3

(ふう)

 大分痛みが引き、そうなって始めてまともに呼吸をしたのではないかと、矢川やがわ正継まさつぐは錯覚した。

「――で、助けてほしい、とは……何をどんな風に?」

 正継は、ゆっくりと姿勢を整えながら、ソファーに腰掛けた。窓側にもソファーはあるが、それに向かい合う同じもののやや右側に、だ。

 まだ身体からだの節々がきしむが、彼の痛みはそんなに大きくはなかった。

 この部屋の女性が、声を震わせた。

「あ、あの……私の子供が……その、なんだか……変、なんです」

「変?」

「……はい。その……どうしたらいいのか、わからなくて」

 正継は頭を左腕で抱え込んだ。その手で頭をく。持て余した右腕でその辺を示すような動作をして、彼はもう一度尋ねることにした。

「どんな風に変なんですか?」

「う、生まれて二か月なんですけど、その……あの……」

 その後、女性の言葉が続かないので、正継は考えた。

(生まれて二か月か……っていうか、魔物がむんじゃなかったのか? これじゃ普通の、医者と親子の会話だ、どう見ても)

 おかしいのは赤子だという話だが、本当にそれだけだろうかと、正継はどうにも納得できなかった。

(赤ん坊が魔物を宿した? いや、何か起こすとしたら、赤ん坊が守護名しゅごめいをどうする?『あうあう~』とかにするのか? まったく馬鹿げてる。何か起こせるはずもない。でも起こってる。魔物そのものがここにいるんじゃないのか? 例えば……例えば……親としてここにいるこの女性がそう……とか?)

 その思考が終わった、その時だ。

 タン!……パン! パン!

 最初のは着地の音。そして、続いた二つは、靴の底同士をたたき合わせる音だった。

 窓の外には洲田すだ悠汰ゆうたが戻ってきていた。彼は脱いでいた靴を手に持ち、守護たいである蒼天をその身に入れることで消した。そして入ってきて正継を見つけると――

「あ、矢川さん、任務完了しましたよ」

 と、ひとまずは靴を玄関に置きに行こうとした。正継は、そう言えば自分も靴のままだ、と思い出し、追いながら、

「あー、すまんな。俺だと相性が悪くてな。運動能力も最初から分が悪かった」

 と、溜め息交じりに。

「……あー、で、魂術こんじゅつ能力は、どんなものなんですか? 知っておくと対応の時に助かるので」

「まあそうだが、それは後だ」

 立ち話もなんだからということで、目で、正継が合図した。女性にでもあったが、ソファーに目を。

 靴を玄関に置いて戻ると、正継はさっきと同じ場所に。その向かいに悠汰が座った。

 当人の女性は、ダイニング用の軽い木の丸椅子を持ってきて、それに座った。そして。

「私の子が……その……泣くと、よく、物が壊れるんです」

 言い難そうに彼女は言った。

 悠汰は、その言葉から、おおよそのそれまでの流れを推測した。

 理解をしようとするのはどちらもだったが、正継は対策の参考にするために例を幾つか聞こうと考えた。

「その場合、どこが特に壊れるんです?」

「え? ええっと、水道管の、パイプとか、あと、コンロとか、です」

「水道管やコンロ……?」

 正継が繰り返して首から上を傾ける横で、悠汰は、仮定をつなげていた。

(水と火の口……。赤ちゃんは明らかに魔物の適合者――? この人は、そうだと思って話しているのかな……僕らと魔物の違いは一般的にはわからないだろうし。そりゃあ、本家相手じゃないと話す気にはならないだろうけど……)

 時同じくして、正継も、心の底で考えていた。

(まぁた火か。いや、ガスか? ふむ……それと水。元が二つか、もしくは、二種類の魔物。あり得るのか? 俺は一つ。誰だって一つのはずだ。考えろ……摩擦か? 金属か?……それにしても――)

 と、正継が気にしたのは女性の口振りだった。

(まるで何も知らないみたいじゃねえか。赤子のことを外に漏らしたくなくて俺たちにでさえも最初は黙って……というか戸惑ってた。どこから漏れたってんだ?)

 悠汰が座っている今の位置からではコンロは見えない。問題の危なそうな実態を、悠汰は何とか想像しながら――

「その子の父親は、どんな方なんですか?」

 と。

 すると、女性の身体からだが一瞬硬直した。それを見たから、

「関係あるんですね」

 と正継が言い切った。

 悠汰は勘考を進める。

(もしかして、父親が人型の魔物で、異例だから対処に困った……ってことなのか?)

 その考えを裏付けるような返答を待って、その問題の赤ん坊を、悠汰は探して見詰めた。リビングのすぐ横にいて、見やすい位置にいる。

 とても小さかった。その大きさもさることながら、その手のぷっくり感、頭の黒くちょこんとした毛、それや肌の軟らかな存在感……愛らしさの塊だ。

「あ、あの。彼は……私とは違って、その……」

 と、彼らに届いた女性のか細い声は、正継の眉間にしわを作った。正継も赤ん坊に視線をやった。そして心の中で、

(あの子の父親が情報を漏らしたのか?)

 と思いながら、彼女の止まった言葉の先を待ち続けた。

「魔物……なんです…………――私たちは」

(…………は?)

 面食らったのは、そう思った正継だけではなかった。悠汰は問い掛けた。

「た、たちって? え、じゃあ、あなたたちの両方が、魔物?」

「じゃあ聞きますけど。あなたの能力は?」

 正継の問いに、女性は――

「あ、あの! すみませんでした! だまして……すみませんでした!」

 言いながら、必死にこうべを垂れながら謝った。

 それを受けて、悠汰が。

「いえ、いいんですよ別に。そのフリも、言い難いのも、何かあったんでしょう? 分かります、こちらも……魔物を、自分のたおすべき相手だとしか思っていない人が多いんですよ。あー、で、その……能力ですけど、あなたのそれはどんなものなんですか?」

 女性が隠そうとしたのは自分自身のことだった。赤子の事実を隠すには、彼女自身が邪魔になるかもしれなかった。だが人はここに来た。彼らが。

 それならと、赤子のことは言うしかなかったが、それでもばれないようにすれば、自分が何らかの処理をされずに済む――後々赤子を護るために……そういう意図があったのだ。

 しかし、後ろめたくなった。それに――

(この人たちなら、大丈夫)

 と、既に思っていた。今その想いは繰り返された。下手な対策を立てられて家族皆が死ぬより先に、知ってもらいたいと。それを、その気持ちを、彼らになら託すことができると、彼女は思ったのだった。

「私の力は、水です」

「なるほど。それで……その子の父親の能力は?」

「主人は……酸素です」

(主人……ね)

 正継まさつぐはそこに、ゴッコ遊びのような、人間擬態のようなものを感じた。ただ、その気持ちは微量だと思いたがった。

 悠汰ゆうたは、

(主人……人間と同じだ)

 と考えた。

「子供の能力は、察するに、その両方か、もしくは、過酸化水素、オキシドール……と言ったところだな」

 と声にしたのは正継。

 しかし、それを判別しようにも、そのどれかだという確証もなく、確認の手段もないに等しい。というより、そんな手段を実行するには対象が余りにも低年齢。

 この部屋に来た目的。それが問題解決である以上、やるしかない。彼女らの生活を変えても、それによって得られるものがあるのなら。そもそも彼女らの為に――と悠汰は考えた。

「僕の任務は、あなた方の問題の解決です。周辺の人に迷惑にならないように、あまり人のいない場所に移れば、何とかなるかと。ですから、態々死なせるようなことは絶対しません。何があろうと絶対にです。三人全員を保護して、僕らの校舎の近くに住まわせてもらえるように、お願いしますので、一緒に来てもらえませんか? いいですよね?」

 悠汰は、慎重に言葉を連ねた。どう言うべきか、ある程度決めてはいた。

 両方が黒髪で、悠汰はどちらかと言うと赤みのある黒髪だったが――より黒い頭髪をワシワシとしてから、正継が付け加える。

「そうかなるほど。じゃあ解決しそうだな。後は、彼の言う通り、あなた方の安全の問題ですね。ご主人は今どこに?」

 もう大丈夫だろうと確信していた。そんな彼がそう言うと、静かに、さっきまでの困惑を取り戻してしまった声音で、女性が。

「主人は……清掃員の仕事に……もう、帰ってくると思いますけど」

 その女性の最後の声が届くや否や、ドアの開く音がした。

「誰かいるのか?」

「あなた!」

 どう見ても人間同士の夫婦にしか見えない。人型だからということではなく、その表情、動き、声質――全体の雰囲気そのものが人間のそれなのだ。

 そして悠汰はふたりに向けて――

「それでは行きましょう。ここから、僕らのいた校舎へはヘリを使って飛んで行くことになります。それまでは徒歩で、警察や自衛隊の基地に向かうことになります」

 とりあえずの提案。

 正継もそのようなことを考えた。

 問題の赤子の母は無言。父親はと言うと。

「そういうことか。わかった。しかし大丈夫か? この近くには『赤狼あかおおかみ』の魔物の巣がある。変な刺激を与えなければいいんだが」

 この部屋の、主の声。渋く、脳で反芻したくなる広がりと太さのある心地良い声だと悠汰は感じた。

(ああ、僕もあんな声になるのかな)

 などと、夢に浸りながら、はたと状況の悪さに気付いた。

「えっ!? あ、あれって、何体もいるんですか?」

「ああ、そうだよ」

「やば、斃しちゃったし――。一体だけだけど」

 その仲間意識が強固なのかどうかは、悠汰と正継にとって、わからないことではあったが、任務に支障を来たす可能性が浮上したことには変わりなかった。

 正継に言わせれば、まだ任務が残っているらしいということより、手間が増えた感の方が大きかった。そしてまだ残っているという赤狼の場所――を適当に決め付け、そこに向けて――やれやれと溜め息を吐き、

「まあしょうがないか。……のんびりしても意味ないし、さっさと行きましょうか」

 と。

「そうですね」

 女性はそう言って赤ん坊を抱きに行った。

 赤ん坊は静かだ。平穏そのもののように。

 その子――男の子――を胸に抱いた姿で彼女が三人の前へ戻ると、正継と悠汰は、魂玉こんぎょくを目の前に生み出した。

 最も年長である家主の男はと言うと、それを生み出さない。自身がその塊の存在だからだ。というより出せないが、能力を最大限に発揮できるように、彼もまた精神を集中。

 そんな中で、

「行きましょう」

 という、やっと強く出た声。

 それは、強き母を思わせる声だった。

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