第4話 狂信者の誕生
第四章 狂信者の誕生
十年前。
ロンドンの裏路地で、一人の少年が身を縮めていた。十三歳のセディック・クロウ──当時の彼にはまだ姓すらなく、ただ「少年」と呼ばれるだけの存在だった。
秋の冷たい雨が容赦なく降りつけ、薄汚れた布切れのような服では寒さをしのぐことなどできなかった。体の芯まで冷えきり、歯はガチガチと鳴る。三日間、何も食べていない。空腹は鋭い痛みに変わっていた。
そのとき、路地の入口から重い革靴が水たまりを踏みしめる音が近づいてきた。少年が顔を上げると、黒いコートを着た男が立っていた。顔は影に隠れて見えない。しかし危険な匂いだけははっきりと伝わってきた。
「お前か」低い声が降ってくる。「噂に聞く“素早い手”のガキは」
少年は返事をせず、ただ警戒の色を宿した目で男を見た。
「名前は?」
「……ない」
かすれた声でそう答えると、男はひとつ息を吐いた。
「そうか。なら、つけてやろう。今日からお前は──道具だ。分かるな?」
道具。その言葉は、孤児院で耳にタコができるほど叩き込まれたものだった。使えなければ捨てられる。ただそれだけの存在。
「ついて来い。仕事がある」
少年は立ち上がろうとしたが、足がふらついた。それでも“仕事”と聞けば従うしかない。食べ物にありつける可能性があるのなら。
男はさらに暗い道へと進み、古びた倉庫の前で立ち止まった。軋む扉を開けて中に入ると、奥には蝋燭の灯りが揺れている。数人の男たちが集まり、危険な気配を漂わせていた。少年は直感で理解した──犯罪組織だ。
「連れてきたぞ」
奥から一人の男が現れた。傷だらけの顔、鋭い目つき。どう見てもこの組織のボスだ。
「こいつか。噂以上に痩せこけてるな……だが目がいい。生き延びる意志がある」
ボスは少年の顎を掴み、顔を上げさせた。抵抗すれば殺される──少年の体は本能で動きを止める。
「選ばせてやる。一つはここで働くことだ。盗み、スリ、時には殺しもする。その代わり食事と寝床は与える」
ごくりと唾を飲む。もう一つは聞くまでもなかった。
「二つ目は断って出ていくことだ。三日と持たず飢え死にするか、縛り首かだ」
倉庫の中に重い沈黙が降りた。
「どうする?」
考えるまでもなかった。
「……働く」
「いい子だ。今日からお前は、この組織の一員だ」
こうして、セディック・クロウの地獄は幕を開けた。
最初の一年はスリや窃盗に明け暮れた。長く器用な指先は、相手の意識に一切触れずに財布を抜き取る。その技術は魔法のようだった。
だが、それは序章にすぎない。
二年目。少年は暗殺の訓練を受けることになった。ナイフの扱い、毒の調合、そして──最も重要な“心を殺す”訓練。
「感情は捨てろ。お前は道具だ。道具に心はいらない」
その言葉は毎日のように繰り返された。やがて少年は本当に感情を亡くした。人を殺しても心が動かない。血を見ても何も思わない。ただ命令を実行する“機械”になっていった。
三年目。十六歳になった少年──まだ“セディック”という名も持たない彼は、初めて暗殺任務を与えられた。標的は組織を裏切った男。
「確実に仕留めろ。誰にも見られるな」
ボスの命令に頷き、少年は夜の街に溶け込んだ。標的の家を張り込み、深夜の帰路を待つ。やがて男が一人で路地に入った瞬間、影から滑り出た。
月光を反射したナイフが閃く。標的が振り返った時にはすでに遅い。少年の動きは鋭く、正確だった。一撃で心臓を貫く。
石畳に赤い血が広がっていく。少年はその光景をじっと見つめた。だが、胸の内に生まれる感情は一つもなかった。
こうして彼は、完全に「道具」となった。
──だが、運命は残酷であり、同時に奇妙なほど慈悲深い。
四年目、少年は新たな任務を命じられた。教会の神父を殺すというものだった。組織の秘密を知りすぎたらしい。
夜の教会。静まり返った聖堂の奥で、白髪の老人が祈りを捧げていた。背は曲がり、体も細かったが、その背中にはどこか崇高な気配が宿っていた。
少年は音もなく近づき、背後から一撃を加えるつもりだった──
その瞬間、神父が振り返った。
目が合った。恐怖も驚きもない。ただ深い悲しみと慈しみが浮かんでいる。
「やあ」神父は穏やかに言った。「君が来ることは、分かっていたよ」
少年は一瞬、動きを止めた。なぜ逃げないのか。なぜ怯えないのか。
「私を殺しに来たのだろう?」
「……仕事だ」
少年がかすかに答えると、神父は目を細めた。
「殺しなさい。私は逃げないよ」
少年はナイフを構えた。だが、手が震えた。これまで一度もなかったことだった。
「どうしたのかね?」神父は優しく問いかける。「できないのか」
「……分からない。どうして、怖がらない?」
「怖いとも」神父は微笑んだ。「とても怖い。だが、それ以上に──君の方が心配なのだ」
「俺が?」
「そうだ」神父は立ち上がり、少年に近づいた。「君は子供だ。だが、すでに多くの命を奪ってきた。その心は深く傷ついている」
その言葉を聞いた瞬間、少年の心が揺らいだ。本能的に感じた──この男は自分を“道具”として見ていない。
その時だった。
教会の扉が激しく開き、組織の男たちが入り込んできた。
「逃げろ! 貴族の護衛が押し寄せている!」
混乱の中、神父は少年の手を掴んだ。
「君も来るんだ!」
「俺が……?」
「私と来なさい。あの者たちのところへ戻ってはいけない」
少年は迷った。だが、神父の目には一切の嘘がなかった。
“初めて自分を人として見てくれた”
その確信が胸に灯り、少年は頷いた。
神父は少年を裏口から連れ出し、夜の街を駆け抜けた。剣戟と悲鳴が背後に響く。だが二人は別の教会へと逃げ込み、やっと足を止めた。
小さな古い教会。質素だが、どこか温かい。
「ここなら安全だ」神父は言い、少年に毛布をかけた。暖炉に火が灯され、温かいスープが差し出される。
少年は一口飲んだ。熱が喉を通り、体に染み込む。ようやく気づいた──自分は、ずっと寒かったのだと。
「名前は?」神父が尋ねた。
「……ない」
「そうか。ならば私がつけてあげよう。“セディック”。どうだろう」
「セディック……」
「古い言葉で“正義を探求する者”という意味だ。君にふさわしい」
“自分の名前を持つ”
その感覚を、少年はゆっくりと味わった。
「私はファーザー・トーマス。これからよろしく、セディック」
その晩、セディックは生まれて初めて、安心して眠った。
翌朝、セディックが目を覚ますと、ファーザー・トーマスはすでに朝食を用意していた。パンとチーズ、そして温かいミルク──質素だが、心をほっと緩ませる食事だった。
「食べなさい。君は痩せすぎている」
セディックは無言で頷き、パンを口に運んだ。柔らかく、香ばしく、そして驚くほど優しい味がした。喉を通るたびに胸が熱くなり、涙が込み上げたが、その流し方を忘れてしまっていた。
「セディック」
トーマスは真剣な眼差しで言った。
「君は、これから新しい人生を始められる」
「……新しい、人生?」
「そうだ。過去は消えない。君が犯した罪も重い。だが、神は全てを許してくださる。悔い改めれば、誰でも生まれ変われる」
セディックは思わず問い返した。
「俺のような人間でも?」
「君は人間だ」トーマスは静かに断言した。「道具なんかじゃない。一人の大切な人間だ」
その言葉は、セディックの胸の奥に深く刻まれた。
こうして彼は、トーマスの下で暮らし始めた。教会の掃除を手伝い、聖書を学び、読み書きを覚え、歴史を知り、そして──“愛される”という感覚を少しずつ取り戻した。
「神はすべての者を愛している」
トーマスは何度も繰り返した。
「罪人も、弱者も、迷える者も。すべてを等しく愛している」
セディックはその言葉を信じようとした。いや、信じたかったのだろう。自分も愛されてよいのだと──そう思いたかった。
だが、四年間の組織での生活は深い傷を残していた。
セディックは夜ごと悪夢を見た。自分が殺した人々の顔が次々と現れ、彼を責め立てる。
「お前が殺した」
「お前は悪魔だ」
ある夜、セディックは叫びながら目を覚ました。体中が汗で濡れ、震えが止まらない。
トーマスが駆けつけ、抱きしめた。
「大丈夫だ。もう大丈夫だ」
「俺は……俺は悪魔なんだ。許されるはずがない!」
「いいや、違う」トーマスは力強く言った。「神は必ず君を許す」
「どうして……どうしてそう言えるんだ?」
「神は慈悲深い。君が悔い改めているからだよ」
セディックはその腕にしがみつき、長い間押し殺してきた感情をすべて吐き出した。悲しみ、罪悪感、恐怖──そして、救われたいというどうしようもない渇望。
その夜、セディックは初めて“泣く”ことを思い出した。
日が経つにつれ、彼は人間らしさを取り戻していった。笑うこと、泣くこと、信じること。それらを一つずつ学び直した。
──しかし、彼の信仰は、ある事件をきっかけに、ゆっくりと、そして確実に歪んでいく。
セディックが十八歳の頃だった。
教会に一人の女性が逃げ込んできた。ハーブを使って病人を治したため“魔女”として追われているという。
「彼女は無実だ」
トーマスは迷わず彼女を匿った。
「どこに罪があるというのか」
だが数日後、異端審問官が教会に踏み込み、女性を無理やり連れ去った。止めようとしたトーマスは殴られ、床に倒れた。
翌日──
女性は火炙りにされた。
炎が燃え上がり、悲鳴が響き、群衆が歓声を上げる。セディックは遠くからその光景を見つめていた。
その瞬間、彼の中で何かが音を立てて崩れた。
教会に戻ると、彼は問い詰めた。
「なぜだ。なぜ神は彼女を救わなかった?」
トーマスは苦しげに答えた。
「神の御心は、我々には分からない」
「分からない?」
セディックは怒りを抑えられなかった。
「無実の人間が殺されても、それで終わりなのか?“神の意思”で片付けるのか?」
「セディック……神を疑ってはいけない」
「疑ってるんじゃない! 答えを探しているんだ!」
その頃から、彼は聖書をむさぼるように読み始めた。正典だけでなく、古い文献、異端とされた書物にまで手を伸ばした。
そして──一つの結論にたどり着く。
「悪が栄えるのは、人々の信仰が足りないからだ」
すべての者が真に神を信じれば、悪は滅びる。異端も魔女も、この世から消える。
そのためには、迷いのない“純粋な信仰”が必要だ。
そう確信したセディックは、教会を出る決意をした。
「どこへ行くのだ」
トーマスが問う。
「神の御心を実現するために」
セディックは静かに答えた──その瞳には、もうかつての温かさはなかった。
「この世から悪を滅ぼす。異端を、一人残らず」
「セディック、それは神の望むことじゃない! やめるんだ!」
トーマスの叫びは、もはや彼に届かなかった。
セディックは教会を出て街へ消えた。
その背中を見送りながら、トーマスは涙を流した。自分が救ったはずの少年が、新しい地獄へと歩き始めてしまったことを悟って──。
──それから五年。
セディック・クロウは、ロンドンで最も恐れられる“異端狩りの扇動者”として知られるようになっていた。
街角に立ち、その美しい顔と鋭い声で、人々の心を鮮やかに掴んでいく。
「神は純粋さを求めておられる!」
「異端は我々の信仰を汚す!」
「魔女は悪魔の僕だ! 彼らを滅ぼさねば、この世に救いは訪れない!」
群衆は熱狂した。セディックのカリスマに酔いしれ、その言葉を疑いもせず受け入れた。
彼の“狂気の純粋さ”は、人々を魔法のように魅了した。
セディック自身は、ゆるぎなく信じていた。
自分は神の御心を成し遂げているのだと。
自分こそが、この世界を浄化する使命を負っているのだと。
だが──
彼の心の奥深くには、今もなお、あの少年がいた。
暗い路地で雨に濡れ、震えながらうずくまっていた、名もなき少年。
“道具”と呼ばれ、やがて人を殺す機械に成り果てた、あの弱く幼い魂。
その少年は、今も胸の底で叫んでいる。
「たすけてくれ」と。
けれどセディックは、その声に耳を塞いだ。
もし聞いてしまえば──
自分の信仰が、実は孤独と恐怖の果てにゆがんだものだと気付いてしまうから。
“救い”と思い込んでいたものが、自分を守るための歪んだ殻にすぎないと知ってしまうから。
だから彼は、さらに激しく、さらに残酷に異端を狩り続けた。
喧噪と炎が、少年の声をかき消してくれる限り。
そして、ある日。
彼は決意する。
──究極の異端を滅ぼす、と。
女王を。
殺す。
それが神の御心であると信じて疑わず、セディック・クロウは新たな“浄化”へと歩みを進めていく。
その先に、さらなる地獄が待ち受けているとも知らぬまま。
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