第5話 魔女狩りの夜

第五章 魔女狩りの夜


夜の帳が降りるころ、ロンドン東区には、ひそやかな緊張が満ち始めていた。通りには松明を掲げた人々が集まり、その数は刻々と膨れ上がっていく。男も女も、そして幼い子どもたちさえも、何かに駆り立てられるように、同じ場所を目指して歩いていた。


その先頭に立つのは、セディック・クロウ。


白い司祭服に身を包んだ彼は、松明の光を浴びて神々しささえ漂わせていた。風に揺れる栗色の髪、端整な横顔。だがその瞳に宿っているのは、神聖さではなく、冷ややかな狂気だった。


「兄弟たちよ!」

セディックは群衆へ向けて声を張り上げた。

「今夜、我らは神の御心を執行する!」


歓声が響き渡る。その音は獣の咆哮のように夜空を震わせた。


「この街には悪魔の僕が巣食っている!」

セディックは続ける。「老婆マーサ・ブラックウッド。あれは魔女だ。禁じられた術で人々を惑わせている!」


「魔女を!」「火炙りに!」

群衆は口々に叫び返した。


セディックの口元が満足げに歪む。

人々を導く快感。自分は救済者だと信じ込むことで、胸の奥でまだ泣いている“少年”の声をかき消すことができた。


一行は路地を抜け、古びた住宅街へと入る。そこに、マーサ・ブラックウッドの暮らす小さな木造の家があった。傾いた屋根から漏れる灯りが、静かに揺れている。


セディックは手を上げ、群衆を制した。

静寂が落ちる。

彼は一歩前へ進み、扉を叩いた。


「マーサ・ブラックウッド! 出てきなさい!」


応えはない。だが内側で、微かな物音がした。


「無駄だ!」

セディックが叫ぶ。「お前の罪は明らかだ。大人しく出れば苦しまずに済む!」


しばしの沈黙ののち、扉がきしんで開いた。


姿を現したのは、七十を過ぎたであろう小柄な老婆だった。腰は曲がり、白髪は乱れている。皺の刻まれた顔には恐怖の色が濃い。だがその奥底には、かすかな尊厳が残っていた。


「何のご用でしょうか」

マーサは震える声で言った。


「異端の罪で告発する」

セディックは冷ややかに告げた。「お前は魔術を使い、神の教えに背いた」


「私は……病人を助けただけです。ハーブを煎じて、痛みを和らげただけで……」


「それが魔術だ!」

セディックの怒声が響く。「神の許しなく病を癒す力など、悪魔からの賜り物に違いない!」


群衆がざわつく。「魔女だ!」「悪魔の手先!」


マーサは首を振った。「違います。私はただ──」


その声は、群衆の怒号に掻き消された。


セディックが手下に合図すると、男たちは家に踏み込み、マーサを荒々しく引きずり出した。


「やめて! お願いです!」

マーサは必死に叫ぶ。

「私は何も──」


「黙れ、魔女!」

男の拳が飛び、マーサは地面に倒れ込んだ。血がにじむ。


セディックは冷酷な眼差しでその様子を見下ろしていた。何も感じないよう、心を固く閉ざす。感情を許せば、胸の奥の少年が囁くだろう。「これは間違っている」と。


それだけは、聞きたくなかった。


「広場へ連れて行け」

セディックは命じる。「火刑の準備だ」


男たちはマーサを引きずり、群衆は松明を掲げてその後に続いた。炎の揺らぎは、まるで地獄の口が開いたかのように夜を照らしていた。


広場には、既に火刑台が組まれていた。三メートルほどの柱の周囲に薪が高く積まれている。セディックの側近が準備していたのだ。


マーサは柱に縛りつけられた。

彼女は泣いていたが、誰もその涙に目を向けない。

群衆は興奮に酔いしれ、ただ火を求め叫び続けていた。


セディックは火刑台の前に立ち、静かに聖書を開いた。


「神は言われた」

彼は声高に読み上げた。

「『汝、魔女を生かしておいてはならない』――我々は今、その御言葉を実行する!」


群衆が歓声をあげた。


セディックは松明を取り、薪へと近づける。

炎がぱちりと音を立て、瞬く間に火が広がった。乾いた薪はすぐに燃え上がり、熱気が広場に満ちてゆく。


ほどなくして、マーサの悲鳴が空を裂いた。


「助けて! 誰か……! お願い……!」


だが、誰も手を伸ばさない。

群衆は歓喜し、拍手し、神の名を叫び続けた。

炎は渦を巻きながら勢いを増し、マーサの姿を飲み込んでいく。


セディックはじっとその光景を見つめていた。

火の揺らぎ、煙の渦、ひとりの人間が焼かれていく事実。

その顔には満足の笑みが浮かんでいる。


だが、その奥底には――恐怖なのか、罪悪感なのか、あるいはただの空洞なのか。何かが確かに潜んでいた。


やがて悲鳴は途切れ、残ったのは炎の爆ぜる音だけだった。


---


広場から離れた建物の屋上には、ふたりの影が立っていた。


ひとりはエルドラ。

孔雀の羽をあしらった扇を手に、彼女は火刑の光景を見下ろしている。真紅のドレスが風に揺れ、表情は冷ややかだったが、瞳には深い悲しみが宿っていた。


「また一人だ」

エルドラは低く呟いた。

「千年前と、何も変わらない」


その隣に立つのはアーサー・グレイ。

彼もまた、炎の明滅を静かに見つめている。優しい瞳には複雑な感情が渦を巻いていた。


「師匠」アーサーは問う。「止めないのですか?」


「止められると思うか?」

エルドラは首を横に振った。

「私が炎を消したところで、明日にはまた別の火が上がる。彼らの憎悪は、そう簡単には消えない」


「……では、ただ見ているだけなのですね」


「ああ。千年前も、今も、そうしてきた」


アーサーは師の横顔を眺める。

千年を生きた魔女――その眼には、積み重ねられた喪失の色があった。

どれほど多くの同胞が火に焼かれたのか。

どれほどの悲劇を見てきたのか。


「師匠は」アーサーが問う。「人間を、憎んでいますか?」


エルドラは長い沈黙ののち、静かに口を開いた。


「憎んではいない」

「人間は愚かで、残酷だ。だが、それも彼らの本質だ。嵐を憎まぬように、人間を憎むこともできはしない」


「嵐……」


「そうだ」

エルドラは炎の揺らぎを見下ろしながら言った。

「人間は感情という嵐に支配される。恐怖、憎悪、狂信……その渦のなかで溺れていく」


炎が突如高く伸び、煙が星空を隠した。


「だが時に」エルドラは続けた。「その嵐の中でも、立ち続ける者がいる」


「立ち続ける者……?」


「女王のような者だ」

エルドラは微笑んだ。

「アウレリア三世。彼女は、私の友人の孫だ」


「師匠の友人……?」


「ああ。エレノアという名の、優れた女性だった」

エルドラの瞳に懐かしさが浮かぶ。

「彼女とは、彼女が若い頃に出会った。私はすでに九百歳を超えていたがね」


「どんな方だったのですか?」


「気高く、賢く、優しい人だった。魔女を恐れず、対等に接してくれた。長い時を共に過ごしたよ」


「ではなぜ、今は会わないのです?」


「死んだのだよ、三十年前に」

エルドラの声は淡々としていた。

「人間は、そういう生き物だ。私が瞬きをする間に、彼らは生まれ、老い、そして去っていく」


アーサーは言葉を失った。


「だが」エルドラは続ける。

「彼女の意志は孫に受け継がれた。アウレリアは、祖母と同じように、すべての者を公平に見ようとしている」


「だから、女王は異端狩りに反対しているのですね」


「そうだ。だが彼女一人では、この嵐は止められない」

エルドラの視線が、火刑の前に立つセディックへと向かう。

「まして、あの若者の狂信は強すぎる」


アーサーもその姿を見る。

白い司祭服をまとい、炎の前で恍惚の表情を浮かべる青年――セディック・クロウ。


「彼の願いは……とても強い」

アーサーは呟いた。


「見えるのか?」

エルドラが問う。


「はい」

アーサーは頷いた。

「彼が本当に望んでいるのは、異端を滅ぼすことではありません」


「では何だ?」


「救済です」

アーサーは静かに答えた。

「彼自身の救済です」


エルドラは深く息を吐いた。

「そうか……やはり、お前には見えるのだな」


ふたりは再び沈黙に包まれ、燃え続ける炎を見つめた。


火はまだ勢いを失わない。

マーサ・ブラックウッドの身体は、もはや原形をとどめていない。

それでも群衆は興奮から冷めず、神の名を叫び続けていた。


やがて群衆へ向き直ったセディックは、両腕を広げて叫んだ。


「見よ! これこそが神の正義だ!

異端は必ず滅びる。

我らの信仰こそが勝利をもたらすのだ!」


群衆は歓声を上げ、拳を突き上げた。

その喚声は街中にこだまし、夜を震わせる。


だが――その喧騒から離れた場所で、ひとりの老人が静かに立っていた。


ファーザー・トーマス。


老いた神父は遠巻きに火刑台を見つめていた。

襞だらけの顔には深い悲しみが刻まれ、頬には静かに涙が伝っていた。


「セディック……」

トーマスはかすれた声で呟いた。

「お前はどこへ行ってしまったのだ」


彼の脳裏に蘇るのは、幼い少年の姿だった。


暖炉の前で震えながら眠っていた、あの夜の少年。

初めて自分の名前を与えられ、嬉しそうにはにかんだ少年。


――セディック。


あの子は一体どこへ消えてしまったのだろう。


今、炎の前に立つ青年の姿は、もはや別人だった。

美しい顔の下に狂気を潜ませ、人々を扇動し、神の名を騙り、無実の者を裁く怪物。


「私の……せいだ」

トーマスは自責の念に沈む。

「私が、彼を救えなかった……」


風が吹き抜け、炎が大きく揺れた。

火の粉が夜空に舞い上がり、まるで星のように散っていく。


トーマスは手を組み、祈りを捧げた。

マーサのために。

そして――セディックのために。


「神よ……どうか、彼らを救いたまえ。

犠牲者も、加害者も……すべての者を」


だが神は答えなかった。

燃え続ける炎だけが、無慈悲に光と熱を放っていた。


---


やがて薪が尽き、火は徐々に弱まり始めた。

群衆も次第に静けさを取り戻していく。


ようやく、ほんの少しの理性が戻ってくる。

彼らは自分たちが何をしたのか、ぼんやりと気づき始めていた。


――一人の老婆を殺したのだ、と。


しかし罪悪感を抱く者はいない。

なぜなら、これは神の御心だと、セディックが教えてくれたから。


セディックは満足げに広場を見渡した。


「今夜の勝利を、神に感謝しよう」

彼は穏やかに言った。

「だが、まだ終わりではない。この街には多くの異端が潜んでいる」


群衆は力強く頷いた。


「明日も我々は戦い続ける!」

セディックは拳を高く掲げた。

「異端を、一人残らず滅ぼすまで!」


「神に栄光を!」

群衆は叫び返した。


セディックは笑みを浮かべた。

その瞬間だけは――彼は確かに、生きる意味を感じていた。

自分は正しい。

自分は必要とされている。

自分は、救われている。


だがその笑顔の裏で、胸の奥深くにいる少年が声を上げていた。


「助けてくれ」

「誰か、俺を救ってくれ」


セディックはその声を聞かぬふりをした。

そして群衆とともに広場を後にした。


---


屋上のエルドラとアーサーは、去っていく群衆を見送っていた。


「行こう」

エルドラは静かに言った。

「ここにいても、何も変わらない」


「はい」

アーサーもうなずく。


ふたりは屋上を離れ、夜の闇に溶けていった。


だがアーサーの胸には、セディックの顔が深く焼きついていた。

狂信の仮面の裏に隠された、救済への渇望。

それはあまりにも強く、そして――痛いほどに悲しかった。


工房へ戻ると、アーサーはまっすぐ作業台に向かった。

引き出しを開け、白い布を一枚取り出す。


「何を作るつもりだ?」

背後からエルドラが静かに訊ねた。


「まだ分かりません」

アーサーは布にそっと触れた。

「ですが……いずれ、彼の願いが僕のもとへ届く気がするんです」


「お前は、彼のために服を仕立てるつもりなのか?」


「もし彼が、心の底から“救い”を求めるのなら」

アーサーは針を手に取りながら答えた。

「僕は、その願いに応えるつもりです」


エルドラは言葉を返さなかった。

ただ、弟子の横顔を静かに見つめる。


アーサーの指先には、精霊たちが集まり始めていた。

針が白布へ向けられると、空気がわずかに震える。


「人の望みは数あれど――」

アーサーは呟いた。

「そのすべてが絡まり合って、この世界を形づくっているんですね」


窓の外では、まだ煙が立ちのぼっている。

マーサ・ブラックウッドの身体が燃えた煙が、夜空に溶けていく。


その向こうから、深夜を告げる鐘の音が響いた。

重く、低く、ゆっくりと。


新しい一日が始まろうとしている。

だが、この街に平和が訪れる気配はなかった。

明日もまた、誰かが犠牲になるかもしれない。


それでも――


仕立て屋は針を動かし続ける。

願いを聞き、糸を紡ぎ、布を縫い合わせる。


人々が望む限り、彼の仕事が終わることはない。


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