第9話 悪魔との取引
第九章 悪魔との取引
一週間後。
セディック・クロウは、再び仕立て屋の工房を訪れていた。前回この場所を後にしたときに覚えた、あの説明しがたい違和感――それが、胸の奥に今も残っていたからだ。だからこそ、今回はより慎重に、より警戒を強めて足を踏み入れたのだった。
アーサー・グレイという男。あの仕立て屋は、まるでセディックの心の底を覗き込むように言った。「あなたが本当に望んでいるのは、救済です」と。
馬鹿げた話だ――セディックは何度も自分にそう言い聞かせた。自分の願いはただひとつ、神の御心を実現すること。異端を根絶すること。それ以外に何の望みがあるというのか。
だが、その夜から悪夢が続いた。
幼い自分が、暗闇の中で泣いている。助けを求めている。だが誰も来ない。そこにあるのは、底なしの孤独だけ。
目覚めるたびにセディックは汗びっしょりで、胸は苦しく、祈りにすがった。神に救いを求めた。
しかし――神は沈黙したままだった。
それでもセディックは、結界に守られた小道を進み、工房へと辿り着く。扉を押し開ける。
中ではアーサーが作業台の前に座っていた。窓から差し込む月光が彼の栗色の髪に淡い光を落とし、その姿はまるで絵画の一場面のように静謐だった。
「お待ちしておりました」
アーサーは顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「服は、できたのか」
セディックは余計な言葉を挟まず問いかける。
「はい」
アーサーは立ち上がり、作業台の脇の箱を開けた。
「こちらになります」
箱から取り出されたのは、小さな緑色の服だった。
まるで森の妖精が身につける衣装のようだ。明るい緑の布に金糸の縁取り。短い袖。裾には繊細な刺繍が施されている。さらに同じ布地の帽子がセットになっており、その先端には小さな鈴がついていた。
「……緑の小人」
セディックは低く呟いた。
「民間伝承に出てくる、幸運を呼ぶ精霊か」
「その通りです」
アーサーは服を丁寧に広げながら言った。
「この服を着た子供は、人々に幸運をもたらすと信じられています」
「だが、お前は“死を呼ぶ服”だと言ったな」
「ええ」
アーサーは静かに頷いた。
「外見は幸運の象徴ですが、実際には――着た者の“真の願い”を叶える服です」
セディックは服へ一歩近づいた。
指先で布地に触れる。滑らかで柔らかい。しかし、その奥底に、氷のような冷たさが潜んでいるのを感じた。
「……どう使う」
セディックは低い声で訊ねた。
「子供に着せてください」
アーサーの声は淡々としていた。
「その子が心の底から“死”を望んでいるなら、服の力が発動します」
「そして、女王が死ぬ」
「はい」
アーサーは表情を変えずに答えた。
「ただし、条件があります」
「条件?」
「子供が、女王の前に立つことです」
アーサーは襟元の刺繍を指先で示した。
「ここに縫い込まれた模様が二人の運命を結びつけます。子供の死が、そのまま女王の死となる」
セディックは金糸で描かれた複雑な図柄を凝視した。絡み合う線は、まるで逃れられぬ運命の糸のようだった。
「……完璧だ」
セディックは満足げに笑みを浮かべた。
「これなら、誰も私を疑わない」
「ですが、一つだけ忠告があります」
「何だ」
「この服は、着た者の“真の願い”を叶えます」
アーサーの瞳は、柔らかい光を湛えながらも鋭かった。
「もし子供の願いが“死”ではなかった場合……まったく別の結果が起こるかもしれません」
「心配するな」
セディックは冷えた声で言い放った。
「完璧に洗脳する」
アーサーは何も言わず、静かに服を箱へ戻した。
セディックが箱を取ろうとしたとき――
アーサーが、不意に声をかけた。
「セディック・クロウ様」
「……何だ」
「あなた自身のための服も、お作りしましょうか」
セディックの手が、わずかに止まった。
「……私自身の?」
「はい」
アーサーは作業台の上に置かれた白い布地にそっと触れた。
「この服の役目を果たした後、あなた自身にも新たな願いが生まれるかもしれません」
「どういう意味だ」
「人は、一つ願いが叶うと、次の願いを抱くものです」
アーサーは淡々と言葉を続けた。
「女王が死んだあと、あなたは何を望むのでしょう」
セディックは言葉を探すように黙り込んだ。
そして答えた。
「さらなる浄化だ」
「この国から、すべての異端を取り除く」
アーサーは首をかしげるように問い返す。
「本当に、それだけですか」
「それ以外に何がある」
アーサーはしばらく黙ってセディックを見つめた。
その瞳は深く、まるで心の奥底まで届くようだった。
「あなたは――」
アーサーはゆっくりと言った。
「“完璧な神の戦士”になりたいのではありませんか」
セディックの胸が、強く脈打った。
核心を、突かれた。
完璧な神の戦士――
それこそが、彼が誰にも言えず抱えてきた“本当の願い”だった。
罪からの解放。過去の贖罪。そして、神からの承認。
「……なぜ、お前に分かる」
セディックは震える声で言った。
「精霊たちが教えてくれます」
アーサーは穏やかに微笑んだ。
「あなたの魂が、何を求めているのかを」
その瞬間、セディックは悟った。
この男は危険だ。
自分の秘められた弱さを、すべて見抜いている。
だが同時に――
彼は魅了されていた。
もしこの男が、自分の“救い”を形にしてくれるのなら。
「……では」
セディックは深く息を吸った。
「私のための服を作れ」
「どのような服をご所望ですか」
「完璧な神の戦士になるための服だ」
セディックは力を込めて言い切った。
「神に仕え、異端を滅ぼし、そして――」
彼は言葉を飲み込んだ。
アーサーが、静かに促す。
「そして?」
「……救われる」
セディックは誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
「この、果てしない苦しみから」
アーサーは深く頷いた。
「承知しました」
アーサーは白い布地を手に取り、別の箱から金色の糸を取り出した。
「白と金……」
彼は布を光にかざしながら静かに言った。
「純潔と神聖を象徴する色です。この布で、聖職者の衣のような服を仕立てましょう」
「いつ完成する」
セディックが問う。
「二週間ほどいただければ」
アーサーは答えた。
「こちらは複雑な魔術を必要としますので」
「分かった」
セディックは懐から金貨袋を取り出し、迷いなく差し出した。
「対価は同じでいいのだな」
「はい」
アーサーは受け取り、いつもどおり確認もせずにしまった。
「では――二週間後にまた来る」
緑の小人の服が入った箱を抱え、セディックは扉の方へ向かう。
「お待ちしております」
アーサーは穏やかに頭を下げた。
扉に手を触れたそのとき、背後からアーサーの声が再び響いた。
「セディック・クロウ様」
セディックは振り返る。
「あなたの服は――」
アーサーの声は、どこか悲しみを帯びていた。
「きっと、あなたを救います」
「救う……?」
セディックの眉がわずかに動いた。
「はい」
アーサーの瞳は澄んでいた。
「ただし、その“救い”がどんな形になるかは……あなたの真の願い次第です」
セディックは言葉を失った。
しばらく無言のまま立ちつくし、やがて扉を開けて霧の夜へと姿を消した。
工房にはアーサーだけが残された。
彼は白い布地を撫でながら、深く、重く息をついた。
「また、始まったのだな」
裏口から声がした。
振り向くと、エルドラが孔雀の羽の扇子を手に立っていた。
「はい」
アーサーは頷く。
「運命の糸が再び絡み始めました」
「……お前は、本当にあの男を救うつもりなのか」
エルドラはゆっくりと工房の中に歩みを進めた。
「僕は、ただ彼の願いを叶えるだけですよ」
「それが、彼の死を意味したとしても?」
アーサーは沈黙した。
エルドラは弟子の隣に立ち、白い布に視線を落とす。
「この布は……殉教者の衣だ」
「はい」
「お前は、彼を殉教者にするつもりなのか」
「いいえ」
アーサーは首を横に振る。
「彼自身が殉教者になることを選ぶのです」
エルドラは深く息を吐いた。
「お前の仕事は……時に残酷だ」
「願いを叶えることが、残酷なのですか?」
「残酷だとも」
エルドラははっきりと言った。
「人は自分の“真の願い”を知らない。そして、それを知ったとき……後悔することもある」
「ですが――」
アーサーは師匠を見つめる。
「後悔も、その人の人生の一部です」
その言葉を聞いて、エルドラは思わず微笑した。
「本当に、お前は私の想像を超えていくな」
二人はしばし無言で白い布を見つめた。
やがてエルドラが口を開いた。
「アーサー。一つ聞きたい」
「何でしょう」
「もしも――女王が願いを持ってここに来たら、お前はどうする」
アーサーは少しの間考え、そして答えた。
「女王の願いも、叶えます」
「たとえ、それがセディックの願いと矛盾していても?」
「はい」
エルドラの表情が引き締まる。
「では……どちらの願いが優先される」
「精霊たちが決めますよ」
アーサーの声は揺らがなかった。
「僕は、ただ服を作るだけです」
エルドラは黙り込み、深いため息をついた。
「アーサー……お前はいつか、自分の選択の重さに押し潰されるかもしれない」
「かもしれません」
アーサーは静かに認めた。
「でも、それも僕の運命なら、受け入れます」
エルドラはその肩に手を置く。
「私は、お前を止めない。お前が選んだ道だ」
「ありがとうございます、師匠」
エルドラは微笑み、そして裏口へ向かった。
去り際に、ふと振り返る。
「アーサー。忘れるな」
彼女の声には温かさと厳しさが同居していた。
「願いを叶えるには、必ず代償が伴う。そしてその代償を払うのは――依頼主だけではない」
アーサーは静かに頷いた。
エルドラが姿を消すと、工房には再び静寂が満ちた。
アーサーは作業台に腰を下ろし、白い布を広げる。
針を手に取ると、周囲に精霊たちが集まってくる。いつもより多く、いつもより強く輝きながら。
「始めましょう」
彼の呟きとともに、針が布を貫く。
一針。
また一針。
セディック・クロウのための服――
“完璧な神の戦士”にするための服。
だがその実、殉教者の衣にもなりうる服。
それは救済をもたらすだろう。
だが、その救済が“死”という形をとる可能性を、アーサーは知っていた。
それでも――止まることはできなかった。
これが彼の役割であり、宿命だったからだ。
願いを聞き、服を作り、運命を紡ぐ。
それがアーサー・グレイという仕立て屋の生きる道。
窓の外では、夜が徐々に深みを増していった。
雲間から顔を覗かせた月が工房を照らす。
月明かりに照らされた白い布は、神聖な光を放つように見えた。
しかし同時に――それは死の気配も帯びていた。
同じ頃――。
セディック・クロウの隠れ家では、彼が緑の小人の服を見つめていた。
それは、子供に着せるための服。
女王を殺すためだけに作られた服。
セディックは、自らの組織が管理する孤児院のことを思い浮かべた。
そこには、親に捨てられ、社会に見放された子供たちが大勢いる。
その中から一人を選ぶ。
そして、徹底的に洗脳する。
女王は悪だと。
女王を殺すことこそが、神への奉仕だと。
だが、それだけでは不十分だ。
――子供自身に、“死”を望ませなければならない。
セディックは冷ややかに笑った。
簡単なことだ。自分も同じように育てられたのだから。
絶望を与え、希望を奪い、“死こそ救いだ”と教え込む。
「……完璧だ」
セディックは満足げに呟いた。
だがそのとき――
心の奥底から、小さな囁きが聞こえた。
「お前も、あの子供たちと同じだ」
「お前も、死を望んでいる」
「この苦しみから、解放されたいのだろう」
セディックは頭を振り、声を追い払った。
箱を閉じ、緑の小人の服をしまう。
明日から計画を実行する。
子供を選び、洗脳し、服を着せる。
そして――女王を殺す。
それが神の御心だ。
そう自分に言い聞かせる。
しかしその夜、再び悪夢が襲った。
暗闇の中で、幼い自分が泣いている。
「助けてくれ」
「救ってくれ」
そして、誰かが差し伸べた手。
それは――大人になった自分の手だった。
だがその手は救うためではなく、
幼い自分の首を――
絞めていた。
セディックは叫びながら目を覚ました。
呼吸は荒く、汗で全身が濡れている。
心臓は激しく脈打ち、視界が揺れた。
「……夢だ」
彼は呟いた。
「ただの夢だ」
だが、その夢の意味は否応なく胸にのしかかった。
幼い自分を殺す――
それは過去を否定し、自分自身を切り捨てること。
本当にそれが正しいのか。
セディックはまた祈った。
しかし、神は答えなかった。
ただ静寂だけが、部屋を満たしていた。
――その同じ夜。
王宮の書斎では、女王アウレリアが一人、祖母の日記を読んでいた。
願いを叶える仕立て屋の話。
そして、“エルドラ”という魔女の名。
「もし……」
アウレリアは呟いた。
「もし本当にあなたが存在するのなら」
彼女は窓の外に目をやった。
霧の深い夜。
そのどこかに、仕立て屋はいる。
そして、もしかしたら――
自分の願いも、叶えてくれるのかもしれない。
この国から憎しみを消し去ること。
異端狩りを終わらせること。
すべての民が安らかに過ごせる世界を作りたい。
それが女王アウレリアの願いだった。
だが、それが可能なのか――
彼女自身にも分からなかった。
アウレリアはそっと溜息をつき、日記を閉じた。
そのとき――ふわりと風が吹いた。
窓がわずかに開いていた。
そして風とともに、ありえないものが運ばれてきた。
薔薇の香り。
この季節に、薔薇の香りなどするはずがない。
だが確かに、そこに漂っていた。
アウレリアは思わず立ち上がる。
次の瞬間――声が聞こえた気がした。
「あなたの願いは、聞き届けられました」
アウレリアは周囲を見回す。
誰もいない。
ただ夜風が静かに吹き込み、彼女の髪を揺らしているだけ。
「……気のせいかしら」
そう呟いたものの、アウレリアの胸には奇妙な確信が宿っていた。
――なにかが動き始めた。
運命の歯車が、ゆっくりと回り始めている。
その先に何があるのか。
まだ、誰にも分からない。
だがひとつだけ確かなことがある。
“願いは、叶えられる。”
それだけは揺るがぬ真実であった。
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