ……願いが見えるだけです」


エルドラはしばらく黙り込み、アーサーをじっと見つめた。


やがて、押し殺したような声で言う。


「……お前はいつか、この選択を後悔する日が来るかもしれないぞ」


アーサーは微笑んだ。


「かもしれません。でも──僕は仕立て屋です。願いを聞き、服を作る。それが僕の役目です」


エルドラは何も言えず、ただ弟子の背中を見つめていた。


アーサーは作業台へ戻り、深緑の布地を広げる。


彼は針を手に取った。

その瞬間、どこからともなく精霊たちが集まってくる。

空気がふるふると震え、光の粒がアーサーの周囲に舞い始めた。


「──始めよう」


静かな呟きとともに、針が布を縫い始めた。


一針、また一針。

緑の小人の服が、少しずつ形を成していく。


それは死を呼ぶ服。

だが同時に、救済を与える服でもあった。


それが誰の救済となるのか──

まだ誰にも分からない。


ただ確かなのは、願いは必ず叶うということ。


アーサーは針を進め続ける。


***


外では月が雲に隠れ、夜はよりいっそう濃く深まっていた。

静けさの中で、運命の歯車がゆっくりと、しかし確実に回り始めていた。


女王の死。

騎士の決意。

狂信者の救済。


すべてが絡まり、ひとつの結末へと向かって進んでいく。


その行き着く先を知るのは──精霊たちだけ。


仕立て屋は、ただ静かに針を動かし続けた。


人の願いがいくつも重なり、絡まり合い、ほどけない糸束となっていく世界で。


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