第7話 最初の注文
第七章 最初の注文
マーガレット・ヴァンダービルトは、自室の鏡の前に静かに立っていた。深紅のドレスが蝋燭の光を受け、陰影を含んだ妖しい輝きを放っている。ベルベットの滑らかさは、触れるたびに彼女の肌にやさしく馴染んだ。
夜会の開始まで、あと一時間。
鏡の中の自分を見つめる。五十歳――。首元のしわ、手首に刻まれた年齢の痕、目尻の深い皺。どれほど念入りに化粧を施しても隠しきれない老いの影が、確かにそこに刻まれていた。
けれど、このドレスさえ身につければ、何もかも変わるはずだった。
マーガレットは深紅の布に腕を通し、ゆっくりと体を包み込む感触を味わった。どう仕立てたのかと思うほど完璧に身体に沿い、まるで彼女のためだけに生まれてきた衣装のようだった。
ウエストラインは、かつての自分の美しい曲線を思い出させてくれる。スカートの広がりは、優雅さそのもの。そして、襟元を飾る散りゆく薔薇の刺繍が、蝋燭の灯りを受けてかすかに瞬いていた。
再び、鏡に目を向ける。
そこに映るのは――老いた貴婦人ではない。若き日の自分の面影が、たしかに息を吹き返していた。いや、少なくとも、そう見えた。
「これで……」マーガレットは小さく呟く。「あの人は、また私を見てくれる」
彼女は宝石箱からルビーの首飾りを取り出した。結婚十周年の時、夫が贈ってくれたもの。あの頃、彼の瞳にはまだ温かい光が宿っていた。
首飾りを身につけ、長い手袋をはめる。老いの刻まれた手首が隠れるだけで、少し息が楽になるような気がした。
すべての準備が整った。
マーガレットは深く息を吸い、部屋を出た。
廊下を歩くと、すれ違う使用人たちは驚いたように目を見開いた。しかし誰も口を開かなかった。マーガレットはその視線を気に留めず、まっすぐに階段を下りていく。
玄関ホールでは、夫が待っていた。
ロバート・ヴァンダービルト。五十五歳になった今も、背筋が伸びた威厳ある紳士だ。銀に光る髪は丹念に整えられ、仕立てのよい燕尾服が彼の存在感を一層際立たせている。
だが、彼の隣には――若い女が寄り添っていた。
エミリア。二十代半ば、華やかな美しさを持つ女性。夫の愛人であることは、言うまでもない事実だった。
マーガレットの胸にひりつく痛みが走る。それでも表情は崩さない。今夜こそ、夫を取り戻す。奇跡のようなこのドレスが、必ずその手助けをしてくれると信じて。
「お待たせしました」マーガレットは階段を降りながら言った。
ロバートが顔を上げた――
彼の瞳が、かすかに見開かれた。驚き、困惑、あるいは別の何か。
マーガレットの胸は高鳴った。気づいたのだ。自分の変化に。このドレスの力が、目に見える形で現れたのだ。
「マーガレット……そのドレスは」
「新しく仕立てたものなのですわ。どうかしら?」マーガレットは微笑んだ。
夫は返答しない。ただじっと彼女を見ている。その視線には、複雑な感情が渦巻いていた。
エミリアがそっと夫の腕に手を添えた。その仕草はまるで所有を示すように。
「素敵なドレスですわ、奥様」エミリアは口元だけの笑みを浮かべた。「とても……お似合いですこと」
その言葉の裏に隠された棘など、今のマーガレットにはどうでもよかった。
今夜、すべてが変わる――そう信じていた。
馬車が玄関前に到着し、三人は乗り込んだ。夫とエミリアは並んで座り、マーガレットは向かい側に腰を下ろした。
馬車が走り出す。蹄が石畳を叩く音が、彼女の高揚する鼓動と響き合う。
夜会の会場はデヴォンシャー侯爵の邸宅。ロンドンでも名の知られた豪奢な館だ。次々に貴族たちの馬車が到着し、煌びやかな夜が幕を開けようとしていた。
馬車を降りても、夫とエミリアは先に歩いて行ってしまった。だが、構わない。会場の中で彼はきっと、自分の元へ戻ってくる――ドレスがそうさせる。
大広間に足を踏み入れた瞬間、マーガレットは異変に気づいた。
人々の視線が自分に吸い寄せられている。
けれど、その眼差しに宿っていたのは――賞賛ではなかった。
驚き、困惑、そして……哀れみ。
「ヴァンダービルト夫人じゃないかしら」
「まあ、あのドレス……若作りにしか見えないわ」
若作り。
その一言が、胸の奥深くに突き刺さった。
マーガレットは会場を見渡す。視線は確かに自分に向けられている。だが、誰一人として歩み寄ってはこない。まるで、奇妙なものを見るような目だった。
「お気の毒に……夫に捨てられて、あんなドレスに縋っているのね」
震えが走る。違う。これは魔法のドレス。彼女を美しくするはずのもの。
マーガレットは近くの壁に掛けられた大きな鏡に向かった。そこに映った自分を見た瞬間――息を呑む。
鏡に立つのは、深紅のドレスに身を包んだ老婆だった。
ドレスはたしかに美しい。しかし、その若々しさがかえって老いを露わにし、過剰な対比が彼女の年齢を過酷なほど際立たせていた。
散りゆく薔薇の刺繍が、まるで自らの命の象徴のように見えた。
「……違うわ」マーガレットは呟いた。
夫を探さなければ。
夫に会えば、この不吉な違和感はきっと消える。
そして、見つけた。
夫はエミリアと楽しげに踊っていた。幸せそうに、軽やかに。まるで自分など初めから存在しなかったかのように。
マーガレットはゆっくりと二人へ歩み寄った。周囲の人々が、哀れむような目で彼女から距離を取る。
「ロバート」彼女は名を呼んだ。
夫が振り返る。その瞳には、戸惑いの色。
「マーガレット……どうしたんだ」
「踊りましょう」マーガレットは手を差し出した。「私と、一曲だけでも」
夫は苦しげに目を伏せた。周囲の視線が二人を包み込んでいる。
「すまない、いまは……エミリアと踊っているんだ」
「お願い……一度だけでいいの」
夫は小さく首を振った。
「……すまない。遠慮してほしい」
その瞬間、マーガレットの心は砕け散った。
マーガレットは立ち尽くし、夫が再びエミリアの手を取り、楽しげに踊り始めるのをただ見ているしかなかった。人々は気まずそうに視線をそらし、彼女から距離を置いた。
広間の端へ歩き、壁際の椅子に腰を下ろす。目の前では音楽が鳴り、人々が笑い、舞い、華やかな夜が続いていた。それなのに、マーガレットには何ひとつ届かない。
ただ、胸の奥底から、ひとつの願いが浮かび上がってくる。
――この苦しみから、解放されたい。
夫を取り戻したい。そう思っていたはずだった。
だが、本心は違っていた。ただ、耐え続けた年月の痛みから逃れたかっただけなのだ。
そして、その願いを、ドレスは叶える。
突然、胸が締めつけられた。息が吸えない。指先が冷え、身体の感覚が遠のいていく。
「──あ……」
小さな声を漏らし、胸元を押さえる。しかし声はうまく出ない。鼓動が乱れ、鋭い痛みが走る。
助けを呼ぼうとするが、喉が動かない。
マーガレットは椅子から滑り落ち、床へ崩れ落ちた。視界がぼやけ、人々のざわめきが遠くで反響するように聞こえる。
「ヴァンダービルト夫人が倒れたぞ!」
誰かの叫び声。駆け寄る足音。しかし、すべてが靄の彼方のようだった。
視界の端に、夫の顔が現れる。驚愕と恐怖が混ざった表情で、彼は自分を見下ろしている。
「マーガレット! しっかりしろ!」
彼の声に、初めて温度があった。焦り、恐怖、そして――罪悪感。
その声を聞いた瞬間、マーガレットは微笑んだ。
最期に、夫が自分を見てくれた。
自分の名を呼んでくれた。
それだけで、充分だった。
「……ありがとう」
声にならない、小さな呟きが心の中でこぼれる。
痛みが消えていく。苦しみが遠のく。世界が薄れていく。
マーガレット・ヴァンダービルトは、静かな微笑みを浮かべたまま息を引き取った。
その顔には、長年の苦悩の影はなく、ただ深い安らぎだけが残っていた。
広間は騒然となり、医師が呼ばれ、人々が右往左往する。だがすべては遅かった。
ロバートは妻の亡骸を抱きしめ、抑えきれぬ悲しみに声を上げて泣いた。
エミリアは、その光景を呆然と見つめるしかなかった。
深紅のドレスは変わらず美しく、散りゆく薔薇の刺繍は蝋燭の光を浴びて揺らめき、まるで彼女の最期を祝福しているかのようだった。
翌日、マーガレットの訃報はロンドン中に広まった。
公式の死因は心臓発作とされた。
葬儀は盛大に執り行われ、多くの貴族たちが彼女の死を悼んだ。しかし、誰ひとり気づかなかった。彼女が本当に望んでいたのが何だったのかを。
葬儀の後、ロバートはエミリアとの関係を断った。
そして残りの人生を慈善事業に捧げ、まるで亡き妻への贖罪を続けるかのように日々を過ごした。
だが、マーガレット自身はもうこの世にはいない。
彼女の魂は苦しみから解放され、静かな安らぎの場所へ旅立っていた。
その頃――
仕立て屋の工房では、アーサー・グレイが窓辺に立ち、街の方へ視線を向けていた。
軽やかに漂う精霊たちが彼の周りを舞う。マーガレットの魂が解放されたことを、彼らは静かに告げていた。
「……安らかに」
アーサーは小さく呟いた。
すると、エルドラが音もなく工房に現れ、孔雀の羽根の扇子を片手に、いつもと変わらぬ優雅な佇まいでアーサーに近づいた。
「また、お前の作った服がひとつ命を奪ったわね」
その言葉には非難めいた響きはなく、ただ事実を述べる静けさがあった。
「彼女の願いを叶えただけです」アーサーはゆっくりと振り返る。「彼女は……苦しみから解放されることを望んでいたのです」
「死によって、か?」
「はい。彼女の心が選んだ道です。僕はその手助けをしただけ」
エルドラはため息をつき、弟子の背中をしばらく見つめていた。
「お前、自分の作った服で人が死ぬことについて……何も感じないの?」
その問いに、アーサーは手の動きを止めた。
長い沈黙ののち――
「感じますよ」
声はかすかに震えていた。「でも、それでも……正しいことだと思っているんです」
「正しい?」
「はい。彼女は生き続けることに耐えられなかった。夫の冷たい視線、若い愛人との比較、老いの痛み……それは生きながらの死でした」
「だからと言って、殺したのか?」
「違います」アーサーはまっすぐに師匠を見る。「僕は彼女を解放しただけです」
エルドラはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐いた。
「……お前は、本当に時々、恐ろしいほど正しいわね」
「責めるんですか、師匠」
「いいえ」エルドラは静かに首を振る。「お前の道はお前が選んだもの。私には、とやかく言う権利はない」
彼女は工房の隅の椅子に腰かけ、扇子を閉じた。
「ねえ、紅茶を淹れてくれない? 久しぶりに、ゆっくり話がしたいの」
アーサーは頷き、やかんに火をかけ、戸棚からダージリンの茶葉を取り出した。
湯が沸くまでの静かな時間が、工房に落ち着いた空気をもたらす。
やがて紅茶が淹れられ、二人はそれぞれのカップを手にした。
「アーサー」エルドラが口を開いた。「ひとつ、訊いてもいい?」
「何でしょう」
「お前は――自分の願いを、知っているの?」
アーサーはカップの中の紅茶を見つめた。
自分の願い。
それは、いつも自分にとって遠いものだった。
「いいえ。分かりません」
正直な答えが口をついて出る。「人の願いなら見えるのに……自分の願いだけは分からないんです」
「なぜだと思う?」
「多分……僕には願いがないからです」
エルドラの眉がわずかに動いた。
「願いが、ない?」
「はい。僕はただの仕立て屋です。人の願いを聞き、服を作り、その願いを叶える……それが僕の存在理由なんです」
「それだけ?」
「それだけです」
エルドラは弟子をじっと見つめ、柔らかく微笑んだ。
「……いつか、自分の願いに気づく日が来るわ」
「僕に、そんな日が?」
「ええ。きっと来る。その時、お前がどうするのか……私は楽しみにしてる」
アーサーは答えなかった。
夜は更け、窓の外の街灯が霧の中にぼんやりと滲んでいる。
どこかで、また誰かが願いを抱いているのだろう。
そして、その願いは、いつかまたこの工房へ届く。
アーサーは針を手に取り、次の依頼の布地に向き直った。
絡まり合う人の願いの糸を、静かに、淡々と紡ぎ続けるために。
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