2

(あの時は本当に、死ぬかと思った)

 悠汰ゆうたは思い出していた――


 森は、鮮やかな色で、穏やかな音で、涼やかな香りで、緩やかな雰囲気で、彼を迎え入れた。母なる――と形容するのがどこまでも相応しいような、そんな緑。

「ねえ、蒼天そうてん

『……何だ?』

「魔物ってさ、どうなんだろう」

『……どう、とは?』

 少年、悠汰はずっと歩いていた。

 単なる散歩。そのはずだった。

「う~ん……なんていうか、全部が悪ってわけじゃないんだよね?」

『そうだな。でなければ、我々のようなモノは存在せぬことになる』

「うん。だよね」

 うなずき、自分の意見をより堅固なものにできた実感に浸る。が、また新たに、何かが心ににじむ。うなずきの中途のうつむき加減。そこで静止。それをそのまま、自分の表情を隠す仕草に彼は利用した。

『急に、どうしたのだ』

 自分の横に棚引くように連れ添っている守護体しゅごたいに言われた。その、蒼天に向けて、

「うん……」

 少年は、その声だけを、ひとまず聞いていることの印とした。

「何となく思うんだ……魔物と人って、同じなんじゃないかって。ほら、声も、姿も、心だってあるし。認められれば、人間の守護姿しゅごしにだってしてもらえるし」

「……そうだな。ではく。我を龍のままにしているのは、なぜだ?」

「うーん。それはやっぱり、取り込んだ時の姿のままでいたいのかな……って思ったから」

『我がか?……まあ心遣いは嬉しいがな』

 よかった――悠汰は正直にそう思った。だが、そう思わせられる魔物もいるという証明は、相変わらず彼の悩みの種をも育てた。

 魂術こんじゅつを行なうには『魂整こんせい』という儀式が必要だった。守護名しゅごめいと守護姿を決めること、即ち召喚をできるようになること。それだけでなく、魂玉こんぎょくを創造できるようになること。悠汰は、それを行なえるようになる時に、初めて出会った時のその姿を思い出していた。その青いクリスタルのような龍に、時を同じくして、彼なりの名を付けた――蒼天と。

 さっきまでのやり取りで彼はに落ちたのを感じた。何か大切さを得た充実感。しかし、その代わりに膨らむ不安感もあった。

「大抵の魔物はどういう積もりでいるんだろう」

『うん?』

「だってさ……理由があるんだよ、人を襲うのにも。人は、その脅威に対して力が無ければ自分を護ることだってできやしないけど、僕らは違う。僕らはそれを抑えることができる。止めることができる。もしかしたら、相談にだって……乗れるかも」

『……お主の、心意気次第だな』

「うん……頑張るよ」

 悠汰は悩みの種がき消えるほどに縮んだのを実感した。晴れ晴れとした乾いた気分によって、その顔からも苦渋が消える。

「よし! そろそろ時間だ、帰ろう!」

『うむ』

 そう会話し、そのあおさを取り込んだ時だった。

 一つの爆音が鳴った。地面を揺らすほどの。

 すさまじい音をとどろかせたものは何なのか――

 それを探した。

 いたのは巨大な黒犬だった。そちらに悠汰が体を向ける。と、そこで、

『邪魔だ小僧!』

 と声が聞こえた。

 犬の方からではなかった。では、その声はどこなのか――と悠汰は視線を周囲にやった。

 どこか蒼天と似た響きの声だった。今のはきっと魔物の声だと、悠汰には思えた。

(魔物同士……?)

 思考さえもが邪魔する中で、闇をまとったような巨犬が途てつもない速さで接近した。直線を走るレーシングカーのように。

退しりぞけと言っているのがわからぬか!』

 さっきの声はやや遠くからだったのだろう――と悠汰は結論付けるものの、たった今の声さえも、どこからのものか、誰のものかがわからなかった。悠汰はまだその姿を捉えられていない。

(――!)

 その時、目の前が真っ白になった。何かが現れたからだ。白い大きな何か。

 それの声がさっきから――とわかっても、それは遅かった。

 一瞬、目を閉じた悠汰だったが、よく見開き凝らした目で眺めると、そこに来たのは馬だと知れた。

 真っ白な毛並みで、三つの角が生えた馬。その一本は、一角獣のそれのように眉間の上部から前へ伸び、そこから口の方へ折れ曲がり、横から見た顔のラインと同じ向きに伸びている。他の二本は、額から左右対称に前へ突き出、そこから後ろ向きに折れ曲がり、同じ程度伸びている。

 その姿は厳かだった。だが。

『ぐっ』

 さきほどと同じ清らかささえある声の、うめき。

「……?」

『死んだな。ここにはもう用はない。少年……』

 黒き巨犬は口をパクパクとさせ、太い声を悠汰の脳に響かせた。

『お前の御蔭おかげだな、邪魔してくれた御蔭で、こいつに言わせれば邪魔した所為せいで、死ぬ』

「え……」

 重たいものが、少年、悠汰の胸に溜まる。

 馬が倒れた。そして悠汰は見下ろした。

 穴が開いていた。白に、赤が滲み、中央が黒ずんで――首元の奥が見えそうだった。

「あ、あの――」

 それは無意識だった。訳もわからない内に出ていた声は、訳をわかることもできない内に森のざわめきに同化した。その先に続きもなく、静寂が鳥のさえずりを高尚な音楽のように思わせるのみだった。そこに、いや、彼の心に――

『そなたをかばったまで』

 新たな声が響いた。響き続ける。

『庇わなければそなたが死んでいた』

 巨犬が何をしたのか。理解できないのはそこのせいだと――悠汰は思い、目をやった。

 そこに、あの犬はもういなかった。

 辺りにもいない。姿がない。気配も。

 悠汰は馬に視線を戻すと、声を一所懸命に振り絞った。そして出たのは、

「でも、君が……」

 というたった二言だけ。

『死が近付いている。このままでは私はそれを遂げるのみ』

「でも! 何か、できるよ。生きられるよ! きっと――」

 根拠はなかった。気休めになったかどうかも不明。申し訳なさまである。自分がいたせいだと。

 ただ悠汰は見下ろした。綺麗な毛並み。荘厳過ぎて、出来事への素直な感情を邪魔するほどの。

『そなたの一部になることで生きることはできる。魔物は、命名とともに人に宿るモノ』

 悠汰はひらめいた。そこに時の隙間などなかった。

「なら僕の、目になって! 僕の目の前で死なないでよ」

 初めはゆっくりと――最後は早口だった。突然吐き出され始めた時には震えがあり、目に涙が溜まり離れなかった。

 人の、そして自分の無力を実感させられた。悠汰は震えた手を差し伸べた。

 彼は眼鏡越しに歪む視界を見ていた。眼鏡というのは戦闘にも不向き。なのに身体からだに巣食う蒼さばかりが強く、目の前のすべてを護りたくさせる。白い天馬でも、何でも。そして粒が垂れても留まり視界を遮った。

『ふっ――』

 その吐息に、悠汰は耳を澄ました。目も凝らした。

『そんな事で良いのならば……私はそなたと。ともにろう』

 そう心に語りかけると、白馬は。そして悠汰の身体の中へと、その両目を口にして入り込みながら、再び声を響かせた。

『私の名は?』

「うん……紫眼っていうのは? 紫の目をしていたから」

 悠汰は頭上に目をやった。

 風に揺れる木の葉。その隙間からわずかにのぞける空色までもが紫がかっていた。若干、青さが多いくらいの、そんな時間帯の空。すみれ色というのが近い。その色が、今度は彼の目に宿った。

「うん……頑張るよ」

 自分の中の、あらゆる像に対して、悠汰はつぶやいた。

 ――死んだのは、それまでの自分。今の自分は、今のものでしかない。明日はもっと違う自分になっている。悠汰はそう望んだが、子供ながら、そう思うしかできなかったとも言えた。


 三つの角。全身の白い毛並み。そして、菫色の目。分かたれたもう一方の目を固く閉ざしている。

 馬の紫眼。

 それが、正継まさつぐの代わりに狼を前にした悠汰ゆうたの眼前に、現れた。

 そしてグレーの制服で身を包む悠汰のからは、完全に光が消え失せていた。それどころか、今はそこに眼球がない。

「……ほとばしる稲妻に抱かれよ」

 ヴォウン――!

 最後の一声を発したのと同時に、天馬の全身からすさまじい電流が放出された。

 あの頃の巨大な黒犬ではなく、赤い巨狼が、大きく倒れた。

 そして、狼の形の魔は、魂素こんその塊と化し、風に吹かれると、塵のごとく消えた。

「紫眼、戻って」

『うむ』

 斜陽を右手から受けながら、眼前の空気に溜め息を混ぜる。復活した左目の存在感を左手で確かめると、悠汰は、蒼天を呼び出した。そして急ぐようにして、正継に任せた部屋へと戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る