第6話 近衛騎士団長の誓い
第六章 近衛騎士団長の誓い
朝霧が薄く漂う王宮の訓練場に、鋼が触れ合う澄んだ音が響き渡った。金属の高い音色が静けさを切り裂き、冷たい空気に震えるように残響する。
ローザリン・アシュフォードは剣を構え、正面の若い騎士を鋭く見据えた。
「もう一度だ」
凛とした声が、張りつめた空気を震わせる。
「構えが甘い」
二十歳にも満たない青年騎士は、額の汗を拭いもしないまま小さく頷き、構え直して踏み込んだ。
だが、その一撃がローザリンに届くことは一度もない。
彼女は風のように身をひねり、刃を軽く弾いた。青年はバランスを失って膝をつく。
「まだまだだ」
ローザリンは剣を静かに鞘へ収めた。
「お前の攻撃は力任せすぎる。剣とは、腕力だけで振るうものではない。技で、そして意志で振るうものだ」
「申し訳ございません、団長……!」
青年が頭を下げる。
「謝る必要はない」
ローザリンは手を差し出し、彼を立ち上がらせた。
「立て。もう一度やるぞ」
差し伸べられた手を取った青年の瞳には、尊敬と憧れがくっきりと浮かんでいた。
ローザリン・アシュフォード。
女性でありながら近衛騎士団長の地位にまで登りつめた稀代の剣士。
若い騎士たちにとって、彼女は憧れそのものだった。
その後も訓練は一時間以上続いた。
ローザリンは次々と若い騎士を相手にしながら、それぞれの癖に合わせて的確な助言を与える。
その立ち姿は、美しさと厳しさが同居するものだった。
剣を振るうたびに、その動きは舞うようにしなやかで、しかし一撃には鋭い殺気が宿る。
彼女の剣は芸術であり、そして武そのものだった。
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訓練を終えたローザリンは、訓練場の隅にある井戸へと歩いた。
汲み上げた冷たい水で顔を洗う。水の温度が火照った肌に染み込み、思わず深い息が漏れる。
空を仰ぐと、霧は消えはじめ、青空がゆっくりと覗き始めていた。
高く澄んだ秋の空を、一羽の鳥が横切っていく。
ローザリンは自分の手のひらを見つめた。
長年の鍛錬で固くなった剣だこ。
無数の古い傷跡。
それらは、彼女が歩んできた道そのものだった。
そして、ふと昔の光景が脳裏に蘇る。
ローザリンが初めて剣を握ったのは、七歳の頃のことだった。
アシュフォード家は代々武を誇る名門。
父も祖父も、そのまた前も皆が優れた騎士として名を馳せてきた。
しかし、当時のアシュフォード家には男児がおらず、跡継ぎはローザリンただ一人だった。
「女が剣を持つなど、アシュフォードの恥だ」
親族は口を揃えて非難した。
だが、ただ一人、父だけは違っていた。
父――エドワード・アシュフォードは、幼い娘の中に潜む才能を見抜いていた。
ある日、彼はローザリンに一本の木剣を差し出した。
「ローザリン、これを持ってみなさい」
小さな手で木剣を握った瞬間、ローザリンは言葉にできない感覚を覚えた。
重さは確かにあるのに、妙に手に馴染む。
まるで、自分のために用意されていたかのように。
「構えてごらん」
父は自身も木剣を構え、穏やかに言った。
「そして、私を打ってみなさい」
ローザリンはぎこちない構えのまま、思い切って走り出した。
振り下ろした攻撃は稚拙だったが、父の目は驚きと喜びに輝いていた。
「もう一度だ」
その日、夕陽が落ちるまで、父と娘の稽古は続いた。
「十分だ」
父は娘の頭に手を置いた。
「お前には才能がある」
「才能……?」
「ああ。お前はきっと剣士になれる。しかも、並の剣士ではない。誰よりも優れた、真の騎士になれる」
その瞬間から、ローザリンの人生は決まった。
彼女の毎朝は、夜明け前から始まった。
基礎の反復、素振り、足運び、体力鍛錬――ただただ地道で、辛く、退屈にも思える修練。
だが、ローザリンは一度も泣き言を言わなかった。
なぜなら、彼女には胸に抱いた強い目標があったからだ。
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ローザリンが十歳のとき、父の付き添いで初めて王宮を訪れた日。
それは彼女の運命を決定的に変える出来事となった。
女王アウレリア三世への謁見。
まだ三十代と若く、凛とした気品と優しさを兼ね備える統治者だった。
ローザリンは玉座の前に立った瞬間、緊張で体が固まった。
しかし女王は、硬直した少女を優しい眼差しで見下ろし、微笑んだ。
「これが噂の娘ですか、エドワード卿」
「はい、陛下。娘のローザリンにございます」
女王はローザリンに視線を向け、穏やかに尋ねた。
「あなたは剣を学んでいるそうですね」
喉がひりつくほどの緊張の中、ローザリンはかすれそうな声で答えた。
「はい、陛下」
「女の身で剣の道を選ぶとは。勇気のあることです」
「私は……強くなりたいのです」
「なぜ、ですか?」
ローザリンは迷いなく言った。
「人を、守りたいからです」
女王の目がわずかに見開かれ、彼女は玉座から立ち上がった。
そして階段を降り、ローザリンの前に膝をついて目線を合わせた。
「人を守る……それは尊い願いですね。では、誰を守りたいのですか?」
その問いに、ローザリンはしばらく言葉を探し、そして正直に答えた。
「まだ分かりません。けれど、誰かが困っているとき、助けられる人でありたいのです」
女王は微笑み、その小さな頭にそっと手を置いた。
「いつか、あなたが立派な騎士になったら——私を守ってください」
その言葉は、少女の胸にまっすぐに突き刺さった。
「はい! 必ず、立派な騎士になります!」
女王は満足そうに微笑んだ。
「楽しみにしていますよ、ローザリン・アシュフォード」
その日を境に、ローザリンの修行はこれまで以上に厳しいものになった。
「女王を守る」という目標は、幼い彼女の心をまっすぐに照らす灯だった。
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十二歳のときには、初めて本物の剣を使った実戦訓練が始まった。
何度も叩き伏せられ、全身が痣だらけになった。
それでも、彼女は決して膝を折らなかった。
十五歳のある日、ついに成人の騎士を打ち倒した。
周囲は騒然となり、父は涙を浮かべて娘を抱きしめた。
「お前は本物だ。……私の誇りだ」
そして十八歳。
ローザリンは女性として史上初の“騎士叙任”に臨む。
女王自ら彼女の肩に剣を置き、厳かに宣言した。
「ローザリン・アシュフォード。あなたを、この国の騎士として認めます」
ローザリンは膝をつき、深々と頭を下げた。
「私の剣は、陛下のものです」
あの日の誓いは、今も胸の奥で強く燃え続けている。
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それから十年。
ローザリンは数々の戦で功績を上げ、ついに近衛騎士団長となった。
女性でこの地位に就いた者は、これまでただの一人もいない。
だが、快挙の裏には絶え間ない偏見があった。
「女が団長など……」
陰口は今でも消えることはない。
それでもローザリンは、実力と誠実さで彼らを黙らせてきた。
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朝の訓練を終え、女王の護衛に向かう前に、ローザリンは礼拝堂へ足を運んだ。
王宮の礼拝堂は神聖で静謐な空気に満ちている。
ステンドグラス越しの朝日が色鮮やかな光を床に散らしていた。
ローザリンは祭壇の前に膝をつき、目を閉じた。
「父上……私は、誓いを守っています」
三年前、父は病で亡くなった。
最期の瞬間、父は弱々しく娘の手を握り、言った。
「お前は……私の誇りだ。そして、この国の宝だ。女王陛下を頼む……」
ローザリンは涙をこらえて頷いた。
「はい、父上。必ず、お守りします」
その日から彼女は、誓いにすべてを捧げてきた。
祈りを終えて立ち上がると、入口で若い騎士が息を切らして待っていた。
「団長! 緊急の報告です!」
ローザリンの表情が瞬時に引き締まる。
「何事だ」
「昨夜、東地区で魔女狩りがありました。マーサ・ブラックウッドという老女が……火炙りに」
ローザリンはゆっくりと拳を握りしめた。
「また……セディック・クロウか?」
「はい。目撃者によれば、彼が指揮を執っていたとのことです」
「罪状は?」
「病人を……ハーブで治したこと、だそうです」
ローザリンは奥歯を噛みしめた。
またしても、無実の市民が奪われた。
そして自分は……何もできなかった。
若い騎士が恐る恐る尋ねた。
「団長……私たちは、何もしなくてよいのでしょうか」
「女王陛下はバランスを保とうとしておられる」
ローザリンは静かに答える。
「我々が勝手に動けば、内乱の危険がある」
「ですが……」
「分かっている」
ローザリンは若者の肩に手を置いた。
「私だって、同じ気持ちだ」
若い騎士は唇をかみ、悔しさを押し殺した。
「だが、我々は陛下に仕える身。感情で動くことは許されない」
「……はい」
「持ち場に戻れ」
若い騎士は深く礼をし、駆けていった。
ローザリンはその場に一人残り、背中を壁に預けた。
どっと心の疲れが押し寄せる。
身体の疲労ではない。
“守れない”という無力感が、胸を締めつけていた。
自分は本当に女王を守れているのだろうか。
女王は憎悪と狂信を止めたいと願っている。
しかし、政治の均衡がそれを許さない。
剣では救えない命がある。
ローザリンは、その事実を痛いほどに思い知らされていた。
---
その日の午後、ローザリンは女王の執務室に侍立していた。
女王は机に広げた書類へ目を落としながら、重く長い溜息を漏らしていた。
「ローザリン」
女王が顔を上げた。
「昨夜の件、聞いていますね」
「はい、陛下」
「また無実の者が失われました……これで今月だけで五人目です」
女王の声には、深い疲労と痛みが滲んでいた。
ローザリンは言葉を失う。
「私は……無力です」
女王は窓の向こうへ視線を向けた。
「この国の統治者でありながら、一人の老婆も救えない」
「陛下のせいではございません」
「いいえ、これは私の責任です」
女王は首を振った。
「もっと強く出れば、異端狩りを止められたかもしれない」
「しかし、それでは内乱の危険が……」
「分かっています」
女王は目を閉じた。
「だからこそ、私は無力なのです」
部屋に重い沈黙が落ちた。
やがて、女王はゆっくりと立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
庭には秋の花々が咲き誇り、美しい景色が広がっている。
しかし、その向こうでは、憎悪が渦巻き、狂信が市民を飲み込んでいる。
「ローザリン」
背を向けたまま、女王が静かに言った。
「もし……私が死んだら」
「陛下!」
ローザリンは慌てて声を上げた。
「何をおっしゃっているのです」
「もし、の話です」
女王は振り返り、その瞳に覚悟のような光を宿していた。
「もし、私がセディック・クロウの手にかかったら……あなたはどうしますか」
ローザリンの答えは、ためらいを知らなかった。
「復讐いたします。そして、セディック・クロウを討ちます」
「復讐……」
女王は悲しげに微笑んだ。
「それでは、何も変わらないのですよ」
「では、どうすれば……」
「私が望むのは、復讐ではありません」
女王はまっすぐローザリンを見つめた。
「変革です。この国から憎悪と狂信を取り除くこと。それが、私の真の願いです」
ローザリンは女王の言葉を受け止め、深く頭を垂れた。
「ですが、陛下……どうすればそれを実現できるのですか?」
「それが分からないのです」
女王は静かに答えた。
「だからこそ、私は悩み続けているのです」
そう言うと、女王は執務机に戻り、引き出しから一冊の古い日記帳を取り出した。
「祖母の日記です」
日記を開きながら、女王は言った。
「この中に、一つの話が書かれているのですよ」
「どのような内容ですか?」
「願いを叶える仕立て屋の話です」
ローザリンは眉を寄せた。
「……願いを、叶える?」
「ええ」
女王は日記の一節を読み上げた。
「精霊の息吹を縫い込んだ服を作る仕立て屋。その服は、着る者の“真の願い”を叶えるのだそうです」
「お伽噺のように聞こえますが……」
「私もそう思っていました」
女王は静かに日記を閉じた。
「ですが祖母は、この魔女との出会いを、本当にあったこととして記しています。彼女はエルドラという名の、千年を生きる大魔女だったそうです」
ローザリンは息をのんだ。
「もし……本当にいるのだとしたら」
「もし、その仕立て屋が今も存在するのなら」
女王は窓の外に視線を向けた。
「私は……願いたいのです。この国から憎悪を消し去る方法を」
ローザリンは女王の横顔を見つめながら、自分の胸にもまた別の願いが生まれつつあることに気づいた。
「陛下」
ローザリンは静かに口を開いた。
「もしその仕立て屋が本当にいて、陛下の願いを叶えられるのなら……私も、一つお願いがございます」
女王が振り返る。
「何でしょう」
ローザリンは迷ったが、胸の奥底にある思いを言葉にした。
「陛下の重荷を、どうか……私にも分けてください」
女王の瞳が揺れる。
「陛下はあまりにも多くを背負っておられます」
ローザリンは続けた。
「私は陛下の剣です。ならば陛下の苦しみも、共に背負いたいのです」
長い沈黙の末、女王は柔らかい笑みを浮かべた。
「ありがとう、ローザリン。あなたがいてくれることが……私の救いです」
ローザリンは深く頭を下げた。
---
そのときローザリンは知らなかった。
彼女の願いは、もう精霊たちに届いていたことを。
そして遠く離れた小さな工房で、一人の仕立て屋が静かに銀の糸を手に取り、鎖帷子を編み始めていることを。
願いは、叶えられる。
ただしそれがどのような形をとるのか——
その答えを知る者は、まだ誰もいなかった。
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